リスタート

 友恵と別れた剛司は、憧に気持ちを伝えようとログハウス前にやってきた。偉い人と出会って以降、剛司は一度もこの場所に足を運んでいなかった。何となく気まずい空気がお互いの間で流れている気がしていたから。もう駄目だと思い込んでいたこともあり、ログハウスを訪れる機会は二度とないと思っていた。

 でも、今は違った。

 剛司はもう一度やり直そうという気持ちに満たされている。

 自分が関わったとしても、どうすることもできない。今まではそんな甘えた考えをしていた。だけどそんな考えを持っていたからこそ、上手くいかなかったのかもしれない。

 今は憧と一緒に飛びたい。

 憧を飛ばすのは自分だ。

 そう思えるくらいの意気込みが、剛司の中で芽生えている。だから憧に伝えたかった。自分の意志を、最後まで諦めない気持ちを。

 決意を胸に、剛司はドアをノックした。

 ノック音が周囲に響き渡る。

 雑音が一切ないこの空間は、本当に心が安らぐ気がする。

 暫く待ってみるも、憧は出てこなかった。部屋の明かりを確認しようと、窓側に回った剛司は中の様子を覗き込む。誰もいる気配がなかった。

 剛司はもう一度ドアをノックしようとした。

「剛司君?」

 掠れた声が剛司の耳に聞こえてきた。間違いなく憧の声だとわかるのに、その弱弱しい声音に剛司は胸が苦しくなった。

「憧……あのさ、話したいことがあって。中に入れてくれるかな?」

 憧の様子を確かめたい。憧が今どんな気持ちで、どんな表情をしているのか。手を繋ぐだけでもわかるはずなのにと、剛司は懇願する。

「ご、ごめんなさい。今日は……帰って」

 その一言が剛司の胸に突き刺さった。拒否をされるとは思っていなかった剛司は、口をきゅっと結ぶ。言葉にできない感情が体内を駆け巡っている気がする。

 ドアの向こうには憧がいるはずだ。それなのに剛司は憧に届かない。触れることすらできない。ドア一枚の壁がとても大きな隔たりを作っている。それは今の剛司と憧の関係を物語っているように思えた。

「わかった。だけど伝えたいことがあるんだ。これだけは憧に聞いてほしい」

 憧から返事はなかった。だけど剛司には伝えなければいけないことがあった。話さないとわからない、言葉にしないと伝わらないことがある。自分が伝えたい気持ちを、今は言葉に乗せて憧に届けたいと剛司は思った。

「七月三一日の朝八時。ログハウスに憧を迎えに来る。だから僕を信じて待っててほしい」

 憧からの返答はなかった。それでも続けて剛司は話す。

「絶対に迎えに来るから。僕はまだ諦めていない。だから憧も諦めないでほしい。一緒に頑張ろうよ」

 暫く沈黙が続いた。憧は言葉を発してくれなかった。

 風が剛司の頬をなでる。いつもは心地よい風が、今は何故だか煩わしく感じた。重苦しい空気が剛司を締め付ける。言葉にできないもどかしさを感じる。

 憧にどれだけ伝わったのかわからない。それでも剛司は諦めたくない思いを伝えた。こうして言葉にできたことが、剛司は少しだけ嬉しかった。

「僕の大切なもの憧に託すよ。だから、次に会う時まで持っていてほしい」

 剛司はお別れの決意を固めた。自分が今まで頼ってきたもの。それは剛司を縛り続けていたのかもしれない。

 一歩先に進むために。

 過去の自分とお別れするために。

 新たな自分に生まれ変わるために。

 大切なものには変わりない。それでも、その先に見える新しい世界を掴めるなら。剛司は自分の大切なものを手元から失くしてもかまわないと思った。

「それじゃ、僕はもう行くよ。頑張ろうね、憧」

 剛司は踵を返し、ゆっくりとログハウスを後にした。憧ならわかってくれる。そんな思いが剛司の胸中を駆け巡っていた。





                ☆☆☆☆☆



「それじゃ、僕はもう行くよ。頑張ろうね、憧」

 剛司が離れて行くのが憧にもわかった。

 膝を抱えて座り込んでいた憧は、ドアに背中を預けてそっと息を吐いた。

 剛司が来てくれるなんて思ってもみなかった。もう会うことはない。その思いで満たされていた心に、光が差し込んだ気がした。

 深い海の底に閉じ込められていた心の隙間。その隙間に差し伸べられた剛司の手。憧はその手をしっかりと掴む。剛司の思いがひしひしと伝わってくる。憧は嬉しくないわけがなかった。

 本当は剛司に会いたかった。

 直接会って色々と会話をしたかった。

 だけど、今の自分を見てほしくなかった。

 自分でもわかるくらい、今の憧は本当にひどい顔をしている。

 あの時偉い人が来て以来、憧はずっと寝込んでいた。外出することもせず、部屋の明かりもつけずにずっと部屋に閉じこもっていた。剛司とは会えない。もう残された時間に希望はない。偉い人が剛司に全てを打ち明けている場面を思い返すたびに涙が溢れて、憧は気持ちの整理が中々できなかった。泣いてばかりいたせいで目はひどく腫れあがり、髪の毛もぼさぼさ。剛司に会えるような姿ではなかった。その女性として抱いた気持ちのせいで、結果的に剛司にひどい言葉を投げかけてしまった。帰ってほしくないのに、口から出たのは正反対の言葉だった。

 最悪だ。

 何を言ってるんだろうと自分でも思うくらい。

 沈んでいた気持ちに自らとどめをさしてしまった。

 もう無理。

 そんな気持ちを憧は抱いた。

 だけどそんな気持ちを剛司は変えてくれた。はっきりと言葉にして伝えてくれた。


 ――僕はまだ諦めていない。


 その言葉に憧は救われた。

 どうしてここまで関わってくれるのだろうか。その理由はわからない。だけど剛司は一緒に頑張ろうと言ってくれた。自分の為に動いてくれる気持ちを、憧は決して無駄にはしたくなかった。

「そういえば……」

 憧は剛司の言葉を思い出す。剛司は言っていた。大切なものを託すと。聞いたときは意味がわからなかった。抜け殻になっていた自分が託されるものなんてないと思っていたから。

 憧は剛司が言った言葉の真意を確かめる為に、そっと立ち上がった。ドアの方に身体を向け、鍵を開けるとゆっくりとドアを開く。

 数日ぶりに陽光を浴びた憧は、眩しさに思わず目を細めた。右手で陽光を遮り、徐々に視界を取り戻した憧は、足元に物が置いてあるのを確認した。

「これって……」

 憧はゆっくりとしゃがみこみ、剛司が託すと言っていた物を拾い上げた。

 憧が手にしたのは、剛司の本当に大切な贈り物だった。

 憧の仕事は空からの落とし物を集めること。その落とし物は、必ず持ち主が持っているものと対になっていた。それが憧と持ち主を繋ぐものになる。憧と剛司を繋ぐもの。

 剛司は対になるものを憧に託した。わざわざ憧の元まで探しに来てくれた、皆との思い出が詰まった大切なもの。左足の靴を。

 憧の目から一筋の光るものが頬を伝った。剛司が自分にかけた言葉は、偽りではなく本物だった。それを確信できるくらいのものを剛司から託された。剛司の強い思いが憧に刻まれる。

 剛司はまだ諦めていない。それなのに、自分はどうしてずっと泣いてばかりいたのだろう。目じりに溜まった涙を拭った憧は、改めて決意を固めた。

 自分ももっと変わらないといけない。

 剛司は迎えに来ると言ってくれた。

 この先、何が起こるかわからない。

 だけどまだ時間はある。

 限られた時間しかないけれど、何もせずに終わるよりは、時間の許す限り精一杯できることをしたいと憧は思った。

「剛司君。私も頑張るよ」

 部屋に戻った憧は窓辺に靴を置くと、洗面所で顔を洗った。

 もう逃げたくない。

 もし今からでも間に合うなら。

 自分にもできることがあるのなら。

 憧は部屋の片隅に立てかけてある箒を手に取った。

「私だって、諦めない。剛司君が頑張っているんだから。私も最後まで頑張りたい」

 自らの相棒とも呼べる箒を手に、憧は人間界に来て初めて向き合うことを決めた。

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