#28

「ダメですよ」


 私は言った。旅館二日目の朝。旅館らしい質素で退屈で最高の朝食を食べている最中、対面の席に座る男は不快な話を持ち出した。ごちゃこちゃ言い訳は述べていたが、詰まる所こいつは、自分の仕事から逃げ出そうというのだ。


「でも、一日だけだよ」

「ただでさえ昨日一日を棒に振ったんだから、もう、少しも時間を無駄にはしたくないんですよ。それに、もしも力仕事が必要になったり、私が浚われそうになったり、妖怪と取っ組み合いの殴り合いになったりしたらどうするのっていう話でしょ? 幽霊も何も見えないなら、せめて、いざという時のために備えて置いてもらわないと、本物の役立たず確定じゃないですか」


 南は私の言葉に、うーんと考え込んだ。しかし実のところ私は、南の役割や尊厳に関わる部分に関しては、全く気にしていなかった。どうでも良かった。

 ただ、財布係が居なくなることが、嫌で仕方なかった。金だけ置いて行ってくれという言葉が何度も喉元まで込み上げて口から出そうになったが、心の溝に僅かに残っている僅かな良心がその言葉を飲み込ませた。


「そうだね……。でも……」


 不満そうな顔をして、南はご飯を味海苔で巻いた。ぱりぱりと音を立てて、海苔は銀色の米を包んだ。南は何やら意見を述べていたが、私の耳には海苔のパリパリという音しか聞こえなかった。

 八百万の神様……。

 祈らずにはおれなかった。八百万の神様ありがとう。お米の、海苔の、お箸の、あっ、お海苔の、お茶碗の神様ありがとう。それで、手を合わせて、自分もご飯に手を付けた。


「とりあえず今日一日は頑張って」私は言った。

「わかった。今日で終われば良いね……」

「あと、今度の妖怪、塩じゃ利かないらしいんで」


 旧採石場に岩男は居なかった。そういえば、海に行くと言っていたな。うっかりしていた。でも、海になんて居たら、目立って仕方ないのではないだろうか。岩場なら平気なのかしら。

 バスで更に移動し、町の中央にある大きな公園で今後の作戦について話し合った。敷地面積だけが自慢の公園で、奥まった所では度々、カップルの情事や痴漢や恐喝や暴行など諸々の犯罪が行われていた。夜は近付くなと、親からは散々注意を受けたものだ、夜行性のモグラだけが、その全てを目撃していた。

 芝生の斜面に腰掛けるとちょうど視界が開けていて、犬の散歩やランニングをする夫婦や公衆トイレやうずたかいフェンスや車を何台も積んだトラックや孤立した電線塔や取り壊し間近の廃ビルなどが見渡せた。

 自分の膝に、今まで気づかなかった小さな疣が出来ていた。ああいやだいやだ。こんなに若いのに、それでも年を取るなんて。


 ツチニョロンが持っている情報を中心として、今後の予定を検討した。

 ツチニョロン情報は大部分が噂話であるが、他に頼れる情報も無い。ラグレグはカラス並みの知能を持っている。ラグレグは眠ることをしない。ラグレグは時に、人間にも危害を加える。ラグレグの巡回ルートはランダムで、しかし建造物は避けて通る。


「分かれて探した方が良いのかな」


 とは言ったものの、誰かがラグレグを発見したとき、どうやって他の皆に伝えることが出来るのだろうか。根本的な問題だった。


「妖怪け、掲示板、み、み、見に行ってみよう。そこ、すぐ、そこ、近くだからな」

「妖怪掲示板?」

「す、そうだ。ハッ!」

「どうしたの?」

「え、何でもない」


 と言いつつ、ツチニョロンは一人、小さく不格好な足をパタパタと動かして行ってしまった。皆、その後に付いて行った。


「ねえ、あんたは情報網とか無いの?」ヒッキーに話しかけた。

「心霊研究家同士で多少は……」

「違う、あんたじゃない」

「何だ?」

「あんたは妖怪同士の情報網とか無いの?」

「無いな。そもそも、おいらがこの町に来たのはついこの間だし」

「そうなんだ」

「それに、どこかに籠るタイプの妖怪は、世の流れなんて知っていても仕方ないしな」

「そんなもんなの?」

「そんなもんさ。おいらはお前ら人間みたいに、他人の不幸を食い物にしないし」

「え? 私そんな趣味ないよ」

「気付いてないだけさ」

「掲示板どこかな?」


 ツチニョロンに追いついた。


 奴は、片方だけの、小さな紺色の靴を眺めていた。

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