六章 飛翔の先に

希望の光

 七月三一日。午前四時半に剛司は目を覚ました。スマホのアラームを止めた剛司は、外から聞こえる雑音に顔をしかめる。急いで外に向かった剛司の目の前には、最悪の光景が広がっていた。

 雨はまだ止んでいなかった。

 剛司は急いでスマホを操作して、天気の確認をする。予報だとこの時間帯は既に雨雲は離れ、晴れる予報になっている。それなのにどうして雨が降っているのだろう。レーダーにもない雲がこの周辺にあるとでもいうのか。パラグライダーは天候に左右されるスポーツ。雨だと当然パラグライダーができなくなってしまう。

 しかし剛司の胸中には、目の前で絶えず降り続いている雨よりも風の不安があった。

 雨は飛ぶ時間帯には上がっているはず。それよりも雨上がりの風が心配になってくる。雨上がりは風が強く吹く可能性が高い。風が強すぎると、当然パラグライダーで飛ぶことができない。スカイスポーツにとって、切っても切り離せないのが天候だった。

 剛司は遠くの空に視線を向ける。まだ日の出時間を迎えていないせいで辺りは暗かった。それでも、うっすらと明るくなっている部分も見受けられる。雲はそれほど厚くないみたいだ。

 とりあえず晴れることを剛司は願った。

 スマホが震え、メッセージが届いたことを剛司に伝える。剛司はスマホに視線を移し、内容を確認した。光からだった。

『おはよう。もう着く』

 剛司は目の前の道路を覗き込む。ライトを点けた車が、一台こちらにむかってくるのが見える。光の車だと直ぐにわかった。ワインレッドの車はウィンカーを出し、プレハブ小屋の前にあるスペースで止まった。ドアガラスが開き、光が顔をのぞかせる。

「おはよう、剛司」

 剛司は傘をさして光の近くに駆け寄った。雨はしとしとと降り続いている。

「おはよう」

「車、このままでいいか?」

「うん。ほとんど車通らないから大丈夫だと思う」

「そうか。朋と二人で話すだろ?」

「……うん」

 助手席には亮が寝ているのがみえる。その寝顔が剛司の気持ちを楽にさせた。

 光が後部座席に座る朋に声をかける。暫くしてゆっくりとドアが開く。剛司の目の前に朋が現れた。

「おはよう、朋」

「…………」

 剛司の問いかけに朋は応じてくれなかった。目線を合わすことすらしてくれない。

「ごめん、ちょっと朋を借りるね」

 そう光に告げ、剛司は自らの傘に朋を招き入れる。朋は俯いたまま剛司の横に立つと、ゆっくりと歩き出す。剛司は朋の歩幅に合わせるようにして、一緒にプレハブ小屋へと入った。

「そのテーブル付近に座って。何か飲む? って言っても麦茶しか出せないけど」

 気丈に振る舞う剛司とは打って変わり、朋は先程から何も話してくれない。剛司は麦茶をグラスに注いだ。こうして何か作業をしていないと、見えない何かに押しつぶされそうな気持になる。

「はい、麦茶」

 剛司はテーブルにグラスを置いた。朋は先程から立ちっぱなしで、席に座ろうとしてくれない。朋の考えていることが剛司にはわからなかった。

 暫く沈黙が続いた。雨音が先程よりも激しさを増す。まるで二人の心を表しているかのようだった。

「剛司……」

 沈黙を破ったのは朋だった。掠れた声に反応した剛司は、身体を朋の方に向ける。朋は俯いたまま、振り絞るように声を発した。

「お前はまだ、変わりたいと思ってるのか?」

 朋の身体が震えている。怖いのかもしれない。剛司はそう思った。朋は今、確実に怖がっている。そう思ったのも、その原因を作ったのが自分だと気づけたから。

 今から剛司が言う言葉は、朋の心を切り裂くかもしれない。

 でも、朋とちゃんと話さないといけない。青羽の元へ特訓に来てから、その気持ちはより強くなった。この間も結局は朋の話を聞くだけで終わってしまった。まだ二人で真剣に会話ができていない。この機会を作ってくれた光のためにも、剛司は朋に告げる。今自分が一番伝えたいことを。

「うん。僕は変わりたいよ。これからも変わっていきたいと思ってる」

 剛司は真っ直ぐ朋に視線を送った。絶対に逸らさない。そう剛司は決めていた。

 朋は握り拳を作っている。そんな朋に剛司は続けて話す。

「でも、僕はその前に朋に謝らないといけない」

「……謝る?」

 朋が今日初めて剛司の目を見てくれた。大きく目を見開いた朋は、剛司の言葉の意味をさぐるように様子を窺ってくる。剛司は朋に告げる。

「今までずっと朋に頼り切っていた。それが今の僕達の関係を作ってしまった。今、朋が悩んでいる原因は僕にある。だから謝りたい」

 ごめん、と剛司は朋に向け頭を下げた。

「な、何言ってるんだよ、剛司。俺はお前が頼ってくれれば、今まで通りの関係でいてくれればいいんだ。別に謝る必要なんて」

「それは違うよ」

 剛司は力強く言い切った。朋は開いた口をゆっくりと閉じていく。

「あの時、朋は言ったよね。僕が変わったら一番下になるって。でも、僕はそうだと思わない。だって僕は、今でも朋の方が上だと思っているから」

「ふざけるな!」

 朋が睨みつけてきた。鋭い目つきに剛司は思わず息を飲む。

「剛司は俺を馬鹿にしたいんだろ。自分を変えることができた。だからもう俺に頼らなくてもいいと思ってる。それって俺が必要なくなったってことだろ。だったらそうはっきりと言ってくれよ」

 朋の顔がゆがんだ。必死に何かをこらえている表情を見せている。

「違う……違うよ、朋」

 剛司は変わりたいと思った。でも公園で朋に言った言葉は間違いだった。

 あの時の剛司はまだ何もわかっていなかった。一人で頑張ることが、変わることだと思っていた。でも、本当に言いたかったことにようやく気づけた。パラグライダーの指導を受けて、わかったことがある。

 だからこそ、剛司は告げる。朋に言いたいことを。


「僕は今の朋との関係はよくないと思ってるんだ。だからもう、終わりにしようよ」


「クソッ」

「と、朋!」

 朋は剛司に背を向けると、勢いよく入口に向かっていく。剛司は朋の背中を追いかける。

 言いたいことを剛司は言った。でも剛司はまだ全てを言うことができていない。まだ伝えられていないことがある。

 ここで言えないと一生後悔する。剛司はそう思った。だからこそ逃げる朋を絶対に捕まえる。

 朋は傘もささずに外に出ていった。剛司もそのまま目の前の朋を追いかける。剛司は必死に手を伸ばした。朋の服を掴み、逃げる朋を引き留める。

「離せ……離せ、剛司」

「やだ、僕は離さない」

「何やってるんだよ」

 その光景を目撃した光が、車から駆け寄って来た。二人の仲裁に入る。もみくちゃになっていた剛司と朋は光になだめられた。剛司も朋も既に服は濡れ、髪の毛から水滴が滴り落ちていた。

「剛司、ちゃんと話した?」

 光が剛司に視線を向ける。光の問いに剛司は首を横にふった。

 剛司は朋と向き合う。まだ朋に伝えてないことがある。言えてないことがある。

「朋、話を聞いてほしいんだ」

「…………」

 朋は黙り込んでいる。それでも剛司は朋に告げる。

「僕が変わりたいと思ったのは、朋に迷惑をかけたくなかったから。最初はそれが理由だった。だからこそ一人で頑張ろうと思った。変わりたいという思いを抱いている憧と出会って、その気持ちがより強くなった。でも、気づいたんだ。僕は変わりたいと思っているにも関わらず、今でもずっと人に頼っていることに」

 朋は顔を上げ、剛司を見つめてきた。しっかりと朋の双眸をとらえることができ、剛司は内心ほっとした。朋は話を聞こうと思っていると、剛司は認識する。

「パラグライダーの指導を青羽さん達に頼んで、多くの人の指導を受けてきて、それに協力してくれる人もたくさんいて。僕は一人で頑張るつもりだったけど、いつの間にか多くの人を巻き込んでた。光にも今日、朋をここに連れてきてもらった。本当なら自分でやらないといけないことだった。それに亮にも頼った。一度諦めかけていた時に、亮が飲み会に誘ってくれて。その時に出会った、楓のお蔭で考えが変わったんだ。憧に出会ったのもそう。みんながくれた靴がなかったら、憧には決して出会えなかった」

 様々な人達の支えで人は生きている。

 そのことに剛司は気づくことができなかった。ずっと他人に縋ってきたから。

 考えもせずに言われた通りのことしか、やってこなかったから。

「結局、僕一人じゃ何もできなかったんだ」

 剛司は朋から視線を逸らした。目が熱くなり、思わず声が震える。それでも降り続く雨のお蔭で、どうにか気持ちをごまかした。朋に視線を戻し、剛司は続ける。

「だから朋に言いたい。僕は変わったって言われるようになった。だけどそれは朋と同じ位置に立てただけなんだよ。僕がみんなよりもずっと下だったから。こうして今、やっと肩を並べることができた。だから最初から僕の上にいる朋は僕よりもずっと上なんだ。僕は今でも朋の方が上だと思ってる」

「剛司……」

「だけど、そのことが朋を苦しめているなら、一度なかったことにしたい。今の関係は全てリセットしたい。これからはお互い信頼し、頼っていける。そんな関係を築いていきたいんだ」

 剛司は大きく息を吐いた。

 やっと朋に伝えることができた。今まで話してこなかった全てを、剛司はやっと言うことができた。朋とこれからも関係を続けたい。だからこそ今までの関係をなかったことにする。それが剛司の望みだった。

「それじゃ、俺はどうすればいい。もう……なんかわからない」

 剛司が下にいることが存在の証明になる。そう朋は言っていた。そこまで思わせてしまった剛司は、朋に対してかける言葉が見つからなかった。

 そんな時、能天気な声が剛司の耳に響いた。

「俺らがいるじゃん」

 亮がいつの間にか光の横に来ていた。剛司も朋も、光さえも驚いている。

「途中からしか聞いてなかったけど……要するに、朋はちょっと他の人よりも神経質ってだけだろ? 別に俺は一番下とか上とか順位はどうでもいいと思っている。確かに学校のテストとかでケツの順位は嫌だけどよ。それは努力でなんとかできる。なら、俺らの関係だってそうじゃね? 一緒にいる友達とかって順位は関係ないだろ? だってよ、この四人でいると楽しいじゃん。俺はそれだけで十分だと思うけどな」

 亮は口角を上げ、笑みを見せた。それを見た朋の表情が徐々に変わっていく。眉間に寄っていたしわは、いつの間にか消えていた。

「亮もたまには良いこと言いますね。自分もそう思う。朋はもうこのグループに欠かせない存在。三人でも、まあそれなりに面白いかもしれない。だけど、やっぱり四人でいないと始まらない。朋がいないグループに意味はない。剛司が変わろうと、朋の居場所はここにある。このグループは、四人じゃないと成り立たないんだから」

 光はそう告げると、朋の肩を軽く叩いた。亮もそれに続いて朋の肩を叩く。

「……ごめん。俺は……」

 言葉に詰まった朋は俯いて顔を隠した。

 亮や光のかけた言葉は朋の心を動かした。剛司が動かせなかった最後の扉を開いたのは、二人だった。その証拠に、朋の目からは涙が溢れていた。

 剛司は改めて思う。やはり四人でいるのが一番良いんだと。

 亮と光がいつもの騒がしい雰囲気で朋を包んでいる。その光景を見た剛司は、心が温かくなった。

 剛司はふと空を見上げる。いつの間にか雨は止み、朝日が昇っていた。冷たい風が剛司の濡れた髪の毛を乾かす。

「それより剛司。さっき、楓ちゃんのこと呼び捨てにしましたね」

「えっ? な、何のことかな」

 とぼけても光には通じなかった。

「この野郎!」

「痛い、痛いって」

 光が剛司の頭をぐりぐりとこねくり回す。痛くて止めてほしかったのに、剛司はその気持ちを口にしなかった。今はこうして皆といられることが、何よりも嬉しかった。この時間が続いてほしい。そんな気持ちを剛司は抱いていた。

「剛司」

 朋の声が聞こえ、剛司は光から離れる。そして朋と向き合った。

「その……何て言えば……」

 下を向く朋に向け、剛司はゆっくりと手を差し伸べた。

「ここから始めようよ。僕達はずっと友達だよ」

 顔を上げた朋は、剛司の言葉を聞くなり唇をかみしめた。そして一度俯いてから、剛司と目を合わせた。

「ありがとう、剛司。その……少しだけ時間をくれないか? 今はちょっと……」

「うん。待ってる」

 朋は剛司の手を握ってくれなかった。

 急には変われない。

 それは剛司自身、体験してきたことだ。

 だからこそ一歩一歩進めばいい。

 朋との間にはたくさんの時間があるから。


 剛司の心は、ブルーサーマルのように雲一つない快晴が広がっていた。

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