第32話 邂逅

「!?」

 そのとき、あたしの瞳の片隅に、突然「恐怖」が映り込んだ。

 それは、瞳の中央に迫り来る「お姉さんのお顔」ではない。


「――――」

 そのお顔の後ろから物凄い勢いで迫り来る、が、あたしの瞳を独占したのである。


 その姿は次に、あたしの耳をも襲った。


「キャしャオらアあア啞がらあ魔ア羅あアッ!」

 声にならない悲痛な叫び――。

 お姉さんの背後から、一人の女の子が、操り人形のようにぐらつきながらこちらに向かって襲い掛かってきている。

 あり得ないほど長い髪の毛を、引きずりながら走ってきている。

「ア酢ぱラガ巣ウウオおアあアオ啞オア阿あアあラアアアッ!」

 振り上げているのは――――つめ!?

 あり得ないほど長い爪を、剣のようにしてお姉さんの後頭部に振り下ろそうとしている――!


「お姉さん! 危ない!」

 あたしはとっさに声を上げ、迫ってきたお姉さんのお胸に飛び込んだ。


「な、何いっ!?」

 お姉さんに抱きついたあたしは、斜め前へと倒れ込む――。

 あたしたち二人は攻撃を交わし、廊下の壁際に避難したのである。


「ウわあアア!?」

 豪快に爪を空振りした女の子は、その場で大きくぐらついた。

 長い前髪の隙間から、ぎょろりとした目をこちらに覗かせる。


「じゅ、受刑番号0番ッ……!」

 勢いよく壁にもたれたお姉さんが、青ざめた表情を見せた。

「なぜきさまが、ここにいる!?」


「ワカりマセええン……」

 金切り声で、女の子が答えた。

 人形のような体躯。

 黒い前髪がお顔を覆い、その表情を窺い知ることはできない。

 あり得ないほど長い「爪」と「髪の毛」が、床に付いてしまうほどに伸びきってしまっている。


(もしかして、この子が、四階に閉じ込められていた女の子……?)


 あたしはぞくっと左を向いた。

 階段側の廊下から、嫌な気配を感じたからだ。

(うっ!?)

 彼女が走ってきた道を見てみると、恐ろしい光景が広がっていた。


「うう……」「ああ……」「おお……」

 廊下の節々に、赤い血が飛び散っている。

 廊下の節々で、爪で引っ掻かれたであろう看守さんたちがうずくまっている。

 その奥では、先程まで声を上げていた杏里ちゃんまでもが階段の下で倒れ込んでいる。


「あ、あなたが、やったの……?」

 唖然としながらあたしは聞いた。


「ウん? ソウだヨ」

 女の子がふらつきながら、朗らかに答えた。

「でモ、あタシハ、『アナタ』ではナいヨ。あタシのナマエは、『リュウカ』……『奈落峰ナラクミネ 龍華リュウカ』デス。ヨロ死く」

 

「ひいいいいっ!?」「なのらああああっ!?」

 尻もちをついていた二人が、大きく後ろにひっくり返った。

 そのまま両手で頭を抱え、奥のほうで小さく丸くなってしまっている。


☆登場人物ファイル⑤

 受刑番号0:奈落峰 龍華(17)

 住所:しらゆり刑務所四階・虚無の空間

 罪状:『猟奇殺人』、『脱獄(未遂)』



「ネェネェ。キミが、あタシを逃がシてくれルの?」


「え?」

 壁際に座り込むあたしに、龍華ちゃんが不器用な足取りで近寄ってきた。


「キミは、あタシの、オトモダチなんダよネ?」

 ふらふらしながらあたしに尋ねる。


「…………」

 目の前の龍華ちゃんは、あたしたちと同じお洋服――桃色の受刑服を着ている。

 戸惑いながらも、あたしは答えた。

「う、うん。そうだよ」


「そっかあ~! ウレシイナア~」

 龍華ちゃんは言いながら、ゆっくりと右手を振り上げた。

 刃のように真っすぐに伸びた爪が、あたしの身体に影を作る。

「じゃア、キミのお隣にいるカンシュさん、あタシがコロシテアゲル――」


「えっ!?」


「や、やめろっ! 受刑番号0番……!」

 隣にいるお姉さんが、抵抗の素振りを見せた。

 しかし、腰を抜かしているのか、壁際から立ち上がることができないようだ。

「くっ……」


(お姉さん……!)


「じゅ、受刑番号0番ッ! さっさと四階に戻れッ!」

 だけどお姉さんは、刑務官のプライドか、一切の弱みを見せなかった。


「ウルサイ!! ダマレ!! モジモジスルナ!!」

 龍華ちゃんは甲高い声で興奮し、今にも爪を振り下ろそうとしている――!


「だ、だめええええっ!!!!」

 大きな声であたしは叫んだ。

「お姉さんを傷つけないで!!!!」


「……エ? なんデ?」

 びっくりした龍華ちゃんが、ぴたりと動きを止めた。

「カンシュさんは、敵なんだヨ? あタシたち受刑者の、敵なんダヨ? ダカラ、コロシテイインダヨ?」


「そんなの絶対にだめっ! お姉さんを傷つけないで!」

 あたしはお尻を動かして、二人のあいだを遮った。


「よ、49番……!」

 背中のお姉さんから、熱い視線を感じる。


「なンデ? ナんで?」

 頭上の龍華ちゃんは、混乱している。

「キミは、あタシとおんなじ受刑者なンだヨネ? みンなで「だつごく」するンでしょ? キミは、あタシの、オトモダチなんジャないノ?」


「と、ともだちだよ! ともだちだけど――」


 あたしは言葉を詰まらせた。

「だつごく」をするということは、この子もお外に出すということだ。

 あたしはその責任を、背負っていけるのだろうか。

  

「なンでカンシュさんの味方をするの? カンシュさんは、あタシたちの敵なんダよ? あタシたち受刑者を、苦しめる存在なんダヨ? ダカら、コロシテいいンジャナイノ?」

 

「だめだよ!!!!」


「なンデ? ナんで?」


 ……だめだ。

 きりがない。

 龍華ちゃんは、あたしの話を分かってくれない。


「もうっ! 龍華ちゃんのわからず屋っ!」

 ぷんすかとあたしは怒った。

「敵とか味方とかじゃなくて、看守さんは、看守さんなのっ!!!!」


「ええー!? カンシュさんだから、コロシテいいんジャないノおおおお!?」

 

「絶対にころしちゃだめえええええええっ!!!!」

 あたしはこの刑務所に来てから、一番の野太い声を出した。

「そんなやりかた、誰も望んでないっ!!!!」


「アアアアッ、モオオオオ!!!! オマエ、ウルサイナアアアア!!!!」

 龍華ちゃんは地団駄を踏み、甲高い叫び声を上げた。

「カンシュさんよりオマエのほうがウルサイから、オマエのほうから先に、コロス!!!!」


「ええっ!?」


 どうやらあたしは、言葉の選びかたを間違えてしまったみたいだ。

 龍華ちゃんの振り上げた「爪」が、あたしのお顔に下りてくる――――






 ――ザシュッ!

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