07:夕美

 大多数の高校生がそうであったように、僕も将来の夢など真面目に考えていなかった。どこかの大学に入って、どこかの企業に就職して、陽奈と暮らせたらそれでいいと思っていた。進路希望票は、そっくりそのまま彼女と同じことを書いた。

 担任は、今の学力だと少し厳しい、と僕に言った。例の、波流と付き合っていたという男にだ。僕はあっけらかんと、彼女のために頑張りますと言ってのけた。調子に乗っていたのだろう。

 品行方正だった陽奈は、あっさりと指定校推薦を手に入れ、夏休み前にはほぼ合格が決まっていた。これからは合唱部に専念するのだと言い、予備校漬けの僕よりも毎日が忙しそうだった。


「志貴くんなら大丈夫。わたしの彼氏だもん、絶対に受かるよ!」

「でもさ、Dだよ? この時期でこれは、ヤバイって……」


 いつものコーヒー・チェーン。僕は模試の判定を見てうなだれていた。秋になると、就職組も結果が出そろってくる。遊べないのは、一般入試組だけとなっていた。


「効率が悪いのかな。自分では、人並みにしてるつもりなんだけど」

「うーん、やっぱり、朝勉強する方がいいんじゃない?」

「朝か……」


 当時の僕は夜型で、テスト前は文字通りの一夜漬けだった。今思うと、日々の成績が芳しくなかったのは当然だった。陽奈と一緒にいるというのに、この時も眠くて仕方が無かった。それでブラックコーヒーはLサイズを頼んでいた。


「夕美はそうしてるって言ってたよ。家だとだらけちゃうから、朝一で空き教室に行って勉強してるんだって」

「ああ。あの子、国公立受けるもんな」


 僕はそのとき、夕美のことをよく知らなかった。陽奈の友達で、帰宅部で、頭がいい。彼女の方から話しかけられたことはなく、彼女にとっても、友達の彼氏というだけの位置づけなのだろう、と考えていた。


「志貴くんもやってみたら? 他に何人か来てるらしいんだけど、みんな真面目だし、すっごく集中できるって言ってたよ」

「そうだな、試してみる」

「じゃあ、一応夕美にメールしとくね!」

「え、なんで」

「うちの彼氏をよろしくねって」


 陽奈は両手でボタンを操作し、もの凄い速さでメールを打った。彼女のピンクの携帯には、僕とお揃いの琉球ガラスと、ウサギのマスコットのストラップがつけられていた。


「了解、だってさ」

「サンキュ」


 僕は腕を天に突きだし、大あくびをした。それを見て陽奈がふんわりと笑った。


「志貴くん」

「ん?」

「呼んだだけ」

「そっか」


 陽奈の視線が僕の瞳を射した。僕の合格を信じて疑わない、真摯な眼差しだった。僕は彼女の頭を撫で、ふわふわとした髪の毛の感触に癒された。

 翌日僕は、朝の空き教室へと向かった。部活の朝練よりも早い時間、しんと静まり返った校舎は、夜よりも不気味かもしれないと思った。

 僕が入ったとき、夕美は一人で、問題集に没頭していた。イヤホンで音楽を聴いており、僕が来たことにはまるで気づいていない様子だった。彼女の近くに座るのも、端に座るのも気が引けて、三つ隣に腰を下ろした。

 金子夕美。あまり他人と群れないタイプで、愛想は悪くないが、人懐っこくもない。髪型はすっきりしたショートカット。ブレザーが堅苦しいという理由で、黒いジャージを羽織っていて、近頃は教師も注意しなくなったのだという。あと、運動部でもないのに、足元はスニーカーだった。


「お、おはよう」


 話しかけ辛い雰囲気ではあったが、一応挨拶はしておくことにした。すると、ようやく夕美も他人が来たことに気付いたようで、イヤホンを外して微笑んだ。


「おはよ」


 夕美はそれだけ言うと、すぐにイヤホンを付け直した。僕も本来の目的を果たすため、大人しく筆記用具を取り出した。それから十分くらいすると、チラホラ人が集まり始めた。教室がいっぱいになるほどではなく、通勤電車のような予備校の自習室より過ごしやすい、と思った。

 朝の勉強は効果があった。早く寝るようになったから、勉強時間は減ったのだが、明らかに物覚えが良くなったのだ。体調も良くなり、勉強は怠かったが身体は軽かった。

 それと前後して、合唱部のコンクールがあり、陽奈は部活を引退した。打ち込むものがなくなったせいか、彼女は少し元気がなかった。

 勉強の波に乗っていた僕は、それを見て見ぬふりをした。

 一週間もすればいつもの調子に戻っていたので、僕はすっかり安心していた。

 夕美との会話は、ほんの少しずつだが増えてきた。内容は、勉強や模試の結果についてがほとんどだったが、たまに陽奈のことも話した。


「あの子、口を開けばあんたの話ばっかりだからね。なれ初めとか、デートの内容とか、全部筒抜け。よく冷めないもんだね」

「げっ、マジかよ……」

「まあ、いいんじゃない? あんたら公認カップルなんだし。多少鬱陶しいけど、いいじゃないか、愛されてるっていうのは」


 そうは言っても、他の女の子に僕の言動を晒されるのは居たたまれない気持ちだった。陽奈は一体、何を話しているのだろうか。夕美はどこまで知っているのだろうか。悪い想像をしながら、目を白黒させている僕を、彼女はだるそうに眺めていた。


「それにしても、不思議だわ」

「何が?」

「パッとしない、どこにでもいそうな平凡顔が、可愛いウサギちゃんの彼氏だなんてねえ。確かに性格は悪くないけど、陽奈はあんたのどこに惚れたんだか」

「うるさい、放っとけ」


 この頃は、付き合って一年が経っていたので、僕が陽奈と釣り合っていないという不安は大分薄まっていた。陽奈はしょっちゅう、僕のことを好きと言ってくれていたし、愛されているという自信もあった。

 しかし、第三者、しかも陽奈の親友に言われると、その自信は音を立てて崩れるようだった。もし、受験に失敗して、彼女と同じ大学に行けなかったら。そのまま僕は、捨てられるのだろうか。

 夕美はそんな僕の心情を見透かしたかのように、口角を上げて笑った。


「じゃ、さっさと勉強しますか」

「お、おう」


 夕美のイヤホンから微かに漏れるのは、いつも洋楽だった。日本語の歌詞だと、聞き入ってしまうからダメなのだという。僕もそれを真似して、洋楽を聞くようになった。

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