38:ブラックコーヒー

 レストランの外に出ると、乾いた風がワンピースを通り抜ける。梅雨の時期ではあるが、今夜は比較的過ごしやすいようだ。リカちゃんが右手を挙げ、元気に言い放つ。


「じゃ、アタシと貴弘は寄り道して帰りま~す!」

「えっ、どこか行くの?」


 白崎くんはポカンとした顔をしている。


「可愛い彼女の頼みなんだから、ちょっとくらい付き合いなさい。槙田くん、雪奈ちゃん、またね!」

「お、おい、待てよリカ~!」


 みるみる内に、二人は雑踏へ消えてしまう。取り残されたあたしは一体どうすればいいんだ。


「あ、あのさ、雪奈ちゃん。俺たちも、どこかでお茶して帰らない?」

「あ、うん。……えっ?」


 今日の槙田くんから、そんな誘いを受けるだなんて夢にも思わなかったので、妙な返事をしてしまう。これから、お茶って、しかも二人きりって、どうなんだ。全くそんな準備はしていない。いや、準備なんて要らないんだけど。


「やっぱり、ダメかな?」

「大丈夫、だよ」


 あたしは槙田くんの斜め後ろを、とぼとぼと着いていく。ここで断るのも変だと思ったのだ。あたしたちは、安さが売りのコーヒー・チェーンを通り過ぎ、イノシシのオブジェがある喫茶店にたどり着く。見たところ、テイクアウト方式ではあるが、照明は少し暗く、椅子やトレイがアンティーク調で、お洒落な店である。お腹はすいていないので、あたしたちはホットのブレンドコーヒーだけを注文する。


「砂糖とミルクはどうしようか?」

「あたし、要らないよ」

「ブラックが好きなの?俺もなんだ」


 槙田くんがトレイを持ち、テーブルまで運んでくれる。こうして二人っきりのところを、学部の女の子に見られたらどうしよう、と内心気が気でない。コーヒーは、酸味が弱く、飲みやすい味だ。槙田くんはこの店によく来るのだろうか。奥の席では、男女のグループが談笑している。恰好を見る限り、結婚式の帰りなのだろう。


「今日は、あのまま帰っちゃダメだなって思ってさ。実は、さっきリカちゃんにメールで怒られたんだ」

「えっ?」


 よそ見をしていたので、いきなりそう言われても、すぐに話が呑み込めない。


「雪奈ちゃんを不安にさせてるよって。今日の俺、本当に情けなかったよね。いつもみたいに、接することができなくってさ。その、雪奈ちゃんの雰囲気がすごく変わって、びっくりしちゃったんだ」

「そ、それは、悪い意味で……」

「違う、違うんだよ」


 槙田くんは、慌てて手をぶんぶん横に振る。


「もちろん良い意味で、だよ」


 ただでさえ、コーヒーを飲んで顔が熱いのに、その言葉に耳まで燃えそうになる。そっと槙田くんの顔を盗み見ると、彼もあたしと同じ様子である。瞬間、目が合う。そして、あたしたちは同時に、ぷっと吹きだした。


「あ、あの、ごめんね。あたしも、勝手に不安になってたりして」

「謝らなくてもいいって、悪いのは、俺なんだし……」


 それからあたしたちは、色んな話をした。家族のこと、勉強のこと、雑誌のこと。槙田くんは、ラナちゃんのことを知っていたみたいで、その話でけっこう盛り上がった。ジュリスタという雑誌では、ワガママ系のキャラで通っているので、彼女があたしに世話をしてくれたことが意外なんだとか。ギャル系の雑誌を買うのは気が引けるが、一度読んでやろう。


「そういえば、最近VRゲームやってるの?」


 すっかり打ち解けた気分になってきたあたしは、一番得意な話題を出してみる。元はといえば、VRゲームについてのグループ発表で接点ができたのだ。槙田くんも、この話が好きなはずだ。


「実はさ、もうやってないんだ」

「あっ……そうなんだ」


 まずいことを聞いてしまった、とあたしは後悔する。


「相沢と白崎と、LLOっていうMMORPGをやってたのは知ってるよね?この前、ある人に迷惑をかけちゃってさ。VR上での知り合いだから、実際はどんな人か知らないんだけど。それで、謝るタイミングを逃しちゃって、ログインしにくくなっちゃったんだ」

「それは……」

「VRゲームでの話だから、ちょっと説明が難しいんだけどね。その人には、前にも一度違反行為をしてしまったことがあるんだ。その時に許してくれたから、今回だって、謝れば大丈夫だとは思う。もしかしたら、彼もそんなに気にしていないかもしれないし。けど……」

「けど?」

「一日、二日と経っていく内に、どんどん謝りにくくなっちゃって。今さら謝りに行っても、もう遅いかもしれないって思うと、こわくなったんだ」


 コーヒーはとっくに空になっている。あたしは口をつぐんでいる。


「ごめんね、変な話して!こんなこと、雪奈ちゃんに言ってもわからないよね」


 そうだ、あたしはMMORPGなんてやっていない設定だった。そのことを念頭に置きつつ、あたしは話し始める。


「今からでも、遅くないよ、きっと。その人も、槙田くんがログインしていないのを、気にしてるかもしれないし。このままずっと、悩みを抱え続けるのは、槙田くんだって辛いと思う……」


 偉そうなことを言ってしまったかもしれない。何もわかっていないはずのあたしが、こんなことを言うのは、間違っているかもしれない。それでも、あたしは槙田くんに、ラックに対して思っていることを、遠まわしに告げる。後ろめたさも感じながら。


「そうだね……。ありがとう、雪奈ちゃん。俺、ちょっと勇気出てきたよ。早速明日、ログインしてみようかな。その人、夜にはだいたいログインしてるし」

「そ、そっか」

「相沢と白崎には、もう呆れられてたからさ。こうして、雪奈ちゃんに話すことができただけで、スッキリした気分になったよ」


 あたしと槙田くんに、同時にメールが来る。相沢くんからだ。今日の礼と、明日も頑張るというようなことが書かれている。時計を見ると、そろそろいい時間になっていたので、あたしたちは喫茶店を出る。


「またね、雪奈ちゃん。次は、経営学演習のときに」

「うん、またね」


 とっておきのサンダルを履いた足は、ためらいがちに帰路につく。もう少し、話していたかった。

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