part5:〈The Word〉of The Sound.

〈言葉〉を使う方法で、人々の意志を変革させる計画。

 それを遂行してから、数日が経っていた。恐らく、数百人単位の人間が反政府の〈言葉〉が仕込まれた文章を読んでいるはずだ。その人々のなかの数人は、反政府の思考を働かせているに違いない。ただ、その結果を知ることができないことがもどかしかった。

 僕はいつものように、例の部屋にいた。千代賀博士とイリカもいる。

「……ヨクトくん、本当にすまないね」

 博士が唐突にそう言う。この数日間、博士の様子は曇天のようだった。

「博士、謝らないでください。僕が計画に乗ったのは、きっかけこそ博士ですけれど、今までやり続けていることは確実に僕の意志なんです。……そんなことより博士、眠そうですね」

 僕は意図的に話をすり替える。

 博士はすこし微笑んで答えた。

「たしかに、しばらく充分な睡眠をとっていないな」

「仮眠、とってくださいよ。身体がなによりの資本です」

「……そうだね。じゃあ、少し休ませてもらおうかな」

 博士がベッドに入ろうとするのを見て、イリカが素早く手助けをする。

 僕とイリカは眠る博士の姿をなにも言わず、しばらく眺めていた。

 すこしすると、博士の小さな寝息が聞こえてくる。

 イリカが口をひらく。

「……悪かった」

「なにが?」

「あなたと博士が計画の存続を悩んでいたとき、私は存続せざる得ないような話をした。あなたも気づいていたのではないか」

 政府が統制を次のステップへ進行させようとしている、という話のことだろう。

「……まあ、なんとなくは気づいていたよ。でもきみの話は僕にとって、計画を存続させることを選択するための要因の一つにしかなっていないと思う。僕は、きみがあの話をしなくても、この選択をしていたはずだよ」

「優しいのだな。……私は、人間じゃない。私は感情ではなく、プログラムで動く機械だ。あなたや博士が持つような、使命感や正義感なんてものはない。私には、無機質な入力と出力としての感情らしきものしかない。私のあの行動も、私のなかで空虚なのだ。私は、あなたたちが羨ましい」

 僕は思わず笑ってしまう。

「人間も同じだよ。〈コード〉で構築された意志というプログラムで動いているだけだ。僕たちときみの間に差異があるとすれば、僕たちのプログラムには、意識という崇高で不可侵で、そしてかけがえのないものに思える名前がついているということだけだ。……なにが言いたいのかというと、人間だろうがアンドロイドだろうが、自分が抱いた想いを否定することはないってことだよ」

 それは〈言葉〉によって生まれた感情だって、そうだと言える。たしかに〈言葉〉で感情を統制することはいいことだとは言えない。けれど、そこから生まれた感情までも否定することだって、いいことではないだろう。

 僕がかつて、まだ〈言葉〉に支配されていたとき、反政府的な行為や思想には人一倍敏感で、そしてそれを憎んでいた。僕たちが書いた紙の小説だって、昔の僕が見たら絶対に非難していたと確信できる。そういう思考や行動を周りにわかるレベルでとっていた。けれど、僕はそんなかつての自分を否定しようとは思わない。

 僕はイリカの目を見て、断言する。

「きみは、自分の想いを大切にしていいんだ」

 イリカは微笑む。

「私は……、博士が好きだ」

「うん」

「あなたのことも、好きだ」

「え、それは驚きだ」

「間違いない。私は自己把握能力に優れているからな」

 真面目な顔をして、そんなことを言うイリカ。

「そうか。それなら間違いないな」

 僕は笑いながらそう言った。



 突然、イリカの表情が凍る。

「どうしたの?」

「……大勢の人間が、こちらに向かってきている」

 思考がフリーズする。視界が狭くなる。眩暈。

「……おそらく、政府の人間だ」

 イリカはすぐに博士を起こした。なにか博士に言っているようだったけれど、声は僕まで届かない。脳が現実を遮断しているようだった。音声に靄がかかっている。

 僕は乱暴に思考を自分のなかに引き戻した。

 イリカは、この部屋の周辺に設置した監視カメラの映像を人工脳内でモニタリングしているのだ。

「状況は?」

 寝起きの博士だけれど、思考は明瞭としているらしい。短く、イリカにそう訊く。

 少しの沈黙のあと、イリカは言う。

「囲まれています。逃げ道はありません。おそらく、あと一、二分でここに着きます」

 やはり、僕のあの感覚は本物だったのだ。

 僕らは捕まる。あるいは、殺される。

 血液がものすごいスピードで巡っているのがわかる。けれど、反比例するように身体はどんどん冷えていく。

 最悪のビジョンが頭のなかで明滅する。いつの間にか手が震えていた。

 銃殺。監獄。絞殺。拷問。洗脳。電気椅子。死の香りがする言葉が浮かんでは消え、僕の意志に恐怖の二文字を刷り込んでいく。

「……覚悟を決めるよりないだろう」

 博士は俯き、苦しそうに言った。

 僕は自分が内側から破裂しそうだった。

 まるで、空気を限界まで入れた風船のようなものだ。

 ぎぃ。

 階段を上る音が響く。

 精神の風船が破裂する。

 僕はデタラメに家具を入口の扉の前に置いて、バリケードのようなものをつくった。バリケードと言ってもたかがしれている。けれど、僕にとって重要なのは結果ではなく過程だった。動き回ることで、僕のパニックは幾分落ち着いた。

 扉をひらこうとする音が響く。けれど、あかない。

 そして、冷たい男の声。

「弐島ヨクト、あけなさい」

「……誰だ?」

「私がきみに名乗る義務はない」

「違う。誰が密告したんだ?」

 僕の問いに、扉の向こうの男は笑った。深海魚が笑ったら、こんな声になりそうだと思った。

「聞いたとしても、絶望するだけだ」

「もうとっくにしている。こんな世界にな」

「やはり、きみは危険思想の持ち主だ」

「早く教えろ!」

 僕が叫ぶと、男はまた笑う。

 もしかしたら、こいつはこの部屋に博士とイリカがいることを知らないのかもしれない。僕以外の人間を意識しているような素振りがないのだ。

 そんなことを考えていると、男が答えた。


「那珂川タイヂだ」


 身体の力が抜けて、崩れ落ちた。

 膝を打ったけれど、痛みはない。

 タイヂが。

 タイヂが密告した?

 いったい、どうして?

 男は続ける。

「彼は紙に書かれた小説のことをきみに話したあとに、きみの反応がいつもと違ったことに気がついたらしい。それで、紙の小説ときみには、なにか繋がりがあるのだと推測した」

 たしかに今までの自分なら、ああいうものを見たときは必ず批判していただろう。タイヂはそういう反応も楽しむタイプの人間だ。タイヂはそれを期待して僕に話しかけたのに、僕は自分の書いた小説を身近な人間が読んでいることに対する嬉しさしか感じていなかった。その齟齬が、タイヂの疑念を想起させたのだろう。

「彼からの報告を受けた我々は、彼と協力してきみの拡張現実に盗視コードシーハックを送り込んだ」

 あのタイヂから送られてきたメールだ。あのアクセス先のサイトに盗視コードシーハックが仕込まれていたのだ。

「きみはそうとも知らず、我々に検閲上の不正を生放送したというわけだ。あの文章が公になることはない」

 男は一際大きな声を出す。

「もういいだろう。諦めろ。この建物は完全に包囲されているんだ。大丈夫だ。殺しはしない」

 僕は考えていた。

 たしかに、その可能性は考えられる。

 ならば、やれることをやらなくてはならない。

 ただ、時間がない。

 時間が……、時間が欲しい。

 少なくとも、あと一時間は硬直状態を維持したい。

 僕はある計画を思いつく。それから、思い切り叫んだ。

「こっちには人質がいる。千代賀ゲンリと彼の従者の空木イリカだ。無理に入ってくるようなら、すぐに二人を殺す」

「……なに?」

 部屋の隅にいた二人は驚いたようだった。すぐに博士が首を横に振る。きっと、一人で罪を抱え込もうとするな、という意味だろう。僕はそういうつもりで言ったわけではなかった。

 ただ、時間が欲しかったのだ。

 しばしの無言のあと、男は言う。少しだけ、口調に温度があった。

「声を聞かせてもらおうか。たしかに生体反応は三つあるが、他人である可能性はある」

 僕は音を立てずに二人のもとに移動する。そして、小さな声で言う。

「人質の振りをしてください」

「そんなことはできない。きみ一人に罪を被せてしまう」

 博士も小声で話した。やはり、そう考えていたか。

「僕は、時間が欲しいんです。博士がいるとわかれば、現場だけの判断でどうこうできなくなる。きっと、上層部に連絡をとるはず。その隙にやりたいことがあるんです」

「なにをする気なんだ」

「小説を書きます」



 博士とイリカの存在を向こうに教えてから、1時間と20分後、再び男の声がした。

「我々は千代賀ゲンリ博士には人質の価値がないと判断した。むしろ、千代賀博士もこの反社会的行為に加担していた可能性もある。それが自ら進んでのことでなかったとしても、責任は存在する」

 イリカは驚いたように博士の顔を見た。博士は冷静に分析する。

「……恐らく、もう〈言葉〉の研究に私が関わる価値はないのだろう。むしろ、邪魔される可能性の方が高いと政府は考えたわけだ。実際、そうだったわけだが」

 この感情と思考が乖離している精神は、僕になんかには真似できない。

「我々は五分後に突入する。怪我をしたくなければ出てこい」

 男が決定的なことを言った。

 けれど、実際は僕らが怪我しようが自殺しようが、反政府的思考を持つ人間が消えれば、過程はどうでもいいのだろう。彼らが恐れているのは、僕らの存在ではなく、僕らの思考なのだ。

 僕は少し前に最後の小説を書き終えていた。データを僕のオーグからデバイスに移して、最後まで書いていたのだ。

 もう僕はどんな終わり方でもよかった。

 僕ができることはすべてしたのだ。

 僕は博士を見た。博士は静かに言う。

「投降しよう。どちらにせよ、殺されてしまうかもしれないが、なんとか生き残れる可能性もある。ここで自決しては、その可能性もなくなる」

 僕は頷いた。どちらでも構わなかった。何故なら、僕の人生はもう終わっていると言っても過言ではないから。ただ、博士は誰かが死ぬのを見たくないのだろう。それは、僕も同じだ。

 イリカも頷いた。

 僕らはバリケードをどける。すぐに武装した警官がはいってきた。僕らは両手を上げる。異様なほどに落ち着いていた。それは二人も同じようだった。

 僕と会話していた男は、銀縁の眼鏡をかけていて、薄笑いを浮かべている。まるで、狐のような人間だった。

「心配するな。三人とも、殺しはしない」

 男は僕のうしろに移動しながら言う。うしろを向こうとすると、警官に動くな、と言われた。

「どうするつもりなんだ」

 僕は意識をうしろに向けて訊ねた。

「三人には、実験台になってもらう」

「実験台?」

「そうだ。特別に教えてやろう。我々は今まで、文字メディアの〈言葉〉を使用し、人々を制御していた。しかし、もう文字メディアの〈言葉〉の使用には限界が見えてきた」

 博士が声を上げる。

「まさか、音声メディアの〈言葉〉を使うつもりか」

「そうです。さすがは千代賀博士だ。文字だけでなく、音声で我々は人々を統治する」

 耳には瞼がない、と言ったのは誰だったか。確実に統制の力は強まるだろう。

「街中にスピーカーを設置し、そこから〈言葉〉よるスピーチを流し続ける。それだけではない。我々はある実験をしている。その実験で、きみたち三人にモルモットになってもらおうというわけだ」

「どんな実験だ?」

 男は邪悪に笑った。少なくとも、僕にはそう見えた。


「人の言語野に〈言葉〉の体系をダウンロードする実験だ」


「馬鹿な!」博士が叫んだ。「そんなことができるわけがない。確実に被験者は死ぬぞ」

「そう断言できないレベルまで、研究は進んでいるのですよ、博士」

 つまり、この実験が成功し、実行されたとき、人々は〈言葉〉の体系を含んだ声を発することになる。

 それによって、人々は伝えたい感情を相手に強制的に想起させられるようになる。理解されるという概念は消滅するのだ。感情の受動性はなくなり、能動性を受け手ではなく話し手が持つことになる。

 そして、会話を通じて、人々は〈言葉〉によってがんじがらめになる。もしかしたら、キリストが説いた隣人愛は簡単に成立してしまうかもしれない。ただし、そこにある感情のベクトルは、受け手が話し手に好意を持つという構図ではなく、話し手が受け手を好きにさせるという歪な構図だ。ある意味で暴力のような好意の構図が全人類単位で実行される可能性は、ゼロではない。

 言語に視点を置けば、言葉は画一化し、すべての言葉に存在していた行間は駆逐される。内言語にまで〈言葉〉が及ぶのであれば、あらゆる創作は消滅するのではないか。何故なら、人の思考は青空よりもすっきりしたものになるからだ。『なんとなく』も存在しない。『うまく言えない』もない。そのぼんやりした部分に創作のインスピレーションは存在しているのではないだろうか。

 僕は長い思考を終える。こうやって考えを巡らせることも、もうすぐできなくなるのだ。

 博士と男が口論をしていたようだったけれど、博士が銃で脅されて、それは終わった。たぶん、博士も僕と同じ想像をしたのだろう。

 博士はうなだれている。イリカが博士に近づこうとしたけれど、同じように警官に警告された。僕に抵抗する気はまったくなかった。

「連れていけ」

 男がそう言って、警官が僕の身体になにかを貼った。

 ああ、これがノックアウトシールか。

 そう思った次の瞬間には、僕の意識は落ちていた。

 僕は警官に引きずられるようにして、連れていかれる。

 まるで、照明の消えた舞台から退場させられるようだった。

 僕らはこれからどこへいくのだろう。

 この暗い道はどこに繋がっているいるのだろう。

 僕は行く末を見た。当然、顔は動かない。見ているような気になったというだけだ。夢か幻を見ているのだ。

 僕が進む先には、地下室がある。いや、地下牢とも呼べるかもしれない。

 僕らは引きずられながら、その部屋に至る階段を下っている。

 そして、僕らはその部屋に入る。僕らを連れてきた人間もその部屋に入る。

 入って、扉を閉めれば、鍵が自動的にかかる。内側から鍵をあける術はない。

 そこは〈言葉〉による支配が完全になる未来。

 わたしがそう思ったように、そう思うべきことを、すべての人間に思わされる社会。

 そんな未来に繋がる入口が、なにも言わず僕らを待っている。
















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