ミア

独白

「は……?」


思わず声が裏返る。


***笹原ささはら実亜みあ―24歳のとき***


落としそうになった受話器を持ち直した。

気持ちが落ち着かないままもう一度聞いてみる。

「山崎側が、提訴を取り消した……だって?」

南美は『うんうんだからそうだって。』と面倒くさそうに応えた。

電話の向こう側から、事務的に応じる早口女の声がかすかにしている。

弁護士事務所からかけているのだろう。のっぺりした顔の南美のネクタイ姿が目に浮かぶ。

だめじゃん。面白くない。

面白くないんだよ。

マイを盗作作家に仕立て上げる、そんなごときでは私は納得いかない。

たかだか女性誌のゴシップ記事ごときで終わらせてたまるか。

もっともっと日本じゅうを沸かせてやりたいんだよ。

だって普通に考えて面白いじゃん。

山崎マイの小説と私の小説の内容が酷似してるんだもん。

そりゃそうだよね。

私たち、思考回路が似てるんだもん。

あ、似てるもなにもまったく同じといっていいくらいの思考回路。

山崎マイと私は一卵性双生児。

アイツの名だけ知れて、なんで私は無名なんだ!

ドラマの原作者といわれた私。

でも、私にとってあそこはたった2本の世界でしたわ。

その2作は、某出版社に400万円くらいカネ預けての共同出版だった。

微々たるお金が入っただけ。

で、私に残った借金は100万円を超えたわけですよ。

「なんとかなんないの!?」南美に吠えた。

『なんともなんない』弁護士はそう応える。

「この役立たず!」

叩きつけるように受話器を戻した。

……エセ弁護士が。

南美のことだ。

何度も抱かせてやったのに。

信じられない位の口臭に耐えながらキスしたり、奴の超くせえアソコくわえたりしたよ。

だが、奴はもう当てになんない。

マイを施設に閉じ込めて、私が世にでる番だったのに。

……他の手を考えるしかない。


マイと私が生まれてすぐに両親の離婚。

マイは母親に引き取られ、私は父のもとで育った。

母親は即、他の男と再婚したらしい。

父と言えば……アルコール中毒者だった。

物心ついたときから、私は父から何度も暴力をふるわれた。

父が連れ込んだ行きずりの女からも暴力をふるわれた。

私の育った場は、まさに地獄だった。

いまでは巣鴨のワンルームに住んでるが、父に養われていたころは埼玉の運送会社の寮にいた。

風呂は共同で6畳一間の小汚いアパートだった。

父は、2トントラックで都内を配送する業務についていた。

なにを運んでいたかは忘れた。

それよりも強烈に覚えていたのは、毎晩、酔っ払って帰ってきて私を虐待していたことだった。

「なに本ばっか読んどるんやあ! てめえもコンビニかどっかでバイトでもせんかい!」

バイトもなにも中学生にはどうにもなんない。

「無理……だよ」

私のそんな言葉を無視して、父は私の手から本をむしり取った。

「あん? ドスト……エフ……なんだって? 罪と罰? は、てめーが生まれてきたことが罪なんだよ!」

そう言うと、父は私の腹に蹴りを入れたのだ。 胃液が込み上げるほど何度も何度も。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

ごめんなさい。何度この言葉を吐いたのか。

許してもらえる希望もないのに、私はいつもその言葉を父に投げていた。

父が連れ込んだ女からは訳もなくビンタをくらっていた。

……。

私に優しかったのは、安西先生だった。

中1の時の担任だった。

当時は、おばあちゃんのような印象だったけど、いま思えば彼女はもっと若かったような気がする。

ドストエフスキーの本をくれたのが、安西先生だった。

「辛いとき、何度もこの本を読みなさい」

そんなことを言われた記憶がある。

主人公の苦悩。これが、先生から手渡された分厚い上下巻の内容だった。

すでにぼろぼろになっているが、いまでも大切に閉まってある。

とにかく私の過去は荒んでいた。

寮の共同風呂。狭くて汚い空間。

当時の私はいつも、軋む音さえたてまいと共同風呂に歩を進めていた。

夕方の時間帯なら、誰もいない。

とにかくシャワーさえ浴びることが出来れば良いので、私は毎日、さっさと済ませるつもりでいた。

体臭さえ消せばいいんだ。

くさいとクラスメートに嫌われる。

制服姿の私の手の内には、石けんとバスタオルと学校のジャージ。

パジャマなんて、私にはない。

制服とジャージだけが私のすべて。

服を着たまま浴場に入る。

誰もいないことを確認すると、ボロボロのタイルに足をのせる。

下着まで脱いで、蛇口を捻る。

下着を洗面器に放る。

洗面器がお湯で満たされたら、石けんを使ってその汚れものをゴシゴシと洗う。

中学3年生の時だった。

私はその汚い浴場で処女を喪失した。

私を犯したのは、父の高校の後輩だった。

当時の父は、よほどお金に困っていたらしく、ヤクザからの借金の返済に追われていたのだ。

後から知ったことだが、その後輩は、父にカネを支払って私を犯したという。

数日後、父は突然姿を消した。

私が中学を卒業する間近のことだった。

中学を卒業すると、安西先生が実の母親である駿河美佐子を連れてやってきた。

初めて目にする実の母。

彼女はたしかに娘である私に似ていた。

小柄な体格。まん丸な目。

ただ、痩せた私よりかは多少肉付きがいいかな。

その時、私は双子の片割れであることを知った。

父が雑木林で首をつっていたことも同時に知った。

外にでるとパトカーが停まっている。

婦人警官に促され、パトカーに乗った。

父の死は他殺かもしれないということだった。

だが、いまだに真相は明らかではない。

警察の質問に答えて署をでると、母親である山崎美佐子は、一緒に暮らそうと私に言った。

ふざけるな、私の返答はそれだった。

私は自由になったのだ。

誰にも縛られない、誰にも頼る必要もない。

自分ひとりで思う存分生きられる。

そう。生きられる。

そんな私を理解した安西先生は、一緒に就職先を探してくれた。

安西先生……。

私にとって、本当のお母さん。

いまはもうこの世にいないけれど。

私の中で彼女は生きている。


いまでも、いつまでも。



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