四章 リスタート

依存からの脱却

 週明け。剛司の大学は試験期間に入っていた。

 たった一週間で終わる試験。剛司にとって試験がこんなに簡単だと感じたのは初めてのことだった。どの問題も講義で習ったことがそのまま出されている。試験をする意味が本当にあるのだろうかと剛司は疑問に思う。

 所詮試験は勉強すればだれでも点数が取れるし、単位も直ぐにもらえる。大学生は勉学に励むよりも人との繋がりを作る場といわれるのは、あながち間違いではないのかもしれない。それでも目標を持って大学に来ている人は、しっかりと自分の人生を見据えて勉学に励んでいる。おそらく試験なんて眼中にないのだろう。その先に見えている、凡人には見ることができないレールを進んでいるのだから。


 日曜日。結局あの後、剛司は憧と会話することなく、そのまま青羽パラグライダースクールのプレハブ小屋に戻った。剛司はそこで、憧が空を飛びたくないと言ったと皆に嘘を吐いた。当然理由を問い詰められると思っていたけど、特に剛司の言ったことに言及してくる人はいなかった。それでも場の空気が重くなってしまい、盛り上がる要素もかけたまま、その日は直ぐに解散となった。剛司は迷惑をかけたことを皆に謝罪した。車中で付き合ってくれたメンバーに謝り、自宅に帰ってからは青羽に電話して改めて謝罪した。皆、口をそろえて慰めの言葉をかけてくれたが、剛司は皆から励まされることがとても悔しかった。

 どうして自分は謝ることしかできないのか。どうして解決策を直ぐに見つけることができないのか。今回これだけ大勢の人を巻き込んでおきながら、結局は失敗に終わってしまった。そのことが、自分の力の無さを改めて認識させた。

 今まで他人が用意してくれたレールの上を進んできたからなのかもしれない。今回も自ら行動をしたからといって、結局頼るところは人に頼ってしまった。親友の朋に迷惑をかけ、周りの人を巻き込み、そして無駄な時間を費やすことになった。

 全ては自分の力不足。自分のことが何もできていないのに、人のことを助けようと考えたのが間違いだったのかもしれない。それで変われると思ったのも間違いだったのかもしれない。試験のように、答えが用意されていないと何もできないことが剛司の胸を深く抉った。


 木曜日。試験が終わり、キャンパスを後にした剛司のスマホが震えた。手に取り画面を眺めると、珍しく亮からメッセージが来ていた。


『明日来るか?』


 主語のない文章に相変わらずだと思いつつ、剛司は何のことを言っているのか考える。そして直ぐに思い出した。明日は地元の花加で、人気アイドルの大空楓と飲む話があったことに。

 剛司は行くべきなのか熟考する。

 剛司の試験は今日が最終日だった。明日から長い夏休みが始まる。特に予定を決めていなかった剛司は、亮の誘いを受けることに問題はなかった。

 それでも、剛司の胸中は迷っていた。飲み会に行っていいのか。憧のことを考えると、正直行こうとは思えなかった。

 断ろう。

 剛司はスマホを操作しようと手を添えた瞬間、スマホが震えた。亮から続けてメッセージが来た。


『逃げるなよ』


 文章を見た瞬間、剛司は歩みを止める。それと同時に頭に血が上ったのが自分でもわかった。まるで心を読まれているような文章に、剛司は思わず手の動きを止める。

 逃げたくない。

 その気持ちは剛司も持っていた。だからこそ憧と出会ってから、やるべきことをやってきた。逃げないで向き合ってきたつもりだ。しかしそれでも無理だった。現実を思い知らされた。どうにもできないことがあると知った。憧に時間がないことがわかった今、剛司にしてあげられることは何もない。

 剛司はスマホの操作を始め、亮に向けてメッセージを送った。


『行くよ』


 スマホをしまった剛司は再び歩き出した。

 剛司はウサギとカメで言うとカメだ。どんなに遅くても、一歩一歩地道に進んでいければいいと思っている。たとえ変われなくても、こうして今を生きていける。もう憧のことを考えるのをやめてもいいのではないか。

「くっ」

 本当はそんなこと考えたくないのに、目の前に立ちはだかる高い壁を壊すことが出来ない剛司は、ただ悔しがることしかできなかった。


 金曜日。花加駅まで剛司はやってきた。午後六時過ぎの駅前はサラリーマンの行き交いが激しく、飲み屋の客引きが週末金曜日に付け込んで接客合戦を繰り広げている。都会からベッドタウンの花加へと戻ってくる学生も増える時間帯でもあり、辺りは喧騒であふれかえっていた。

「よっ、剛司」

 頭をポンッと軽く叩いた亮は、剛司の肩に腕を回す。

「一ノ瀬君。今日はよろしく」

「まあ。何かあったら俺に任せとけ。最悪、話を合わせる程度で問題ないからよ」

 亮は剛司の肩に回した腕をほどくと、一歩先を進んでいく。その後ろを剛司は追いかける。

 暫く進んでいくと、駅近くにある建物の前で亮が足を止めた。ガラス張りの店内は外からも中が伺えた。入口はバーカウンターが見えており、バーテンダーの後ろの棚には様々な種類のお酒が並んでいる。お酒をあまり飲むことがない剛司は、お洒落な雰囲気にのまれそうになる。

「ここに六時過ぎらしい。席は五時から予約してあるらしいから、もう入れるぜ」

 そう言った亮は、ドアノブに手をかけ中へと入って行く。剛司も店内に入ると、亮は外から見えていたバーテンダーと会話を交わしていた。

「こっちだって、剛司」

 亮の呼びかけに、剛司は後を追いかける。

「ここで大丈夫?」

「おう。奥の方に個室があって、そこが会場になってるらしい」

 薄暗い雰囲気のある店内に、客の姿を見ることがほとんどなかった。時間帯もまだ早いことも関係しているのかもしれない。

 暫く道なりに歩くと、突き当りにドアが一つだけあった。

「こちらが本日の会場となっております」

 バーテンダーがお辞儀をすると、そのまま来た道を戻っていった。

「まだふうは来てないって。ゆいから連絡きた」

「唯?」

 知らない名前に剛司は亮に聞き返したが、亮は気に留めることなくドアを開けた。

「あ、来た」

 剛司達の方に向け声を発した女性がいた。既に手にはグラスを持っており、ほんのりと顔が赤くなっている。

「よっ。唯、もう出来上がってるじゃん」

「うるさいわね。今日は気楽に飲む日なんだって」

 剛司達の前までやってきた唯はグラスを傾けると、喉を鳴らしてグラス内のお酒を飲み干した。

「楓はまだ来てない?」

「うん。楓は来てない……って、あんたは人気アイドルを呼び捨てにしないの」

「だって同い年だし、ファンだから呼びたいんだって。それに本人も名前で呼んで問題ないって言ってるんだろ?」

「そ、そうだけど。私はいいとしても、亮が呼ぶことは許可してないから」

「大丈夫。楓なら笑顔で『いいよ』って言ってくれるはずだ。あー早く楓に会いたいぜ」

 二人の会話についていけない剛司は、ただ飛び交う声を聞くしかできなかった。

「それで、そこの君が亮の友達ってわけ?」

「は、はい。梔子剛司です」

「剛司君ね。よろしく。私は白岩唯しろいわゆい。唯でいいよ」

「は、はい……」

 慣れていない相手に、剛司は顔を赤面させた。どうやら亮と楓の共通の友人が唯らしい。

「今日は私繋がりの友達四人と亮、そして後から楓が来るから。まあ、楽しんでって」

 剛司の恥じらいを気に留めることもせず唯は笑みを見せると、既に座っている四人の元へと戻っていった。

「剛司、お前緊張してるか?」

「し、してないよ」

「ふーん。ならいいや」

 剛司の返答を軽く受け流した亮は、すたすたと一人で唯が座っている方へと向かって行った。いきなり放置された剛司は、見栄を張らなければよかったと後悔を覚えた。このままずっと立っているわけにもいかず、亮の後を追いかけるように剛司は一歩前へと足を踏み出す。

 それと同時に、剛司の後方にあるドアが開いた。

「ごめんね。少し遅れちゃった」

 剛司は足を止め、声のする方に振り向いた。そこにはテレビで見たことのある、アイドルがいた。

「あ、来た。楓! こっちこっち」

「あ、唯ちゃん。久しぶりだね」

 立ったままの剛司を気に留める様子もなく、楓はそのまま唯の元へと向かていった。そしてそのまま亮を始め、唯の友達とも会話を始める。

 本当に来た。アイドルの大空楓がこの場所に。剛司は目の前にアイドルがいる驚きで、開いた口が塞がらなかった。

 皆との会話を一通り終えた楓が、そんな剛司のもとへと歩み寄ってきた。

「君が亮君のお友達の剛司君?」

「は、はい。梔子剛司です」

大空楓おおぞらふうです。よろしくね」

「こ、こちらこそ」

 差し出された手を剛司は握った。ほんのりと温かい手。緊張している剛司の手とは正反対の温度だった。

「さあ、飲もう。今日は楓の近況を聞いちゃうぞ!」

 テンションが高い唯は両手にグラスを持つと、皆の準備を待たずに片方のグラスに口をつけ、一気に飲み干した。

 楓は握っていた手を離すと、剛司に笑みを見せ唯の元へと戻っていく。

「唯ちゃんったら、もう酔ってるでしょ」

「酔ってない。楓もほら、お酒飲みなさい」

「私、まだ未成年だよ。飲めません」

 笑みを見せながら、楓は丁寧に唯の誘いを断る。二人のやり取りを、剛司は遠くから眺めていた。

「剛司、こっち来いよ」

 亮の声がけに応じて、剛司は亮の近くの席に腰を下ろす。

「お前さ、やっぱり緊張してるだろ?」

「……う、うん」

「だよな。俺も少し緊張してるぜ」

 亮の発言は剛司にとって意外だった。誰に対しても物怖じしないのが亮だと剛司は思っていたから。亮の発言に何だか新鮮さを覚えた。

「それじゃ、みんあグラス持ったーっと」

「ちょっと、唯ちゃん」

 既にふらふらしている唯のことを楓が支える。呂律の回っていない唯のことが、剛司も心配になってくる。

「大丈夫、大丈夫。それじゃ、お疲れ様でーす」

 唯のかけ声で皆が一斉にグラスを合わせ、水分を体内へと流す。剛司もグラスに入っているウーロン茶を流し込む。皆一様にグラスを置くと、唯を筆頭に皆がわいわいと会話を始めた。そんな中剛司は話に加わることもせずに、ただその様子を見守る体勢に入った。

 こうして皆の会話を聞くのは嫌いではなかった。昔から皆の会話を聞く側だったからなのかもしれない。剛司の中で安心感が芽生えてくる。それと同時にもう一つ芽生えてくるものがあった。

 どうして自分はここにいるのだろうか。

 亮に誘われて剛司はこの飲み会に参加した。最初は参加を取りやめようと思っていた。それでも、亮に言われたことに腹が立った。逃げたくないという思いが、今日の飲み会に足を運ぶ理由になった。それとは別に、剛司にはもう一つこの場に来た理由がある。

 一つの問題に、区切りをつけなくてはいけないと思ったから。

 自分の無力さを知り、成し遂げられないことがあるとわかった。それでもまだどうにかしたいと思ってしまう気持ちに蓋をするため、こうして今日この場に参加することを決めたのだ。飲み会という場でいろんな人と会話をすれば、忘れられるかもしれない。考えが変わるかもしれないと。そう思っていた自分の考えの甘さに辟易する。そもそも自分は会話に入ることすらできていないのだ。こうして外から聞き耳をたてて、話を聞いていることしかできていない。

 結局、今も忘れることができずにいる。忘れるどころか、今も少しずつ悔しさが込み上げてくるのがわかる。

 この気持ちを捨てる為に飲み会に来たはずなのに、膨れ上がる気持ちを剛司は抑えることができなかった。その気持ちのせいなのか、時折耳に入ってくる皆の会話が目障りに感じ始めている。芽生えていた安心感は、いつの間にか苦痛で塗り替えられていた。

 剛司は手に持っていたグラスを置くと、腰を上げてドアの方に歩いて行く。

「剛司、どこ行くんだよ」

 亮が駆け寄って剛司の肩に手を置いてきた。剛司は歩みを止め、後ろを振り向く。

「トイレに行くだけだよ。直ぐに戻る」

「そ、そうか。大丈夫か? 早く戻って来いよ」

「うん。ありがとう」

 剛司はそのままドアノブに手を掛け、部屋の外へと出た。

 トイレに入った剛司は用を足すことはせず、鏡の前に立った。目の前に自分の顔が映し出される。その顔は本当にひどい顔だった。普段よりも血色が悪く、顔色が青い。体調不良と言われても仕方がないと、自分でもわかってしまうくらいだ。

 一度大きく深呼吸をしてみた。それでも心が洗われることはなかった。

 あの時、あのログハウスの近くで深呼吸をしたときは本当に心が洗われた。大自然に身を置き、目の前だけを見て進めていた頃が本当に幸せだった。

 それなのに今は、こうして狭い場所にいることしかできない。深呼吸でさえ、苦しみを促進させるための薬になっているみたいだ。

「何をやってるんだろう……」

 誰もいないトイレに剛司の声が響く。当然返答がないのはわかっていた。それでも、誰か聞いてくれる人がいるかもしれない。そんな思いで剛司は呟いていた。

「あ、やっと出て来た。剛司君」

 トイレを出た剛司は、目の前にいた人物に驚きを隠せなかった。満面の笑みを剛司に向けていたのは楓だった。

「ど、どうして……」

「んー。ちょっと君とお話したくて。今日ほとんど話してないよね?」

「そ、そうですけど……」

 それよりも剛司は目の前の状況に納得がいかなかった。まるで待ち伏せしていたような楓の行動に、少しだけ胸が痛んだ。

「ちょっと来て」

「えっ? ちょ、ちょっと大空さん」

 剛司の静止を振りきった楓は、剛司の腕を引っ張って階段を上っていった。剛司が楓に連れてこられたのは、建物の屋上だった。四階建ての屋上ということもあり、それなりの高さがあった。近辺に高い建物があまりないせいで、花加の街がこの屋上から見ることができる。少し離れた場所には線路が走っており、電車が行き交うたびに音が聞こえる。

 屋上の端っこまで剛司の腕を離さなかった楓が、ようやく腕を離してくれた。

「どうしてこんなところに……」

「剛司君が元気なさそうだったから」

 振り返ってそう答えた楓の視線が剛司とぶつかる。剛司は視線を自ら逸らした。感情の全てが、楓に読み取られている気がしてならない。

「……ちょっと色々とあったんだ。だから心配させたのなら謝るよ。ごめん」

 剛司はそのまま楓に背を向け、屋上から離れようとした。

「ちょっと待って!」

 腕を掴んだ楓は剛司を静止する。手に力が入っているのがわかった。

「逃げるの?」

 楓の口から出た言葉に剛司は驚きを隠せなかった。亮が言っていた言葉が、楓の口からも放たれたから。

「逃げないよ。だってこんな所に二人でいたら、大空さんに迷惑がかかる」

「アイドルだから、私がアイドルだからそうやって差別するの?」

「いや、ち、違う。ただ、僕の話なんてつまらないし……」

 自分のことを卑下する剛司に、楓はため息を吐くと真っ直ぐ視線を向けた。

「私と剛司君は同い年なの。同じ人間なの。だからアイドルとか今は関係ない。私はまだ一九歳の女の子。そう思って普通に接してほしいの」

 力強い眼差し。楓から向けられる視線に、剛司は首を縦に振っていた。

「わ、わかった。努力する」

「ありがとう。それと、私のことは楓でいいから」

 目の前で咲き誇る笑顔は、他の人とは違う何かがあった。これがアイドルの輝きと言っても過言ではないほど、剛司の胸を打つには十分の笑顔だった。

「ちょっと話そうよ。ほら、ここに座って」

 楓に促された剛司は、フェンスに背中を預けるようにして腰を下ろす。蒸し暑さが残る夜にも関わらず、時折吹き抜ける風は少しだけひんやりとしていた。

「そ、それで僕に何を聞きたいの?」

「うーん」

 楓は腕を組み、首を傾げた。話すことがあるから連れてこられたと思っていた剛司は、拍子抜けしてしまう。

「そうだ!」

 話す話題が決まった楓は、剛司に向け話す。

「どうして亮君と友達なのかな?」

「えっ……ど、どうしてそんなことを?」

 聞かれると思ってもいなかった剛司は、素っ頓狂な顔を晒す。

「だって、亮君と剛司君って正反対な性格だと思ったから。一緒にいるのが珍しいなって思ったの」

 傍から見れば楓の言う通りなのかもしれない。何でも自分のやることに自信を持っていて、他人に物怖じしない亮に比べ、剛司は自信もなければ人と接するのが苦手だ。相反する亮と剛司が絡んでいるのは、他人から見て物珍しいのかもしれない。

「実は、一ノ瀬君に救われたことがあって」

「救われた?」

「うん。中学生の頃に。部活でちょっとしたことがあって」

 思い出すのは亮の姿。剛司にとって忘れることができない大切な出来事が脳内を駆け巡る。

「嫌じゃなかったら、聞いてもいいかな?」

 楓は上目遣いで剛司の顔を覗き込んでくる。距離の近さに、剛司は頬を赤面させた。アイドルである楓が、一般人の剛司に対して普通に接してくれる。その事実が剛司にとって嬉しかった。自分の話題に興味を持ってくれている事実が、苦痛を緩めてくれる気がした。

「一ノ瀬君は、僕のヒーローなんだ」

「ヒーロー?」

 楓は小首を傾げた。亮がヒーローだと言う理由を知らない楓の反応は当然だった。剛司はゆっくりと深呼吸をして、話を続けた。

「中学二年生の時。三年生が引退した直後、次の部長を決める時期があって。顧問の先生が僕に部長をやってほしいって頼んできたんだ」

「凄いね。顧問の先生からの頼みだなんて。剛司君って部活は何を?」

「卓球部です」

「卓球!」

 楓は右手を振り始めた。素振りのつもりなのか、剛司から見てもけっこう様になっていた。

「卓球好きなの?」

「好きか嫌いで言ったら好きかな。温泉のロケとか行くと、卓球で盛り上がる……って、私の話はいいから。続き聞かせてよ」

 先を促す楓に剛司は頷くと、話を続ける。

「えっと、顧問の先生に部長の指名をされたんだけど、僕はやりたくなかったんだ。自分が部長の器に当てはまる人物だと思ってなかったし、それに……」

「それに?」

 剛司は唾を飲み込んだ。他人に自分の弱さを口にするのが嫌だった。どうせなら良い自分を見てもらいたい。そう思っている自分がいる。でも、既に駄目な自分を楓に見られていた。

 意を決した剛司は口を開いた。

「楽をしたかったんだと思う。でも、みんなも僕と同じ考えだったみたいで。誰もやりたがらなかった」

 皆それほど真剣に部活に取り組んでいなかった。勝つことに執着していなくて、楽しければ良いと思っていたのかもしれない。もし部長になったら、部長会やら顧問の先生のお手伝い等色々と面倒事が増える。そうなれば楽しく部活ができなくなってしまう。だから皆、部長になることを避けていたんだと剛司は思う。

「顧問の先生には、二年生の部員全員で話し合えって言われて。その時に、一人の部員に言われたんだ。『先生に選ばれたのはお前なんだからやれ』って」

 押し付けられているのは剛司もわかっていた。皆がやりたくないのはわかっていたし、当然自分が責められることもわかっていた。

 だけど剛司も同じ気持ちだった。部長をやる自信がないし、とにかくやりたくなかった。

「その一人の発言で、ほとんどの部員が僕に部長をやるように促してきた。僕にとって最悪な状況。もう部長になろうかと諦めそうになった。嫌々やるしかないと。でも、その時にヒーローが現れたんだ」

「それが亮君」

「うん。一ノ瀬君が僕のことを庇ってくれた。それで一ノ瀬君が部長を引き受けてくた。自分がやりたかったからと本人は言ってたけど、何も言い返せなかった僕を守ってくれた」

「だからヒーローなんだ」

「……うん」

 返しきれない恩が剛司にはあった。あの時の亮も常に真っ直ぐ前を向いていて、剛司を引っ張ってくれる存在だった。だからこそ今でも剛司は亮を尊敬しているし、こうして仲良くできている。

「確かに亮君は積極的だよね。今日の飲み会だって、私に会いたくて唯ちゃんに頼み込んだって聞いたから」

「一ノ瀬君は、少しでも可能性があると諦めない人だから」

 靴を失くした時もそうだった。亮は決して諦めず、誰よりも率先して靴を探してくれた。変わらない亮の背中を、中学生の時からずっと見てきた。その諦めの悪さが、剛司のことを何度救ってくれたか。

 暫く沈黙が続いた。剛司は自分のことを考える。今でも悔しさは残っている。何もできずに諦めるしかない自分が悔しい。

 俯いて地面を見つめていた剛司に、楓は声をかけた。

「ねえ、剛司君はどうして今日来てくれたの?」

「そ、それは……」

 胸が少し痛んだ。楓に本当のことを言いたくなかった。でも隣の楓は剛司が言うまでずっと待ってくれると何となく思った。どこか朋と似た雰囲気を剛司に抱かせた。

「自分の気持ちに決着をつける為です」

「決着……」

「できると思ってたことがあって。精一杯自分なりに頑張ってみたんです。だけど自分の力じゃどうすることもできない壁にぶつかって。でも諦めきれなくて。この気持ちに決着をつけるために、今日の飲み会に参加したんです。もしこの場で楽しんで、忘れることができるならいいなって思って」

「剛司君……」

「でも、結局駄目でした。忘れられずに、こうしてみんなに迷惑をかけてる。楽しい時間を台無しにしてる」

 今のままでは駄目なことは剛司もわかっていた。だけど気持ちの制御ができなかった。剛司は膝に顔を埋める。

 そんな剛司の横で楓はすっと立ち上がった。剛司は顔を上げ、楓に視線を向ける。

 その立ち姿はとても輝ていた。月明かりが楓を照らし、神秘的な空間を作り上げていく。時折吹く風が、楓の髪をなびかせる。

 すーっと息を吸った楓は力強い眼差しを剛司に向けてから、そっと歌いだした。


 電車から眺めていた 何気ない景色に

 吸い込まれたとたん ドアが開いた

 あの日からそうだった 見てるだけの瞳 目の前が暗くなった

 周りの音かきけしたくて 音量あげたイヤフォンから

 漏れるココロの叫びを 誰かに聞いてほしかった

 あの日見てたこと 感じたことは

 誰にも伝わらないかもしれない

 だけど私のココロノスキマに 深く熱い思い刻まれたよ

 流れる景色 止まって見えたなら また動かせばいいさ


 ココロノスキマ。楓を一躍有名にした曲。

「亮君がこの歌を好きって言ってくれて。剛司君も好きって聞いたんだ。どうだったかな?」

「う、上手かったです。感動しました」

「ありがとう」

 思わず剛司は拍手を送った。透き通る声に乗せ、通常とは違うアコースティック風に歌い上げてくれた。こうして生でアイドルの歌を聞けるとは、剛司は思ってもみなかった。

 楓は深呼吸をすると、剛司に向けて言葉を放った。

「これを書いた当時、私も剛司君みたいに壁にぶつかってて。次の曲で売れなければ、歌の仕事はもうないってプロデューサーに言われてたんだ」

「そうだったんですか」

「うん」

 頷いた楓の視線はどこか先を見据えていた。過去を思い返しているのかもしれない。

「始めの方は可愛らしいテイストの曲が多かったんだけど、私としては自分を出せない気がしてて。偽りの自分をファンに見せてる気がしてたの。しまいには自分の不甲斐なさから、何もかも歌のせいにしちゃって。アイドルを辞めようと本気で思ったことがあった」

 今の輝きからは考えられないことだった。剛司は楓が駄目になりそうな時期を知らない。ずっと売れているアイドルという認識が強かったから。その分、余計に楓の言葉が信じられなかった。

「そんな時に唯ちゃんが言ってくれたんだ。『自分で詩を書いてみれば』って。その言葉を信じて、私は自分で詩を書いてみたの。ありのままの自分をみんなに見てほしい。私が今この瞬間、感じている思いの全てを共有してほしい。そんな思いの塊が、このココロノスキマに詰め込まれてるの」

 楓は胸に手を当てると、大きく深呼吸した。目をつぶったまま顔を下に向ける。そして顔を上げると剛司に向かって言った。

「ココロノスキマがヒットして、昔の曲も一緒に聞いてもらえて。もしかしたら、私自身のことを知ってもらえてなかったから、歌がヒットしなかったのかもしれないって。結局、自分の努力が足りなかったって気づいたの」

 楓が紡ぐ言葉を、剛司は目をそらさずに聞いていた。

 もしかしたらまだ間に合うかもしれない。そんな気持ちが剛司の中を駆け巡る。

「私も諦めようと思ったことはあった。だけど、唯ちゃんに言われて見つけたの。まだやり残したことがあったことを。たとえ結果が伴わなくても、全力を出して必死に努力した事実は消えない。誰に気づいてもらえなくても、自分の心には刻まれている。それを立派な誇りにしよう。そう思うことができたんだ」

 目の前にいる、大空楓というアイドルは最初から輝いていなかった。崖っぷちの状況から這い上がった経験があるからこそ、今もこんなに輝いている。アイドルとして人々に笑顔や感動を与える存在になれている。

「だから、剛司君も諦めないで。頑張ろうよ」

 目の前にいるアイドルでも壁にぶつかることはある。アイドルだからと言って、何もかもうまくいくわけではない。アイドルだって普通の人間だ。楓自身が言っていたこと。それなのにたった一度壁にぶつかっただけの自分が、諦めようとしていることがとても情けなかった。

 既に迷いは消えていた。まだ時間はある。その中で出来る自分の全力を出したい。剛司は強くそう思った。

「うん。頑張ってみる」

「よかった。なんか元気でたみたいだね」

 笑顔の楓は自分のことのように喜んでくれる。他人の痛みをわかる楓は、これからもずっと輝き続けるんだと剛司は思った。

「あ、その靴。亮君が言ってた靴だよね?」

 楓が剛司の靴を指さす。今日履いているのは、皆からプレゼントにもらった大切な靴。

「一ノ瀬君から聞いたんですか?」

「うん。いつも一緒にいるメンバーで、剛司君にプレゼントしたって聞いたよ」

 剛司は皆からもらった靴をさすった。

「僕の大切なものなんです。この靴があるから、僕は勇気を持てるんです」

「勇気?」

 楓が小首を傾げた。

「この靴を履いていると、みんなから力をもらえる気がして。だから何かする時や大切なときには、必ず履くようにしてるんです」

 剛司の言葉を聞いた楓の顔が険しくなった。何か癇に障ることを言ったのかもしれない。剛司は楓にかける言葉を探す。

「そっか。何となくわかったかも」

 そんな剛司のことは気にも留めず、楓は表情を緩めて笑顔をみせた。それから剛司に手を差し伸べた。

「剛司君は少し頼りすぎなんだと思うよ」

「頼りすぎ……」

 差し出された手をとった剛司は、勢いをつけて立ち上がった。

「みんなからもらったプレゼントって大切だと私も思う。でも、もしプレゼントがなくなったら剛司君は何もできなくなっちゃいそう」

 楓の言葉に、剛司は反応ができなかった。楓は続ける。

「私も大切にしているものはたくさんあるけど、最後に頼るのは自分自身って決めてるんだ。もし頼りにしたいものが自分以外の何かだと、手元からなくなったときに動けなくなっちゃうから。だから私は、大切なものはいつも胸にしまうことにしてるの」

 楓の言葉は真っ直ぐだった。それは剛司の胸に真っ直ぐ届いた。

 今まで剛司は物を大切にしてきた。皆からの思いが詰まった大切な贈り物。それを大切にするのは当たり前だと思っている。だけど、気づかないうちに剛司は物に物以上の価値を求めていた。靴があるから勇気を持てるというのは、楓の言った通り、靴がなくなったら自分には勇気がないと言っているのと同じことだ。

 物に頼りすぎるのは良くない。それは物に頼り続けていた自分が証明していた。

「で、でも、ずっと大切にするのは本当に良いことだと思う。でも、少し頼りすぎかなって思っただけ。あくまで私の考えだから、気にしないでね」

 楓はそう言うと、屋上から下へと階段を駆け下りていった。

 剛司の脳裏には楓の言葉がずっと残っていた。


「今日は楽しめたか?」

 帰り道。顔を赤らめて千鳥足になっている亮を、剛司は支えながら夜道を歩いている。

「うん。途中からは楽しめたよ」

 亮の質問に剛司は肯定の返事を返した。比較的素直な気持ちが口から出せたのも、今日の出来事があったからなのかもしれない。

「そっか。それで、俺に言うことないのか?」

「言うこと?」

 亮の問いの意味が理解できず少しの間、剛司は考え込む。

「あ、ありがとう?」

「はぁー。何で疑問系なんだよ。楓と話をしたんだろ?」

 楓とは確かに会話を交わした。だけど、亮が知っているのは何故か。

「もしかして、りょ……亮が言ったの?」

「……お、おう。そうだよ。俺が楓に話してやってくれって頼んだ」

 いきなり名前で呼ばれた亮は驚いていた。

 今日は前に進むと決めた日。まずは目の前の友達との壁を取り払おうと剛司は思った。突然のことだったのにも関わらず、亮があっさりと受け入れてくれたことがとても嬉しかった。

「なんか、ごめん。本当にありがとう」

「いいってもんよ。もともと、俺が誘ったんだからよ」

 そう言うと、亮は剛司に預けていた身体を起こすと一人で歩き始めた。先程までの千鳥足が嘘のように、今は真っ直ぐ歩くことができている。

「悩みは解決したんだよな?」

 前方を行く亮の声が風に乗って剛司の耳に届いた。街灯で照らされた明かりが、遠くから二人を照らしている。

「うん。色々あったけど、もう一度頑張ろうと思う」

 亮には憧のことについて何も言っていなかった。だけど、亮は剛司の考えを知っているかのように振る舞ってくれる。

「何かあったら、俺や光、それに朋がいるんだからな。それだけは忘れるなよ」

「うん。でも、この靴があるか――」

「ん? なんだって?」

 亮が言葉に詰まった剛司の続きを促してくる。

 先程の楓との会話が剛司の脳内に蘇る。


 頼りすぎ。


 今も剛司は靴に頼ろうとした。目の前にいる友達ではなく、靴に宿った何かに。だけど変わるためには、捨てる覚悟も必要だと気づけた。

「ううん。何でもない。何かあったらみんなに連絡入れるよ」

 剛司はそう言うと、前をいく亮の元へと駆け寄った。

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