part1:〈The Word〉

 仕事の休憩時間に、先輩が勧めてくれたジョージ・オーウェルの『一九八四年』の続きを読むことにした。読書家の先輩が、僕の仕事が、作品の主人公が真理省ミニトゥルーで従事している仕事と似ているという理由で勧めてきたのだ。

 たしかに、僕のやっている仕事には口述筆機も記憶穴もないけれど、本質では同じだと言えるだろう。

 ただ、僕は主人公が気に食わなかった。彼は党に批判的な思想を抱いているのだ。思考犯罪を犯すだけでなく、彼は日記を書くという形で行動にまで移していた。あまつさえ、日記には『ビッグ・ブラザーをやっつけろ』といくつも書き込んでいる。

 愚かな行為だと思う。少なくとも、僕が読んでいるなかで描写された党は素晴らしい存在だった。そう思った。そんな党に反する主人公の思考と行動はミクロなテロリズムだ。きっと、いずれ思考警察に捕まって強制労働なりをさせられるだろう。パーソンズの子どもたちの方が、ずっと正義だ。何故なら、彼らは悪を憎んでいるからだ。敵国の捕虜が絞首刑になるのを見たがっているというのが、何よりの証左だ。そんな彼らを人食い虎の子のように見ている主人公には苛立ちを禁じ得なかった。

 ただ、面白くない作品ではない。まだ少ししか読めていないけれど、正直言って、続きが楽しみだ。きっと、これは犯人側からの視点で描いたミステリのように、党に対する反逆者である主人公が党によって何らかの粛清を受ける話なのだろう。そういう意味で主人公は憐れですらあった。共感できない主人公の党を批判するような思考描写も、逆説的に党の正当性を証しているのだ。

 僕は主人公が悪であり、党が正義だと思った。

 そんなふうに自らの精神を観察する。

 キリのいいところまで読んでから、拡張現実オーグのリーディングソフトをとじた。面白い本に出会うと呼吸を忘れる。僕は何度か意識的に呼吸する。すると、オーグに昼休みが終わったことを告げるアラームが表示された。僕は仕事机に座っていたので、すぐに仕事を再開する。



 同僚もぞくぞくと自分の席に戻ってきた。僕に『一九八四年』を勧めた先輩は、僕と同じ作業に就いているけれど、部屋は別だ。

 オフィスにはいくつものデスクが並んでいて、一人につき一台のデバイスが割り当たっている。部屋の壁や床、デスクも白に統一されているから、神聖さすら感じる部屋だ。代替現実オルタナもこの部屋にはない。

 ここを一歩でも出れば、外は〈言葉〉によるオルタナで溢れかえっている。そういう意味では、やはりこの部屋は特別なのだろう。少なくとも、外の世界の無音の喧騒とは無縁だ。その喧騒をつくり上げているのがこの部屋なのだけれど。

 僕に割り当たっているデバイスを起動すると、すでに文章が送られていた。政府の公式文書だ。国内総生産GDPの数値が前年度よりも上昇したという内容だった。そこにタグづけされている要求はこの文書の注目度指数ADI好意度指数GDIをレベル7まで上げろ、というもの。

 文章をスキャンすると、現時点での文章の各パラメータが表示される。無機質な文章のためどの数値も高くない。僕はADIとGDIの数値を指示通りに上げる。内容維持指数CMIも許容範囲内だ。僕は文章の改変を実行する。改変後の文章が表示され、僕はそれを流し読みして処理を終える。

 このあと、僕の作業をベースにさらに細かいパラメータの改変が行われてから、この文章は発表される。

 次に送られてきたのは、官僚の不祥事の告発文だった。

 どうしてこういう文章を検閲に通させてしまうようなヘマをやるのだろう。アンダーグランドに広める方法はないわけではないはずなのだ。当然、違法行為ではあるけれど。

 もしかしてこの書き手は、文章はオフィシャルなものとして発表されるべきだ、とでも考えているのだろうか。いや、考えているとしか思えない。

 この政府直轄の検閲場では、社会の名の下にある書籍、文書、論文などのすべての文字メディアの検閲を行っている。

 考え方によれば、僕の仕事は表現の自由を侵害しているのも言えるのだろう。

 僕はふと、デバイスの中央上部にある文章を読んだ。


〈《言葉スクリプタ》によって、世界は1つになる〉

〈《言葉》によって、人々は1つになる〉

〈《言葉》によって、世界は幸福になる〉

〈《言葉》は正義である〉


 僕は胸が熱くなるのを感じた。決して自由の侵害などではない。僕のやっていることは正義だ。しかも、この正義は独りよがりなものではなく、世界全体の幸福への還元される。それがこの文章に証されているのだ。

 心からそう思った。

 逆に、この告発文を書いた人間に、僕は『一九八四年』の主人公に抱いたものにも似た憐れみを抱いた。

 告発文にはつけられたタグはADIをレベル1に設定することと、忘却促進指数OPIをレベル10にすること。つまり、この文書はちゃんと公になるが、誰も内容を覚えていられない。文書を認識した次の瞬間には忘れているのだ。それは告発者当人も例外ではない。

 僕は仕事への誇りを胸に、パラメータを調整する。もともとのADIはレベル6だったから、これが発表されれば、スキャンダルは間違いなかっただろう。

 同じように、改変後の文章を流し読みして、僕は処理を終える。

 僕はそれからいくつかの文書の言葉を〈言葉〉に改変した。



〈言葉〉とはなにか。

 簡単に言ってしえば、人間の脳を制御する言語。

 ただ、新しい体系を持つ言語ではない。既存の言語にもその力は存在している。発見されるまで、人間はそれを無意識に使用していた。

 たとえば、アメリカ大統領エイブラハム・リンカーンが行ったゲティスバーグ演説。『government of the people, by the people, for the people』――人民の、人民による、人民のための政治。評価はどうであれ、アメリカ史に残る演説だ。

 たとえば、ナチス・ドイツ総統のアドルフ・ヒトラーの諸演説。ジェスチャーの使用、抑揚や反復を利用した口調。そして、ワンフレーズに具体性とわかりやすさを組み込んだ構成。彼はそれらによって人民の心を掴んだ。

 歴史を辿れば、世界中で魅力的なスピーチが行われている。政治的指導者によって。あるいは数多くの宗教の指導者によって。そのスピーチは何故、人々の心を掴んだのか。

 その答えが〈言葉〉である。彼らは〈言葉〉を無意識に使っていた。正しくは、理想のスピーチを求めれば求めるほど、影響力の強い〈言葉〉に近づいていったのだ。

 一つの言語には一つの〈言葉〉の体系が含まれている。英語には英語の〈言葉〉があり、日本語には日本語の〈言葉〉がある。そして、文字だけでなく音声言語にも〈言葉〉は存在する。

〈言葉〉の体系を発見したのは、千代賀チヨガゲンリという科学者だった。彼は、作家でもある。

 発見された〈言葉〉は多くの科学者の研究を通じて、操作可能のものになり、その力も多様化していった。

 たとえば、どれだけ注目されるか。

 たとえば、どれだけ印象に残るか。

 たとえば、どれだけ好意的、あるいは批判的な感情を持たれるか。

 たとえば、読んだ人間のどんな行動を促進し、抑制するか。

 それらに代表されるいくつもの影響力を自由に改変できるようになった。

〈言葉〉を利用した言葉を認識した人間は、その〈言葉〉通りに感情し、思考する。

〈言葉〉が広まったのがいつからなのか、正確にはわからない。今では人民の統制に使われている。


〈犯罪やテロ行為が加速度的に増加する世界の秩序を保つために統制を強める〉


 そういう内容の政府の公式文書を読んで、賢明な判断だと僕は思った。

 その統制方法こそが〈言葉〉だったのだが、もしかしたら僕のように直接〈言葉〉に接する人間以外は、その存在自体を認識していないかもしれない。実際、〈言葉〉に従事する人間は〈言葉〉の基礎知識を得ることはできるが、仕事については口外してはいけないことになっている。

 そして、すべての〈言葉〉にはそれと意識されないようなプロテクトがはってあるのだ。当然、それも一つのパラメータとして存在する。そのパラメータはSCIと呼ばれ、基本的にレベルは最大の10である。

〈言葉〉よって犯罪は激減し、自殺者も減少した。政治も経済もスムーズに回っていた。人々は〈言葉〉が示すその通りに生きる。


〈《言葉》によって生まれた秩序は、この世界を理想郷ユートピアにした〉


 この公式発表に頷かない人間は、いない。



 僕は仕事を終えて、帰路についた。

 オーグ上には大量のオルタナが存在している。店だけでなく、道行く磁動車マグビークルや街路樹にまで貼りついている。なんの比喩でもなく〈言葉〉は風景の一部だった。店のオルタナには店舗情報と評価、そしてネットワーク上に存在するその店への感想が詳細に表示されていた。

 人間は食物と一緒に情報を食べるのだ、と言ったのは誰だったろうか。そういう意味では、僕はすでに並んでいる飲食店のほとんどを味わっていることになる。当然、そういうわけではないけれど。

 基本的にメインストリートに並ぶ店は評価が高い。ただ、一店舗だけ評価がやけに低い店があった。トップにオフィシャルコメントが表示されている。


〈この店では先日、違法行為が行われました〉


 僕はため息をつく。失望からくるため息だ。

 違法行為に場所を提供したのだ。この店はもうすぐ潰れるだろう。僕は店主に怒りを覚えた。メインストリートに店を構えることのできる店はそれだけで優れた店だったはずなのだ。民衆や政府の信頼を失った代償は大きい。

 その店を通り過ぎようとしたとき、僕は道端に一枚の紙が落ちていることに気がついた。こういうものが落ちているのは珍しいことだった。そもそも、紙自体が今やデッドメディアだ。

 僕は近づいて、紙を拾う。紙には何にも書かれていなかった。

「なんだ?」

 呟いた瞬間、紙に文字が浮かび上がる。それはオーグ上に表示されていた。紙は白紙のままだ。

『welcome』

 表示されたのは、その単語だけだった。

 どういう意味だろう。いや、意味はわかるけれど。

 このメッセージになんの意図が?

 と疑問に思った瞬間に、文字は消えた。

 なにかの悪戯だろう。

 これと同じメッセージを2人に送ってください。そうでなければあなたは不幸になります。なんて書かれていないだけマシだ。

 それでも少し嫌な気分になったので、僕は紙を捨てて、評価の高い行きつけの飲食店に入った。



 1番食べたいと思ったビーフシチューを食べながら、僕はぼんやりと考える。

 ああいう出来事は久しぶりだった。さっきのメッセージのことである。

〈言葉〉によって、言葉はわかりやすくなった。意図がわからないということはなくなったし、すべての言葉にはなにかしらの意図があるのが当たり前になった。なによりもまず、〈言葉〉には意味や意図を伝えようとする作為がある。

 しかし、あの『welcome』にはそれがない。

 多分、あれは〈言葉〉ではないはずだ。なにも感じなかったからだ。メッセージを残した側にはなにか意図があったのかもしれない。けれど、それは受け取る側、つまり僕に伝わらなくても構わない、という意思があるようだった。まるで僕にとっては、言葉自体が空白であるかのようだ。

 僕はその空白を考える。きっと、こういう思考はAIにはできない。合理的なAIにとっては、なにもないとわかっているものは無でしかなく、そこで終わっている。けれど、僕は考えてしまう。なにもないと知りながらも、思考は一人歩きしていく。そして、こんな思考は〈言葉〉からは生まれないものだ、と思う。

〈言葉〉はあまりにも画一的なのだ。そうでなくては統制には使えないから、当たり前だとも言える。画一的であることが統制に利用される第一要素なのだ。

 僕らは〈言葉〉の影響を意識することができない。自分自身がそう思ったように、そう思わされるのだ。もしかしたら、僕がこのビーフシチューを注文したのも〈言葉〉による意識制御かもしれない。僕は本当にこのビーフシチューを美味しいと思っているのだろうか。〈言葉〉によって欲望が形成され、その欲望に辻褄を合わせるように僕はビーフシチューが美味しいと思っているのかもしれない。

 この世界に僕という個人は本当に存在しているのか?

 僕はその問いに身震いする。

 自らの存在が脅かされる問いに対する恐怖ではない。

 政府の統制に疑問を抱いてしまったことに対する恐怖だった。

 こんなことを考えてはいけない。〈言葉〉と、そして政府に疑問を抱いてしまったら、これから正気ではいられない。

 いや、違う。

 正気になってしまうのだ。

 盲目的でなければならない。そのために〈言葉〉はあるのだ。

〈言葉〉はこんな思考を誘発しない。けれど、僕が思考の足がかりにしたのは空白の言葉だ。

 僕は眩暈を覚えて、店から出た。店員がなにか言った気もしたが、定かではない。

 外に出ると、大量の〈言葉〉によるオルタナがあった。

 そうであれ、と僕らに語りかける〈言葉〉たち。

 盲目的であれ、と僕らを誘惑する〈言葉〉たち。

 僕。

 僕は――、

 ぼくは――。


〈政府は正義である〉

〈健康で善良で正統な思考こそが幸福である〉

〈社会のために生きることが正当である〉

〈経済政策によって、GDPは2%上昇しました〉

〈逸馬ヤタル議員は賄賂と不正にまみれた議員である!〉


「…………」

 そうだ。いつだって政府は正統なのだ。

 僕は一瞬だけ、『一九八四年』の主人公になってしまった気分だった。あの反社会的な思考をしていた。大丈夫だ。僕は、ちゃんと政府が正義であると思考している。そうであるものをそうであるものとして思考できている。あれは一時の気の迷いのようなものだ。

 現に、政府の政策は成果を上げているし、今まで政府官僚の汚職事件などは聞いたことがないではないか。

 僕は深呼吸をする。

「大丈夫だ」

 僕は独り言を呟く。

 すると、背後に人の気配がした。

「いや、きみは大丈夫んだ」

 男の声がして、振り向くまえに、僕の意識は暗転した。








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