#40

「妖怪が死んだからって、そんなに落ち込むことないじゃないか」


 この言葉を聞いたとき、私はこの男を殺してやろうかと思った。狂気の幽霊が足元から脳天まで駆け上がり、一秒に二十パターンもの罵りや卑下、嫌味の言葉が脳を転がり回ったが、どれも口から出てくることはなかった。心底落胆していたからだ。

 南はバカみたいな顔で、バカみたいな自宅からバカみたいな塩を持って来ていた。

塩は英語でもなさそうな海外の文字と、青を中心とした原色のロゴで装飾されており、なんだか分からないが神秘性を帯びていた。


「僕は何も見えないんだし、親近感なんて湧かないよ」

「そうでしょうね」


 理解されない私の悲しみは、この男に対する憎悪に変わっていた。理不尽なのは分かっていた。見えもしない妖怪に愛情を持てなんて、きっと無茶な要求だろうから。


「果歩ちゃんは良くやったんだと思うよ。あちこち歩き回って、僕には良くわからないけど……」

「もういいですよ、分からないくせにおべんちゃら無理に並べ立てないでも」


 人生で初めて“おべんちゃら”なんて言葉を使った。使い方を間違ったかもしれない。


「そういえば南さんは、依頼はどうするの?」

「もう、適当に塩を撒いて回ろうかと思ってるよ」

「そうですか。ラグレグに当たればいいね」

「うん。ありがとう」


 その「ありがとう」と言う返事にも、イラっとさせられるものがあった。この人が、私の思っていること、感じていることを何も分かっていないことの証明だからだ。

 私はこの人に、理解されたいと思っているのかもしれない。

 南はそわそわしていた。そろそろお別れだねだとかなんとか。私は適当に返事をして、早く温泉に行きたいと考えていた。


「なんだろうね、この気持ちは」

「分かりませんよ。そういえば、南さんも幽霊に取り憑かれてるんでしょ?」

「そうなの?」

「たしか、だれかがそう……」

「いや、いや、それは良いんだ。幽霊なんて大した問題じゃないんだよ」

「あなたの商売相手でしょ?」

「大したものじゃないんだよ。人間の方が、ずっと重要なんだよ」

「はあ……」

「つまり、僕は怖いんだ」

「なにが?」

「果歩ちゃんと離れるのが……」


 ききき、きーもち悪ーいと、思ったか思わないかのときに、南は覆いかぶさってきた。


「ヒェー!」


 おっさんのにおいがした。こいつおっさんじゃねえか! さあ、この男を警察に突き出すか殺してやろうと考えたのだけど、体が思うようにならなかった。毒でも盛られたかのように痺れて、声も出なかった。薬でも盛ったのか? ええ? 薬でも盛りやがったのかこの人間のクズ界のクズ担当大臣が!

 そんな状況で不意に、笑ってしまった。自分自身を鼻で笑った。私は理解した。これはつまりあれね、仕方のないことなのね。妥協という言葉は、このときのために丁重にしまわれ、用意されていたのだ。南直行とは確かに、有能な除霊師なのだった。

 南は自分のジャージとシャツを物凄いスピードで脱ぎ、その情けない体を押しつけてきた。私は別に、男が初めてというわけではない。初めてではないが、遊んできたわけではない。そういった行為の本来の意味など分かっていないのかもしれない。でも、本当は多分、誰も分かっていないんじゃないかとも思うのよ。

 きっと、分かる必要もないほど、単純なことなんだわ……。


 あーあ、私、こんな形を望んでたんじゃないのに、ほんと災難だわね。


―― いや……むむっ。


 ほんと、男ってどうしようもない生き物ね……。


―― むむむむ!


 私は、自分の心の声に疑問を持った。

 ちょっとちょっと! 私、こんな喋り方じゃないんですけど!


「あ、分かった!」

「え、え?」


 南は私の声に一瞬怯んだ。その隙を突き、私はゴキブリのようにサササと畳を這って、南のバッグから塩を取り出した。


「悪霊退散!」


 この小さな可愛いお手手いっぱいに塩を掴むと、南にぶっかけてやった。


「わっぷ! げ、ゲロゲロ! 見逃してくれよー!」


 その言葉を最後に南は失神し、数分後目覚めたときには多分、正気に戻ったみたいだった。

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