01. 初夜

 「どうしよう、緊張してきた」

 声に出した途端に身が強張るのを感じて、エレニアはひどく後悔した。つつがなく済んだ婚礼の儀式が終われば、すなわち初夜である。水の民の娘は十六の誕生日に伴侶と身体を重ねるようにと掟が定めている以上、今宵のエレニアはただ寝所をアゼルと共にするだけしかできない。言ってしまえば、どれだけ覚悟を決めてもそれまではただの同衾止まりということだ。契りを交わせないのであれば共に眠る必要もないかもしれないが、ともあれ初めて会ったとはいえ生まれたときからの許嫁なのだから、仲良くしたいとエレニアは思う。思っては、いる。

 重々しい足取りで新居に向かう。全く風習の違う二人のためにと心を砕かれてしつらえられた家は住みよさげで、であればこそこの婚礼にかけられた期待のほどを伺わせるものだった。儀式は成ったが、予言の成就には時が必要であろうと古老たちは言う。お前も夫なのだから、よくつとめを果たすのだよ。お役目を忘れてはなるまいよ。エレニアはそれに、なんと返したのだったか。一つだけわかることは、エレニアが夫であるということ。ついに辿り着いた家の中では、既にアゼルが待っているはずだ。

 「夫とは、妻を愛し慈しむもの。妻に必要なものを、不足なく準備するもの。陸にあって星となり、水にあって太陽となるもの」

 唱えた古事ふるごとは、夫の心得として父親から教え込まれた。陸にあって星となるもの。それは、あるべき方向へと導くものになれということだ。けれど何より大切なことは、妻を愛し慈しむこと。

 (――――綺麗な姿勢をしてた)

 儀式の最中、横目で見たアゼルの背中をうつくしいと思った。そのことが、エレニアに力をくれるような気がした。分厚い布地を押しのけて、その先に待つ薄い紗もかき分ける。やっと現れた床に裸足を乗せて、エレニアは悲鳴を上げそうになった。冷たくて、硬い。未知の素材に驚きつつ、室内を見回した。窓は小さく、光は部屋の奥までは届いていない。

 「エレニアです。アゼル……どの?」

 「アゼル、でいい」

 奥の方から聞こえてきたアゼルの声は涼やかで、エレニアは少し驚いた。てっきりまた、布地でぐるぐるに包まれた姿で現れると思っていたのだけれど、もしかしたら今度こそ、新妻の姿を見ることができるのかもしれない。緊張を期待が上回り、踏み出した二歩目はしっかと踏み出すことができた。

 「では、アゼル。こちらですか?」

 「違う、全然違う。そうか、夜目がきかないのか」

 勇んで歩を進めようとしたエレニアはどうやら見当違いの方向へ歩き出そうとしたようで、アゼルの声が慌てていた。ということは、アゼルにはエレニアが見えているのだろう。

 (すごい。砂の民は夜に生きるって、単なる御伽噺だと思ってた)

 感心してしまったエレニアは思わず足を止め、そんな危なっかしい夫を放っておけなかった妻は「動くなよ」と一声かけゆっくりとエレニアの元へ近付いた。奇しくもそこは限られた光が最もさやかに照らす場所。一体、どんな姿をしているのだろう――鼓動の音が早くなり、血が熱を帯びる。一歩、二歩、もうエレニアの目にもその影の端は捉えられるところまで迫ってきていて、そして、最後の一歩。

 「……あの。…………脱がないんですか?」

 現れたのは、婚儀で見たよりは布地が減ったものの、相変わらずぐるぐる巻きになったアゼルの姿だった。白一色の、恐らくは夜着なのだろう布のかたまりは、エレニアを驚かせるものだった。しかし何よりエレニアを驚かせたのは――――


 「ばっ……男が脱ぐのはッ、閨の中だけだと決まってるだろうが!!」


 薄暗い室内に響き渡った、アゼルの絶叫であった。

 「はいっ!?」

 「ぬ、脱ぐとか、そんな、は……はしたないっ……」

 「はしたない!?」

 布の下に隠れて見えないが、吐く息の勢いや語気の勢いからアゼルの顔が赤くなっていることが伺えた。伺えたものの、エレニアはそんなアゼルの状態に配慮できるほど平静を保ててはいなかった。砂の民の風習は一通り教わったと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。

 (ばば様、話が違う。これで完璧だと、星にだって誓えると言ったのに)

 仕方のないことなのだろう。再生の予言がなければ交わることのなかった二つの部族が、そう知識を共有できるはずもない。エレニアに数多くの知識を、経験を分け与えてくれた老女も完璧だとは思っていなかったはずだ。それはエレニアを安心させるための優しい嘘だったのかもしれない。懇切丁寧に説明を続けるアゼルの声を聞きながら、エレニアはそんなことを考えていた。

 「知らなかったのなら仕方がないがっ。いいか、砂の男は、血のつながった人間と伴侶以外にはその肌を晒さない。物心ついてからは寝所を移すから、家族にだって見せなくなるし、だから、」

 つまるところ、それは。

 「俺の姿を見ていいのは、伴侶……エレニアだけだ」

 「そう、なんですね」

 それは、とても尊いことのように、エレニアには思われた。わたしだけのもの。誰かの特別を、こんな形で受け取るのははじめてのことだった。誰かの存在を、宝物を、まるごともらってしまったかのようだ。わたしの奥さん。不思議な響きだと思ったけれど、決して嫌だとは思わない。だって、こんなのはずるい。エレニアは、この献身に何をもって報いればいいのかまだ分からなかった。それを見つけるための、人生にしようと密かに誓った。

 「……あれ? でも、じゃあ脱いでもいいんじゃ」

 思考は不意に、アゼルの説明に立ち返った。閨でならば、エレニアの前でならば、多すぎる衣服を取り払ってもいいはずではないのかと疑問を音に乗せれば、すぐさま鋭い叱責が飛んだ。

 「ここは!! 閨じゃ! ない!」

 「え」

 「~っ、こちらでは、寝所は別に部屋を設けるものではないんだったか……!」

 「そちらでは、分けているんですね……!」

 沈黙が、二人の間に深々と横たわった。互いに理解しようとして、学んだ結果がこれである。恐らく、知らないことの方がまだまだ多いのだ。年若い二人の前途は平坦なものとは言えないだろう。しかし、これから知っていくことはできる。そのための時間なら、いくらでもあるのだから。

 「ねえ、アゼル。今日は、もう、寝ましょう。それで、明日ちゃんと、話し合い。しましょう」

 「…………そうだな」

 「寝床、別にしませんか。わたし、もっとあなたのことを知ってからがいい」

 単なる好奇心ではなく、その意味と歴史を。閨を共にするとか、身体を重ねるとか、そんなことで決まるのではない。予言の成就も、みなの期待も関係ない。誰より祝福された二人なればこそ、太陽に、月に、星に、胸を張って夫婦であると言える二人でありたい。

 「俺も。もっと、お前のことを知ってからがいい」

 「楽しみにしてますね。アゼルの素顔」

 今から楽しみだと笑うエレニアは子供と呼んで差支えないあどけない表情をしていた。未だ十三の少女は、花の盛りを待つ蕾だ。

 「ああ。俺も、楽しみにしている」



 太陽と水の最もうつくしい夜、二人は約束をした。

 やがて来たるエレニアの十六の誕生日。再び時の満ちたその日その夜、もう一度。

 二人だけの、夫婦の儀式を執り行うのだと。

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