第2話

麻里江は突然声を掛けられたことに心臓が喉から飛び出しそうになった。

後ろを振り返ると、妹の麻衣子が彼氏と一緒に抹茶の器を手に持ちながら、麻里江の方を見て、目をまん丸くしていた。


「あなたこそ、こんなところで何をやっているのよ?」


麻里江は、妹の麻衣子とは離れて暮らしていた。

麻衣子は、四歳年下で、現在は栃木の大学に通っていた。元々実家が栃木県にあったが、麻里江は大学から東京に出てきて、就職も都内にしようと決めて、現在に至っている。


「今さあ、大学が夏休みに入ったから、彼氏とドライブで鎌倉まで来ちゃった。ねえ、お姉ちゃん達、別荘泊まってるの?私たちも今日泊まっていいかな?」


突然の妹の申し出に、麻里江は一瞬逡巡したが、部屋が四つもある別荘だったので、しょうがないかと思いながらも、承諾した。


麻衣子の隣にいた彼氏は、日焼けした顔に端正な顔立ちで、


「無理なお願いで申し訳ありません・・・」

と言いながら、頭を下げていた。


恐らく見た感じは麻衣子と同じくらいの年齢だろう。その彼氏は凛々しさの中にまだ幼さの残る顔立ちをしながら、麻里江が「どうぞ。」と言うと照れくさそうな表情を浮かべていた。


「大学生のくせに、やることやってるのねえ。泊りだなんて・・」

麻里江は、車の助手席に座るなり、そう呟いた。


「ねえ、せっかく私たち二人でゆっくりできると思うのに、妹が別荘に来るなんて、お邪魔虫もいいところよね?」

麻里江は、首を横に捻って、俊之の顔を見た。


「まあ、いいじゃないか。妹さんだって、なかなか普段はこっちの別荘には来れないんだろう」


「まあ、そうなんだけどね・・・」


しばらく車を走らせて、坂の下から数百メートル先に麻里江の別荘が見えてきた。

この丘の上にそびえ立つ豪勢な別荘は、父親が土地を買って、五年前に建築家に頼んでたてもらったものだった。

父親は、実業家として成功し、かつ不動産も何軒か持っていた。


麻里江は小さい頃から、自分の家は他の家よりも裕福だという自覚はないといったら、嘘だった。洋風の建築の一軒家は、まるでヨーロッパのお城のように木造建築が立ち並ぶ住宅街に溶け込まない形で存在していた。広い庭には、季節ごとに花々を咲かせて、それは麻里江をお姫様のような気分にさせたものだった。


庭には、ビニールハウスがあり、野菜の温室栽培をしていた。

父親は、野菜の育ち具合や手入れをするために、よくそのビニールハウスに出入りしていた。



車が別荘の近くに近づくにつれ、家の玄関の明かりがついていることに気が付いた。


―――あれ?出掛けるとき電気は全部消していったはずなのに・・。


麻里江は、ふと不安な気持ちに襲われた。もしかして、鍵をかけ忘れて泥棒にでも入られているんじゃないか。見知らぬ人が勝手に家に侵入していたら・・・。


「ん?家の玄関に明かりがついているなあ」

俊之も怪訝そうな顔つきで、車の運転席から別荘を遠巻きに見ていた。


車を駐車場にとめると、二人はもし強盗に何か襲われて怪我、はたまた命まで奪われてしまっては恐ろしいと、車の後ろのボンネットに入っている万が一のための、金属バッドを持って、家の玄関の前に立った。


麻里江は慎重にドアのノブを引っ張った。やはり、鍵はかかっている。

じゃあ、何故家の玄関の電気が点いているのだろう?と、震える手で、鍵でドアを開け、片手には金属バッドで、家の玄関に思い切って入っていった。


「誰がいるのよー!!」

麻里江は思い切って、暗闇の中で自分の耳も壊れるくらいの大声で家の中で叫んだ。


コンコン、コンコン


何か物を切っている音が二階から聞こえてくる。耳を澄ませて、金属バッドを持ちながら、ギシッ、ギシッと階段を軋ませながら、恐る恐る二階に上がっていった。


麻里江の心臓は今にも飛び出しそうだった。


いや、本当のところ、このまま俊之と車で東京に引き返して逃げたい気持ちで一杯だった。でも、もう闘うしかない。そう決めた時だった。


「―――あら、麻里江、おかえりなさい」


麻里江の母親が暗闇の中でキッチンから顔を出した。


「ママ?何をしているの、こんなところで!実家の栃木にいるんじゃなかったの??」


麻里江は、あまりに予想外の展開に、体中の力が抜け落ちてその場でヘナヘナと倒れこんでしまった。


「あらあら、麻里江ったら・・・。大丈夫??金属バッドまで持ってどうしたの?ママたちも、今日からこの別荘にしばらく滞在していようと思っているのよ。ねえ、あなた・・」


その途端、居間の奥の書斎から父親が、忽然と姿を現した。


父親は、寝室の方を指さして言った。


「今日は、ハルおばあさんも来てくれたんだぞ」


「は?ハルおばあちゃんまで?脚だって悪いんでしょう?」


ハルおばあちゃんは、麻里江の父方の祖母だった。今年で八十九歳になる。

祖父は、随分前に麻里江が小さい頃に亡くなったと家族から聞いている。それ以来、ハルおばあちゃんは、栃木の両親の実家に車椅子で一緒に暮らしていた。


「ハルおばあちゃんは、今どこにいるの?」


「今は寝室で寝て休んでいるよ。夕飯には出てくるさ」

父親は、そういって笑顔を浮かべた。


「・・・・っていうか、お母さんとお父さんもハルおばあちゃんまで、なんで、よりによって今日来たのよ?何も知らせがなかったじゃない。それなら早く言ってよ。もうすぐで、私心臓発作で死ぬところだったんだからね!」


「だって、今日は麻里江のお誕生日じゃない?お母さん、麻里江のために沢山御馳走を今作っているところなのよ。どうせ、沢山家族がいた方が麻里江だって、寂しくないでしょう?」


「それに栃木から来たから、どうせならお母さんたち、泊まろうかなってお父さんと話していたの・・」


階段の下から、俊之が心配そうな表情で上がってきて、麻里江の両親を見た途端、驚いた表情で息を止めていた。


「俊之さん、お久しぶりねえ!今日から麻里江とバケーションなんでしょう?私たちもぜひ一緒に過ごしたいと思って・・・。お邪魔だったかしら?」


母親は満面の笑みで、俊之に笑いかけた。


「―――え、ああ、まあ大丈夫ですよ。はは」


俊之は困惑した表情で、ぎこちない笑顔を見せた。


「ああ、そういえば、今日麻衣子達も来るって言ってたぞ」

普段滅多に口を開かない父親が、話を切り出してきた。


麻里江は、あまりの家族全員の行動の唐突さに、動揺を隠せなかった。


すると、玄関が開く音がして、下の階から麻衣子と彼氏の話す声が聞こえてきた。


「せっかくだから、ソファにでも座って」

父親が、俊之に向かって、ソファを手で指し示した。


「ああ、すみません。じゃあ、せっかくなので座らせていただきます・・・」


俊之もまだ困惑の表情を崩さないまま、ソファにぎこちなく座った。


「お姉ちゃん、今日はお姉ちゃんのお誕生日だから、サプライズでケーキを買ってきたよ~」


麻衣子は笑顔で、ケーキの箱を手に持ったまま、彼氏の横に立っていた。


「もう、みんなでそんな余計なお節介しなくていいのに・・・」


麻里江は、半ばふて腐れた状態で、ソファに乱暴に座った。


「まあまあ、そう言わないで。みんなが麻里江を喜ばすために、集まったんだから」


母親は、エプロン姿で、髪を後ろに一つに縛っていた。


家族とは、年末年始は必ず実家の栃木に戻って、会っているが、母親も父親もだんだん会うたびに年老いているような気がしてならない。

特に母親は、今年会った時に随分頬がこけて、体全体もやせ細ったように思う。


この奇妙な雰囲気の中で、麻里江も俊之も何をすればいいのか分からず、ただ呆然とソファに座ったままだった。

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