07: Milk Puzzle


 ミルクパズル症候群。

 発症原因、治療法不明。罹患したら記憶は消えていき、最終的にミルクパズルのように真っ白に染まってしまう。

 その記憶には呼吸の仕方や瞬きの仕方といった『無意識的行動』も含まれており、それすらも消えてしまう。そうなってしまったら――その人間は生きていくことが出来ない。



 わたしが研究室の扉を開けると、すでにそこには彼女がソファに腰掛けていた。

 待っていた、と言わんばかりの笑みを浮かべて彼女は立ち上がると、


「先生、お待ちしておりました」


 わたしを優しく出迎えてくれた彼女は、まだバックアップを利用していない。

 そしてわたしもまだバックアップを利用していない。記憶は日に日に消えていくことを実感しているが、それでも未だ日常生活に支障が無い程度。それならばバックアップは取っておいたほうが良い。それはわたしと彼女の共通認識だった。


「未だ、早いのではないかね」


 わたしは手に持っていた書物を机上に置くと、一目散にコーヒーマシンへと向かう。


「砂糖とミルクはどうする」

「砂糖一つでお願いします。……って、この話、たぶん前もしましたね」

「はは、そうだったか」


 コーヒーカップをマシンの下に置き、スイッチを押下する。

 一分もしないうちにコーヒーカップにコーヒーが注がれ、それを確認したわたしはソーサーの上にカップを置くと、角砂糖を一つ入れてスプーンでかき混ぜる。ある程度かき混ぜてから、わたしはそれを彼女の前に置いた。


「ありがとうございます」


 笑みを浮かべながら軽く頭を下げ、彼女はコーヒーを一口啜った。

 わたしもコーヒーを淹れて、ソファに腰掛ける。

 彼女の『願い』を聞いてから、一年の月日が経過した。それからわたしは夕方になると彼女と遅めのコーヒーブレイクを毎日実施している。

 もちろん、ただのコーヒーブレイクではない。

 何をしているかといえば、わたしと彼女の記憶の交換だ。

 交換と言っても、すべての記憶を交換していくわけではない。ただ一日に起きたことを世間話として話していくだけのことだ。そして、それを記録媒体に保存しておいて、わたしの研究室に保管しておく。傍から見れば、ただの世間話にしか見えないが、わたしたちから見ればそれは重要なプロセスだった。

 バックアップは定期的に実施されるが、それでもバックアップをしてからの期間の記憶は取りこぼしが発生してしまう。それを防ぐために、わたしたちは毎日、その一日に起きた出来事を話し合う、ということに決めたのだ。

 話すジャンルは非常に様々だ。学問に関係のあることから、まさしく『世間話』の会話まで。今学生の間でどんなゲームがはやっているとか、クラスの女子の恋愛事情とか、正直今までの生活では知り得なかった情報も飛び交っている。

 彼女に一度、わたしの話はつまらないだろう、と話をしたことがある。

 それを聞いて彼女は横に大きく首を振って、


「そんなことはありませんよ。わたし、話を聞いているだけで楽しいですし。それに、先生の知らない一面を知ることも出来ます。それって、わたしたちだけの秘密、ってことになりますよね」


 彼女の笑顔は、まるで天使のようだった。


「……先生、どうしましたか」


 彼女の声を聞いて、わたしは我に返った。


「ああ。すまない。何でもないよ」


 わたしはそう言って、コーヒーを一口啜り、コーヒーカップを机上にあるソーサーの上に置くと、自らの互いの指を絡ませた。


「それでは、始めようか。今日のコーヒーブレイクを」


 そしてわたしはレコーダーの録音開始ボタンを押下した。




 先生とわたしの話し合いは、それからずっと続いている。

 わたしは大学を卒業した後、大学院に進んだ。先生もその間ずっと記憶科学の研究を続けている。

 バックアップは何度も取っていて、何回かインストールしている。わたしだけではなく、先生も一緒だ。

 そのたびにわたしたちは録音した『コーヒーブレイク』を聞きながら、記憶を思い出している。思い出している、というよりもわたし自身はまったく経験した記憶が無いことなのだけれど。

 先生とわたしは、その話し合いを始めると決めたとき、一つの約束を交わした。



 ――先生きみがわすれても、わたしはわすれない。



 先生はわたしに対して。

 わたしは先生に対して。

 お互いにバックアップをインストールしても忘れることはしない。それはいつまで出来るかどうか分からないけれど、わたしたちの約束として、今も続いている。

 先生は、ことあるごとにわたしに対してこう言っていた。

 いつかはミルクパズル症候群が完全に治療出来る日を夢見ている。そして、そのためにわたしは研究を続けている、と。

 わたしはその考えが素晴らしいと思っている。そして、いつかはわたしも先生の助手として同じ道に進みたい。そう考えている。

 わたしたちのコーヒーブレイクは、今日も続く。

 それは、いつまで続くかは分からないけれど――少なくとも今はそれで良かった。



End.

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