まつげゆれる。

「……え?」

「……」

「いま、なんて言ったの?」

「好きだ」

「私のことが?」

「うん」



「もーう、おばさんをからかわないで!」



自身の言葉を即座に取り消したくなった。

何でも願いが叶うなら、いま口にした事を無かった事にして欲しい。

恥ずかしさのあまり、ナオキは頬を熱くさせた。

だが、彼女に背を向けたままなのでその表情は気づかれていない。


……なんだ、やっぱり俺のこと子供扱いしてんだ。


ナオキは自分の言動に後悔していた。自己嫌悪。

「おやすみなさい……専務」

振り向きもしないまま、ナオキは ドアノブに手を掛ける。

すると。


「私をひとりにさせたいの……?」涙まじりのエリの声。


「専、いや……エリ……俺、俺……」

言いかけたナオキの全身がかっとなった。

そのカラダをエリが抱く。

「おっきな背中……ナオくんのカラダ、すごく熱くなってる」

その瞬間。ナオキはエリに向き、彼女を押し倒した。

「きゃ」 声を漏らしたエリ。

業務用のハンガーラックに掛けられた、たくさんの婦人服がばさばさと落ちて一塊の山となった。

それがクッション代わりになり、エリはナオキの下で仰向けになった。

「キスしてもいい……ですか?」

どうしたら良いか分からず、ナオキは胸の高鳴りを感じながら彼女の頬に手を当ててそう聞いた。

「やだ、私、お酒くさいよお」

「関係ない」

思わず憤った口調で応えながら、ナオキは彼女の鼻先に顔を近づけた。

「やだ……んっんん」

キスの直前、エリのパーマがかった睫毛が揺れるのをみた。

キスって、こんなに接近するものだったんだ。


好きな人に……。


「痛! もうちょっと……やさしくして」

「ごめん、強すぎた?」

「うぅん……やっぱり、ぎゅっと抱きしめて欲しい」

「……こう?」

壊れるほど、ナオキはエリのカラダを抱きしめたのだった。


***


翌日。


「痛ってえ……」


エリの拳が入った頭のてっぺんを摩る。

職場にて。スチール机が並んだ、6畳ほどの小さな事務室。

「ったく……大袈裟に痛がらないの! そんなことより、ここの合計ぜんっぜん違ってるからやりなおし!」

ナオキはその声に顔を上げると、眉を寄せたエリの表情を目にした。

彼女は、いつもの鬼専務そのものだった。

プリントアウトした紙きれをナオキの目の前に突きだしている。

縦に並んだ数字の一番下をエリは指さしていた。

ナオキは思わず目を留めた。昨晩絡めた細くてしなやかな指。

「なにボーッとしてるのよ!?」

「痛っ!」

再び彼の頭頂部分に鬼専務の拳が入った。

周りの先輩社員たちが陰でクスクス笑っている。

前日のことが何もなかったかのように、本当にいつもと変わらない職場だった。

いや、あの夜から二人の関係は徐々に発展していった。

その事は誰も知らないでいる。


天気の良いある休日。

ナオキはエリの運転するロードスターの助手席にいた。

オープンカーを運転する彼女の姿は、年下のナオキの目には格好良く映っていた。

白い肌に真っ黒なサングラス。

濃いめのピンク色した唇の艶めかしさが、ナオキにとっては刺激的すぎた。

「ねえ、どこ行く?」

そう言いながら、エリはギアをトップにいれる。

エリのロードスターは次々と他のクルマを追い抜いた。

潮騒の香りが通り過ぎる。

「きっもちいい!」

彼女は、必ずといっていいほどそう叫んでいた。まるで何かを吹っ切るように。

屋内駐車場に愛車を停めたエリは、風でなびいたセミロングの栗色の髪に手を当てていた。

「やだ、髪型おかしくなってる?」

バックミラーに顔を映して、彼女は必死に手直しをしていた。

郊外型スーパーの立体駐車場。

気温の高い時間帯。ここはちょっとした避暑地。

家族連れや、大学生風の男女や、老夫婦など、様々な客がクルマを降りて店内に入っていく。

人目が気にならなくなるまで耐えていたナオキ。ついに彼女の肩を抱いた。

「あっ、やだ、ううん」言葉とは裏腹にエリは彼の胸に顔を沈めた。

エリの細い肩を両腕で抱きしめ、彼はフロントガラス越しに外を眺めた。

ビルとビルとのあいだに見える青い海。

いや、それほど青くはなかった。

ただ幸せな気分でいるだけで、ナオキの目にはどんな景色も綺麗に映るというだけである。

そして二人は街から遠く離れたのラブホテルで愛しあった。

いつも、知らない場所だった。

だがナオキは人目を忍んで愛し合うことの意味に対して、深く考えることはなかった。

それは、未成年で恋愛経験の薄さが原因なのか、ただ単に彼が愚鈍だったのか。

なんにせよ、彼はエリとの交わりに飢えていた。

彼女と肌を合わせると、雄そのものに変貌するものの、それだけではなく、幼き頃に両親に捨てられて傷ついていた心身が癒されていく。

「ナオくんのお腹って六つに割れてるね、二の腕も逞しいし、ほら、胸だって……」

エリはそう言うと、彼の胸下に顔をのせた。

心臓にまで伝わるかのような彼女の熱い頬。

ナオキの二の腕に爪をたてる彼女。

「ああ……んあっ」不意に声が漏れる。

「ふふ……気持ちいい?」

「うん、うぅん……よくわかんない」

「こんなことされるの、初めて?」

「ああ……」

エリからいろいろ教わった。

男にも感じる部分がたくさんあるんだなって。



でも、別れは突然だった。

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