#10


 女の子の名前は近藤果歩といった。日焼け知らずの白い肌には、点々とホクロが散っている。茶髪を黒く染め直した肩甲骨までのロングは手櫛で整えられ、細かい枝毛が跳ねている。


 学校は行ったり行かなかったり。しかし、不良と言う訳ではない。悪いことをするような度胸は、根っから持ち合わせていなかった。

 果歩が反抗できるのは精々家族に対してくらいなもので、犬も虫も不良も雷も体重計もジェットコースターも恐ろしかった。

 学校を休むことにも恐怖を感じていた。

不安半分、恐怖半分。でも、ただ何となくではあるが、このまま成長して二十歳も過ぎた頃には、何となく将来の方向性も決まっていて、何となく全てが自分の思い描く選択肢の一つに収まっているのではないかと、何となく、そう思っていた。


 果歩は男にふられた。先週の土曜日の話だ。振った振られたリスカしたなどという話は、いまさら語るところも無いほどに語り尽くされている。しかし、彼女にとって初めての体験であった、

 好きな相手に面と向かって振られるというショックは、簡単に拭えるものではなかった。そして実際、拭えはしなかった。心に隙間が出来たような気がした。心の隙間におかしな物が挟まらなければいいけど。そんな感じだった。

 1週間で2キロ体重を落とした。ダイエットもせずに減るなんて、きっと死ぬんだと、彼女はほとんど確信していた。


 しかし程なくして、彼女の心の隙間は、他の感情によって塗り潰された。

 

 心の隙間どころか、みっちり埋まって息詰まっていたある日のこと。

 近藤果歩は、学校に行く途中で蝶を見かけた。

 こんな風に意識して蝶を見たのは何年ぶりかと、童心に戻ったような気持ちになり、思わずその方向に歩いて行った。

 蝶は急に方向転換をして、時には果歩の頭上を超えて行った。

 果歩は意固地になって、撒かれそうになると小走りで追った。粋な気がしたし、蝶を追いかける自分が好きだった。しかし実際は、体よく学校をサボる理由を、あのか細い蝶に負わせていただけの話だった。

 蝶は民家の屋根を越えて飛んで行ってしまい、見失ってしまった。

 ふと気付くとそこは、今までに入ったことの無い路地だった。目新しい場所だった。向こうに見える坂道はどこに通じているのか全くわからないし、階段を下りて行っても行き先は見当が付かない。

 番地を見ると、知っている町名ではあったが、特別関わったことの無い場所だった。昔、お祭りのときにこの近くを通ったかもしれない。お神輿を担いで、町を練り歩いたときのことだ。

 あの頃は良かった。良く分からない友達がいた。なんとかくんと、なんとかちゃん。その場で仲良くなって、その場で疎遠になった。果歩は思った。成長して、多少大人になって、私は頑固になった。悪い意味で頑固になった。新しい道が必要なのかもしれない。新しい道が目の前に続いている。どこに続くか分からない道。ここを行くべきだろう。私には新しい道が必要なのだから。良い風に変わりたいのであれば、この新しい道を進むべきなのだ。そう、果歩は思った。


 それはただの私道で、彼女の生き方や将来などとは全く関係のない物ではあったが、少々我を見失って夢想的になっている少女が運命の道と勘違いする程度に謎めいてはいた。

それに、果歩は参っていた。

 彼女が参っている理由の一つに、例の一件があった。交通事故を目撃したショックというやつだった。事故はローカル局でニュースになり、何度かテレビで報道された。

 果歩は、そのニュースをまともに見ることが出来なかった。遺族のインタビューが放送されると鳥肌が立って、直ぐにチャンネルを変えた。

 事故現場にも近付かなかった。

 警察が目撃者を探しているという話を聞いて、今にも家に警察がやって来るのではないかと恐怖した。まるで自分が事故を引き起こした張本人であるかのように……。

 だって、あの黒い塊をどう説明する? 私は頭がおかしい思われるだろう。

 それに、万が一信じてもらえたとして、警察にペラペラ喋る私のことを、あの黒い塊が許さないかもしれない……。


 新しい道を行こうと思った。カラスの間抜けな声だけがカアカアと聞こえた。

 果歩はその見覚えの無い、鬱蒼とした藪に挟まれた階段を下りていった。古いコンクリートの階段で、各所が欠けたり磨り減ったり変色したりしていた。鉄製の手すりは塗装がはげて錆び付いていた。下の方に真っ黒な猫がいた。猫が果歩のほうを見上げたので、思わずカバンを前に持って行ってスカートを隠しそうになった。猫は興味無さそうに、華麗に階段を下りて去った。

 良い気分だな。彼女は思った。

 蝶のことにしても、猫にしても。美しくて可愛らしくて、ごちゃごちゃした細かい悩みを浄化してくれそうだ。今日は何かが変わる予感がする。午後からなら、学校に顔を出すのも良いだろう。

 彼女は猫の動きを模倣しようとしながら、軽快に階段を下りた。靴底の減ったスニーカーで、可愛らしい小石を踏みしめた。

 階段を下り切ると正面は民家で、左右に道が続いていた。とりあえず利き手の右側に曲がると、向こうに男の人が立っていた。やけに身長が低いが、子供には見えない。猫背で色白で、野暮ったい着物を着ていた。

 ホームレスかな……。

 具合が悪そうだと気にしていると、すれ違いざまに、その男と目が合った。

 男は果歩を指差し、叫んだ。


「見つけたー!」


 近藤果歩は失神した。


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