04. 喧嘩

 「――――甘い水は、どこから汲んできている?」

 「甘い、水ですか?」

 それは、柄杓が水瓶の底を軽く打つ程に水嵩が減った、暖かい日だった。魚を獲るのが上達してきたエレニアは、近頃では漁の回数を二日に一度で済ませるようになっていた。託宣があったにせよ、真摯に伴侶と向き合うことを心に決めた二人は婚儀を執り行って四つも五つも月を重ねて漸く、新婚らしく共に過ごす時間を持てるようになったのだった。敷物の上に座り二人語り合う時間をエレニアは勿論のこと、アゼルとて口には出さなかったが大層喜んだ。時折ふらりと訪っては夫の愚痴を語り、料理の教えを乞う代わりに様々の話を聞かせてくれる友人は居ても、異郷に一人きりで過ごす時間はあまりにも長かった。エレニア個人に聞きたいことも山のようにあったし、生活についてもまだまだ知るべきことが多くあるとアゼルは理解をしていた。いくら家の外に出ることを控えると言っても、限度というものがある。

 砂の女たちも、必要であれば外にだって出るものだ。アゼルが外出をしなかったのは当面必要なものが既に揃っていたこともさることながら、それだけエレニアが甲斐甲斐しくものを揃えていた、ということだ。義務感からのことかもしれないが愛されているようで、アゼルはくすぐったいような心地を覚える。とはいえ、一から十まで全てをエレニアに依存することは憚られた。


 そこで、甘い水である。


 水に困ることがないとは言っても、一々外に出て水を求めるのは煩雑に過ぎる。だから、水の民は水を溜めるための大きな甕を家に置く。腐ることも、乾燥のために嵩を減らすこともなく水が残り続けるのにアゼルはひどく驚いたものだ。その日必要な水は水売りから高値で贖うか、さもなくば近隣の住民たちと少量ずつ分け合うように、水源を枯らさぬよう控え目に汲み上げるのが当たり前だったし、何より水には明確な格付けが存在していた。飲めるか、飲めないか。洗濯には使える程度の濁り方なのか。なくては死んでしまうほど大切なものであるのに稀少なそれには、数多くの呼び名単語が与えられた。天の水熱された水、そして――――

 「甘い水……じゃ、ないのか? これは。ええと……飲める、水?」

 言葉だけは完璧に習得したと思っていたが、とアゼルはエレニアの表情を伺う。眉を下げ首を傾げた姿は、困惑している様をありありと伝えてくるものだった。

 「んと、これは水、ですけど……飲みますね」

 定めの子としてエレニアに先んじて生を受けたアゼルは、エレニアが生まれてくるより前に自ら申し出たのだ。『俺が水の言葉を覚えます、お母様』――あれから、十数年も経った。アゼルが言葉を習得するのであれば、とエレニアは砂地の言葉を習うことなく育ったと聞く。無論、あまり余所に散らばることのないアゼルたち砂の民が使う言葉を教えられるような人間が居なかったということもあるだろう。何より、水の民は文字というものを持たないため、文字という概念を新たに獲得してもらわなくてはならないのだから大仕事だ。

 ともあれアゼルは、今では砂の民において誰より水の民の言葉を流暢に話せるようになったはずだ。けれど、伝わっていないということは、もしかするとこの言葉は水の民にはない言葉なのかもしれないとアゼルは思う。何にせよ、飲むということは水瓶の中身は甘い水飲み水なのだろう。それだけ分かれば十分だった。

 「どこで汲んできているか分からなかったから、自分では用意が出来なかった」

 アゼルの視線の先、エレニアは矮躯の少女だ。大きな甕を水で満たすのは夫の務めの一つではあるけれど、それは腕力のある男手が、という前提あっての習慣であって、幼い娘が絶対にやらねばならない役目ではないとアゼルは常より思っていた。妻であることと男であることは、アゼルの中で矛盾せず同居していた。エレニアがどう思っているのかは分からないが、少なくともアゼルは妻の務めと男の務めとをどちらも果たしたいのだ。その欲求はいつから持ち始めたものだったか、アゼルには思い出せない。けれど、幼いエレニアを見ていると、どうしても庇護欲を覚えてしまうことは事実だった。

 「どこで……そのへんで?」

 「その辺で……?」

 そのへんで。甘い水を知らない。有り得ないと思って最初から考えもしなかったけれど、もしかして、ここでは。

 「お前が水、と呼ぶものは、全部飲むものなのか?」

 「むしろ、飲めない水って見たことないです。あっ、汚れてるのは別ですよ!」

 「だとするとこの甕の中身は」

 「すぐそこで汲みましたよー! 流石に大きいから、十回も往復しちゃいました」

 楽しげに笑うエレニアは、当然のこととして水汲みを行っていたらしい。勝手に水が湧くわけもなし、日頃好きなだけ使うようにと繰り返し、何度も言い渡されていたそれを用意するためエレニアが費やした労力はいかほどだったろう。十回とエレニアは軽く言ったけれど、アゼルならその半分もかかるまい。そもそも、エレニアがその細い両腕で持ち運べる水桶の大きさなどたかが知れているのだ。無駄遣いをしたわけではないが、自分の浅はかさは許せない。

 もっと早く気付いてやれば良かったと、アゼルは長くたっぷりした袖の中で拳を固めた。水瓶は屋外に設置してある。だからこそ、エレニアはアゼルに気付かれることなく水を汲んでこれたのだ。言ってくれれば。アゼルは怒りにも似た感情を抱いたと自覚した。言ってくれれば、それくらい俺がやってやるのに。

 「水は、俺が汲む」

 いつになくきっぱりと、アゼルはエレニアに宣言した。

 「ダメですよ。水汲みは夫の役目なんですから」

 エレニアも断じた。女童でありながら夫であらねばならない彼女は、水の夫として誰より真摯に「役目」を果たす。愚直なまでに、それは尊い在り方だとアゼルにも分かるけれど、どうしてかこの日ばかりは冷静になれなかった。行き場のない怒りを、一般的な砂の男たちなら声を荒げるなり、床を殴るなりしてぶつけるのだろう。或いは、水の男とて同じかもしれない。けれど、アゼルの妻としての矜持がそれを許さなかった。ただ黙って立ち上がり、震える唇を開いた。


 「俺は男だ」


 アゼルにも、もう何が言いたいのか分からなくなってきていた。こんなことを言っても仕方がないことだというのは分かっていた。ただ、言わなくても良かったこと――――言ってはいけなかったことを、言ってしまったような気がしてならなかった。上げた言葉の拳を下げる方法を知らないように立ち竦むアゼルを下から見上げるエレニアは、自分も立ち上がるとアゼルをきっと睨み据えた。頭一つ分も、二つ分も背の高いアゼルの顔を正面から見ることは、エレニアには出来ない。けれど、それが何だと言うのか、とでも言うように、エレニアはきっぱりと言い返した。


 「私は夫です」


 「!」

 「アゼルは私のことを、ただの女の子として見てるんですか。それは、私は……悲しいです。アゼル。私のことを、ただの弱い女の子にしないで」

 アゼルは恥じた。その通りだと思った。発育の少しばかり遅いエレニアは、同年代の少女たちと比べても上背がないし、肉付きが薄かった。けれど、成人した男たちに交じって務めを果たしている。それに口を出すということは、つまりエレニアを軽んじていたということだ。弱いと、頼りないと、そう告げたのと同じことだ。妻としての自分の役目と同じくらいに男としての自覚を捨てないように、と思ってはいたけれど、それは夫の役目を奪うという意味ではない。

 「私は、確かにまだ小さいし、弱いし、漁だってへたくそです。でも、あなたの夫です。あなたのことを守るし、幸せにするんです。アゼルという砂を癒すんです。潤すんです」

 それは、誓いの言葉だった。婚儀の場で、神々の照覧する場で、そう誓ったのだ。忘れたとは言わせないと、エレニアの強い瞳は雄弁に物語る。

 「俺は……花の寝床に、なるんだったな」

 「そうですよ」

 言っておきますけど、とエレニアは憤慨したように呟いた。

 「私は、忘れたことないですからねっ。アゼルのばか」

 「む……お前だって、」

 「大体! アゼル私の名前だって呼んでくれないし!」

 「う、うるさい! 恥ずかしくて呼べるか!」

 「私達、結婚してるんですよ!!」

 「~~~っ、それは……その、その通りだが……!」

 目元まで袖で覆い、最早その褐色の肌を全て布で隠しきった姿で焦るアゼルは殻に籠った寄居虫のようで、エレニアはおかしくなって声を上げて笑った。もう、許してしまっていた。エレニアが頼りないことなど、本人が一番よく知っていることなのだ。ただ、頼りないからと全てを手伝ってもらってしまっては、何も出来ないまま十六になってしまうだろうともエレニアは分かっていた。

 とうとう座り込み、呻き声を上げながら布に埋まるアゼルをエレニアは見下ろした。この真面目で献身的な妻は、どこまでもエレニアのためを想い、尽くしてくれてしまうのだろう。今回のことだってそうだ。少しでもエレニアに楽をさせようと、それだけのことだ。正直に言ってしまえば、嬉しい。アゼルは「自分は男だ」と言ったけれど、それを言うならエレニアだって、女なのだ。でも、エレニアは夫だ。生まれた時から夫でもある。だから、やり通したいと思っていた。

 「ねえ、アゼル。はじめての夫婦喧嘩ですね」

 「……………………そういうことを言わなくていい」

 布の下でもごもごと返答する声は常の倍はくぐもった、小さいものだ。

 「きこえませーん! ていっ」

 戯れに背中から抱き着いてみれば、悲鳴が上がった。獣に襲われたと言わんばかりのその声すら愉快で、エレニアはまた笑ってしまった。やめろとかはしたないとかを切れ切れに喚くアゼルを抱き締めて、エレニアは大声で叫び返した。


 「名前で呼んでくれるまで、このままですからねー!」


 「やめ、馬鹿、おま…………っ、離せ、このっ、エレニア――――!!!!」







『今日、初めてエレニアと喧嘩をした。思えばこの四か月、俺はエレニアのことを夫とは言いながら、やはりどこか危なっかしい童女だと軽んじていたのだろう。正面切って彼女の献身を、努力を馬鹿にしてしまった。気を悪くしていないといいが。俺の男としての矜持など、自分がそうだと忘れなければ済むだけの話だ。二度と言わないことにする。

 そして、遂に、と言うべきだろうか。名を呼んでいないことを咎められてしまった。恥ずかしい話だが、本当に、ただ恥ずかしくて。緊張してしまって、上手く口に出すことが出来ないのだ。口下手なのは言い訳にならないと分かっているが、これからは名前で呼んでほしいと言われたからには乗り越えなくては。とりあえず、これから少しずつ慣れていこうという話になった。明日から頑張る。エレニア、文字で綴るのはこんなに簡単なのに、音にするというのは存外難しいものだと痛感する。

 それにしても、抱き着くなんて水の民は少し開放的に過ぎるんじゃないか?誰にでもやっているのだろうか。あまりいい気はしない。俺にやれというわけじゃない。心の臓に悪いからやめてもらいたいものだ。本当に。』

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