3 屍骸

 文字の霊。


 その力を知り畏れた司書は、日々の仕事に精をだすようになった。

 粘土板の積まれた瀬戸物屋のような図書館の中、ひたすら大王の蒐集物を複写する。


 さて、彼が粘土板を携え宮殿を歩く最中、とある同僚と議論になった。


 我らが命の源イディグナチグリス

 我らはそれを河と呼ぶが、そも「河」とはなんぞや。


 単なる水ではない。

 さりとて水以外でもない。


 「河」という文字を指が擦り切れる程したためながらも、彼らは明瞭な答えを持ち合わせなかった。

 議論は白熱している。


「お前は河を沢山の水だといったが、ならこれはどうだ?」


 同僚はのたまい、足元のかめを指した。

 雨水がなみなみと注がれたかめである。


「これは流れていないが、今は気にしないでくれ。この水の量を見て、お前はこれを河だと思うか?」


 同僚は馬鹿にしているのだろうか。

 司書は眉間に皺を寄せながら言った。


「これは水たまりだ。お前はこれが河に見えるのか?」


 いや、見えんな。

 同僚は底意地の悪い笑みを浮かべながらうなずいた。


「だが、このかめが百個あったら? いや、千個ならどうだ?」


 相も変わらず同僚は続ける。


「国中からかめを集めて水を注いだらどうなる?」

「それは……」


 徐々に同僚の言い分が見えてくる。


「かつてシン・アへ・エリバ王がやったように、バビロンの都に水を流し込み、巨大なかめとしたらどうなる? それだけ水があれば河になるか?」


「……ならん」


 確信は無いが、司書は否定した。

 なおも口を開こうとする同僚を遮り、司書は言う。


「お前の言い分はわかった。要は、河と水たまりの境界はどこかと聞いているのだろう?」


 なおも底意地の悪い笑みを浮かべる同僚。

 黙り込み、司書の言葉を促す。


「だったら秤でも使えばいい。お前が言ったようにバビロン程の巨大な皿に、片方には重りを乗せ、もう一方には水を注ぐ。その天秤が傾く限りにおいて、それは『河』だ。そう取り決めればいい」


 静かにうなずく同僚。


「おれの言い分をいくらかわかってくれたみたいだな。だが、こう考えてみろ」


 まだ続きがあるようで、同僚の瞳は怪しい光を灯したまま。


「『河』と認められるだけの水を用意したとする。そこからほんの一滴すくい取り、土の上に捨てる。残った水はもう『水たまり』だ。だが、そいつを本物の『河』の隣に置いた時、お前はどちらが『河』か見分けられるか?」


「秤で……」


「秤じゃない。お前が見分けられるかと聞いているんだ」


 問い詰められ、司書は答えに窮した。


 ……おそらく、私は見分けられない。


「確かに天秤は一滴の違いを見分けるだろう。だが宿


 天秤はその皿の傾きで物事を判じることはできるが、「河とは何ぞや」と述べるわけではないのだ。


「お前が論じたのは天秤の傾きであって『河』のことではない。天秤の傾きは、『河』という文字の定義にはならないはずだ」

 

 河と、河より一滴少ない水たまり。

 ふと見ただけで違いはわからない。

 いや、そこで泳いで水をかき回してもわからないだろう。

 私はきっと、それを「河」という同じ文字で表現する。


 文字の限りにおいて、両者に違いは存在しないのだ。


 ……これは妙だ。


 文字とは形を与える存在ではなかったか。

 おぼろげな物事に輪郭を与え、有象無象の集合を接着する。

 抽象を具象へと象ることが文字の霊の力ではなかったのか。


 私は同僚と、ただ「河」という文字について考えていただけだ。

 だというのに「河」という存在は霧散してしまった。

 既に「水たまり」との境界は失われている。


「要は、このかめの水さえ『河である』と言い張ることができる」


 だが。


「お前はそれに賛成しないだろう。少なくとも、おれとお前で『河』という文字の中身が噛み合うとは限らない。おれにとっての『河』も、お前にとっては『水たまり』かも知れん」


 河とはなんぞや。


 彼は手に持つ粘土板を恐る恐る眺める。


 河という文字が目に入る。


 その文字は死んだように横たわり、かつて彼の頭に描かれたイディグナチグリスの雄大な流れは浮かんでこなかった。

 かめの水が脳裏をよぎり、けれど像を結ばぬまま消え去っていく。


 司書は愕然とする。


 文字が、何も語らない。

 その霊が黙り込んでいる。


 もしや。


 私は文字の霊を殺してしまったのだろうか。

 同僚との議論により、そのはらわたを切り開き、肉と皮を引き剥がすような仕打ちを与えてしまったのではないか。


 ……いや、それは有り得ない。

 私は文字に指一本触れていないのだから。


 おそらく初めからこうだったのだ。


 だとすれば。


 司書の頭に不穏なひらめきが訪れる。

 それを恐る恐る思考する。


 文字は、はじめから死んでいるのではないか。


 人は頭に言葉を孕み、その霊を孵すという。

 生まれた霊は言葉となって人から人へと渡り歩く。

 そうしてさまようことこそが、文字の霊の在り方らしい。


 そんな彼らを強引に捕らえ、殺して封じ込めたものが「文字」だったのだ。


 既にそこに霊はなく、

 ゆえに、私と同僚の「河」は一致しない。

 屍骸に残った僅かな霊の残滓が、おぼろに意味を象るのみ。


 今私は、ようやくにしてその事実に気付いたのだ。


 つまり。


 ニネヴェの図書館に蔵されているのはいずれも屍骸。

 物事を象る力をとうに失った、文字の霊のなきがらである。


 だというのに、我らがアッシュール・バニ・アプリ大王は、この図書館こそ文字の全てと考える。

 文字にて全てを残せしめよとのたまう。


 私も大王もとんだ思い違いをしたものだ。

 これでは何も残せない。


 司書は早足に仕事場へと帰っていった。

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