エピローグ

サクライユカナ 3


 ─某月某日 まだ胸に残る記憶─

 



 春は過ぎて、初夏も過ぎて。

 今は夏。蝉の声が空気に溢れる、そんな季節だ。

 真っ白な校舎をジリジリと灼く太陽は教室の窓にも照りつけて、その中にいる生徒たちのシャツに汗をにじませた。


 そんな日光をカーテンで遮ろうにも、窓から入り込む風が遮られて蒸し暑くなる。

 かと言って窓を開けて風が入れば快適かと言われると、全くそうではないのだ。

 夏の地面と灼熱の太陽に挟まれた空気は生ぬるく、ちっとも汗を乾かしてくれる気配がない。


 ゆかなは頰を伝ったひとしずくを指でぬぐい、恨めしげに窓の外をにらんだ。

 暑いのは苦手だ。それに加えて湿気が多いこの季節をゆかなは大いに嫌っていた。

 快適な温度を保つ冷房のついた場所にいるのならば、外の気温がどうなってくれようと構わないのだけど、そうでない場合は違う。

 頭を沸騰させるような、視界が眩むような、この暑さだけはどうにも好きになれない。


 昼下がりの教室はどこもかしこも陽だまりだらけだ。

 この日差しを避けて、わずかに教室に残された陰った一角に身を寄せたゆかなだったが。

 どうやら熱気はゆかなを逃がしてくれないらしい。

 玉のように体に浮かび上がる汗の一粒を指で弾いて、ゆかなは大きく息をついた。


「でさー……」

「うっわ、それヤバくない? 大丈夫なの?」

「ホントホント、どうにかできないん?」

「だから私は言ったんだよー……」


 そんなゆかなの目の前で繰り広げられているのはこんな会話。

 ゆかなのクラスメートで、ゆかなも所属する女子グループ。その面々が一つの机を囲って交わし合う声だった。

 そのうちの1人が少し後ろに立ったゆかなを振り向く。


「ね、ゆかなもそう思うよねっ!」

「えっ、ああうん。ええと、私もマユのいう通りだと思う」


 ──しまった、ぼうっとしてた。

 ゆかなは熱気に当てられていて、さっきからほとんど話を聞いていなかった。

 慌ててそう返せば、マユと呼んだ短い髪の少女。真弓が「ほーらねっ」と得意げに笑う。

 その視線の先にいるのは同じグループの少女。仲間たちがぐるりと囲う机の椅子に座っているその子だ。


 ──ええっと、何を話していたんだっけ?

 会話に出遅れたゆかなは急いで思考を巡らす。

 ぼうっとしていた期間、その間に拾うことができた単語はなんだったか?

『バイト』? 『男子』? 『連絡先』 『クラスメート』? 『同じ』? 『部活の」?

 あとはあとは……、


 必死に単語をつなぎ合わせるゆかなの少し前で真弓が腰に手を当てた。


「エリコが優しいから、つけ上がるんだって。ここはガツンといってやらなきゃ」

「そうだよぉー、ここまできたらねえ」

「でも……」


 真弓に続いてもう1人、智恵もコクコクと頷いた。

 強気な少女に二人掛かりで迫られて『エリコ』と呼ばれた、グループの面々に囲まれる少女は冷や汗を垂らしている。

 あわあわと少々焦った様子で視線を彷徨わせる『エリコ』。

 その様子を眺めながら、ゆかなは胸の中で手を打った。


 そうだ。思い出した。

 このエリコ……、もとい絵理子。

 この少女のバイト先。そこにやってきたクラスメートの男子の話だ。

 もともとクラスで知り合った頃から、絡まれていて。

 しつこく連絡先を聞いてきたり、彼女の所属する部活につられて加入してきたり。

 正直はたから見ていても、若干不自然なぐらいに絵理子をつけまわす男だった。

 絵理子もそう感じたのだろう。それとなく避けているのは誰の目にも明らかであったし、遠ざけるような発言を繰り返してきた。

 そんな男が近日、絵理子の勤めるバイト先であるコンビニ。そこに面接を受けにきたのを絵理子は見てしまったのだ。


 こちらにその気もないのにこうまでつけまわされては気持ち悪い! 彼女の言いたいことはそれだ。

 大したことはない。他愛のない想いのすれ違い。


 でも、女子グループからすれば、そんなストーカーまがいの行動を槍玉にあげずにはいられないのだ。

 現在、ここで繰り広げられている集まりは、この絵理子の必死の救急要請にこぞって食らいついている状態、というわけだ。


 絵理子は苦笑った。


「なんて言ったらいいのか、わかんないよ」

「そりゃ、キモいからやめろっとかでいいんじゃない?」

「いやいや、エリコがそんな強気に出られるわけないじゃん。もうちょいこう……」


 言え、そう言葉にすることは簡単だ。

 しかし、真弓の言う通りおとなしい性格で気の優しい絵理子にとって、それはひどく難しい事だろう。

 心底気持ち悪いと思っていても、今の今までやんわりとしか対抗のできなかった彼女だ。

 ハッキリ、ガツンと、それができていたら現在の状況は存在しなかった。


「私には、……無理だよ」

「そんなこと言ったって、今なんとかしないとこれから面倒になるのはエリコだよ? バイトでまで絡まれてもいいの?」

「それは……」


 腰に手を当てて言い聞かせるように言った智恵の言葉に、絵理子が戸惑ったようになる。

 あくまで槍玉にあげるだけの他人の位置は楽なものだ。とにかく正論さえ言っていれば気遣っているような気分になれる。


 こういう事案に限らず物事とは当事者にしか解決できない。この当事者を舞台の上の役者に例えるとしたら、隣でみているゆかなたちはただの見物人だ。

 当然、見物人に舞台をどうにかするなんてできないし、脚本も変えられない。

 見物人のできることと言ったら?

 事態を楽しむか、黙って役者を応援するか、せいぜいヤジを飛ばすぐらいだ。


 それでもどうにかしたいと言うなら舞台に上がるしかない。上がって『当事者』になればいい。そうすれば力になれる。もしかしたら事態を一転できるかもしれない。

 しかし、だ。真弓も、智恵も、この場合の役者になる気は無い。もちろんゆかなにも。

 舞台に立って直接解決する側当事者になるつもりはないのだ。

 そんなリスクを背負うのは御免。

 だから、適当に楽しむか、正論に似たヤジを飛ばすか、絵理子がうまくやることを祈るしかない。


 もごもごと困ったように縮こまる絵理子。

 この問題は絵理子がどうにかする以外に方法は見当たらなかった。

 だって、誰も助けようとしない。

 だって、誰も舞台に上がりたくない。

 このヒロインを救う主人公ヒーローになるには自分には身が重すぎる。

 そう、わかっているから。


 もし、この場所にそれができる人物がいたら?

 それをゆかなは一人しか思い浮かべられないでいた。

 それほどの力を持った者はただ一人。

 例えば。


 もともと小さい肩をさらに小さくして、うつむく絵理子。

 ほんな小さな肩に、グループの中の1人の少女が手を置いた。


 美希だ。


「ねえ、絵理子」


 絵理子の方が小さく跳ねる。

 グループの全ての視線が自然とそちらへ集まった。

 グループの、クラスの、リーダー格の少女が会話に介入してきた。

 その事実に絵理子の瞳がわずかな光を映す。

 美希は彼女の肩に手を置いたまま、ニコリと笑いかけた。


「絵理子が無理なら私が言ってみようか?」

「美希……」


 そうして、美希が吐き出したのは彼女の望んだそのままの言葉だ。

 救いの糸を垂らされて、手を差し伸べられて。

 このヒーローの登場に絵理子は表情を明るくした。


 しかし、それは一瞬のこと。

 すぐに絵理子は静かに俯く形になる。


「でも、美希、それじゃ美希が……」


 そう、いくらクラスでの発言権が強いとは言え、ありふれた普通の学校生活だ。彼女が絶対ではない。

 美希が嫌に思われないわけじゃない。むしろ発言権の強い人間というのは、一般的にも嫌われやすいケースが多いだろう。

 執拗に絵理子に迫ってくること以外、かの男子生徒に難点は少ない。だから友達だって多いのだ。


 そんな奴に下手な行為は、美希の権威を地に落とす危険性を伴う。

 だから絵理子は不安なのだ。自分のせいで、友人を貶めるかもしれない事態に。

 でも、


「私、見た目不良ぽいでしょ? 最近は結構男でもビビりだからさ。私が言えば絵理子に近づかなくなると思うんだよねー」

「だから、それが」

「大丈夫、ヘマなんかしないよ。上手く言いくるめて穏便に済ませるのがイチバン、でしょ?」


 わかってるって、なおも止めようとする絵理子を遮って美希はそう笑った。

 柔らかさこそないものの、それだけに力強い、彼女特有の笑い方。

 弱ったり迷ったりしている誰かに、明かりを灯す。そういう笑顔だ。

 なんてヒーローに相応しい笑みだろう。

 その笑顔は彼女を救うには申し分ない、いや余りあるほどの力を感じさせた。


「ね、だから私に任せてみない?」


 それでこう言われてしまっては、彼女を頼る以外にどんな選択肢があるだろう。

 絵理子は嬉しそうに、でもどこか申し訳なさそうに、彼女の手を取った。

 そして、横に立つ美希を下から見上げる。


「ごめん、ホントごめんね。その……お願いしてもいいかな?」

「いいよいいよ、このぐらい。トーゼンだし」


 ふふん、と胸を張った美希。

 からりと軽く笑って自分に縋る絵理子の手を優しく両手で包んだ。


「絶対私がなんとかしてあげるっ」

「美希……」


 その手の暖かさたるや、どれ程のものだろう。

 付け爪で飾られた指のその温度を思うだけで、絵理子の気持ちは手に取るようだった。

 ゆかなたちにとっては面白おかしい会話のタネで、実感のないまま危機感を楽しむドラマや小説によく似た感覚だったが。絵理子には違っていたはずだ。

 そう大それた事はしないものの、興味のない男に言い寄られて、つけまわされて、きっと不安だっただろうと思う。


 そんな不安を、一瞬で消し飛ばしてしまった美希は、彼女の目にどんな風に映るだろうか。

 絵理子はほっと一息をついて、力が抜けたように笑った。

 だって自分は救われるのだと、約束されたのだから。なにを力む必要があるだろう。

 すぐに絡まった指は解けてしまうけど、その手の残した温もりは、確かに残っている。

 ヒーローの存在を、証明してくれているのだ。


 きゅっと胸にその手を寄せる絵理子の横で。真弓がけらけらとふざけて、拳を握りこんで前に勢いよく突き出す。ボクシングを真似たような動作を繰り返してみせた。


「確かにミキちゃん強そうだもんねー! おりゃあーってやっちゃうんでしょ?」

「あはは、しないしない」

「いやいやそんな。絶対全国制覇とか余裕っしょ。アネキ、一生ついていきますぜ」

「なにそれ」


 わざとしゃがれた声になってそうへつらってみせる真弓に、美希は困ったように笑った。

 全国のなにを制覇しろと言うのか。

 ゆかなも呆れたように眦を下げた。


 彼女自身が口にしたように、見た目が見た目だから美希は初対面だとどうにも怖いイメージが先んじる。

 しかし、蓋を開けてみれば面倒見が良くて、気遣いができて、これほどまでに頼れる少女なのだ。

 思わずふっと笑みを浮かべたゆかな。その唇からぽつりとこんな言葉が溢れた。


「かっこいいなぁ、美希は」

「そうかな? ……惚れちゃいやよん?」

「ふふふ、ないない。それは絶対ない」


 それを聞きつけた美希がすかさずそうおどけるものだから、ゆかなもクスクスと喉を鳴らした。

 確かに同性でも惚れてしまいそうな彼女の魅力だが、そういう意味ではない。

 あくまで友達として、である。友達として、友であることを誇りに思う、という意味だ。

 こう言う場面で臆することなく舞台に上がれる、当事者になれる美希の存在は誇らしい。

 だから、ゆかなはもう一度舌で確かめるように同じ言葉を彼女の方に繰り返した。


「でも、ホントにかっこいいと思うわ。流石美希だね」

「やめてよそーいうの、照れるじゃん」


 そう言って、照れ笑った美希は先ほどとは一転。今度はどこか可愛らしい。

 そういう率先として前に出る大人っぽいところも、褒められて素直に喜んでしまう子供みたいなところも、ゆかなは好きだった。


 遙香に、似ているからかもしれない。

 ゆかなの唯一無二の妹分に、親友に。

 人に言ったら性格から見た目までまるっきり真逆だと言われてしまうだろうから、誰かに言ったことはない。

 でも、ゆかなにとってはそうだった。

 全く違うようで、よく似てる。この二人はそういう存在。


 優しくて、変なところで豪気で、かと思えば子供のように純真で、でもやっぱりどこか大人びていて。

 はたから見れば全く異なったように見える二人が、仲がいい。そのことが何よりもの証明だ。

 遙香と美希。二人はよく似てる。


 ゆかなの見当違いなどではない。

 結局はそういうことなのだ。


 ひとり、そんなことを考えたためか、自然とこみ上げた笑み。

 周りに変に思われないために慌てて唇を引き結ぶけど、口元が次第にまた緩み出す。

 悪戦苦闘するもゆかなは結局諦めて、素直に喉を鳴らした。


 ぷすっと空気が抜けるような音を立てて噴き出して、グループの全員がゆかなのほうを見た。

 なにどうしたの? 唐突に笑い出したゆかなを見てグループの面々も同じように笑う。

 ひとり、ひとり、またひとりと。


 ぷはっクスクスあははふふふふふクスクス

 言葉もなく、ただただ笑い声だけが教室に溢れた。

 この場所に意味のある音を吐き出す者はいなかった。でも、なのにどうしてか笑い声を止める者もいないのだ。

 なぜだかは、わからないまま、笑い続ける不思議で和やかな昼下がり。


 その笑い声の合唱がようやく収まった頃だったろうか、パタパタと廊下を蹴る音が聞こえた。

 次第に近づいてくる、それ。

 それはゆかなたちがいる教室の前で止まり、次の瞬間には、ガラッと勢いよく教室の戸が開くのだった。


「ゆっかなー!」


 明るい、馴染みのあるその声。

 戸口にいたのは遙香だ。

 走ってきたからか、息は荒く頰は真っ赤だった。

 しかし、それにしては随分と晴れやかな顔をしている。


 遙香は戸口からゆかなを見つけて、小走りで寄ってくる。

 その様子を確認して、ゆかなは大袈裟なほどに呆れ顔を作ってみせた。


「遙香。……もう、走って来ないのって何回言えばわかるのよ」


 額に手を当ててため息をつく。

 すると、戸口に向き直ったゆかなの後ろで、真弓がぷっと吹き出した。


「ゆかなったら。おかーさんみたいになってるよー」

「誰がお母さんよ、産んだ覚えがないわ」


 そんな風にクスクスとうすら笑う真弓を無視して遙香の方へ足を運ぶ。

 叱ってやるつもりで腰に手を当てたゆかな。

 しかし、遙香はそんな事は御構い無しで。眉を釣り上げたゆかなに対して花のような笑顔を浮かべた。


「いーい? なんども言うけど……」

「だってゆかなに早く見せたかったの。コレコレ見てみて」


 言いながら遙香が差し出してきたのは分厚い本。

 ぐいぐいと強引に、半ば押しつけるようにこちらにそれを寄せてくるものだから、受け取るにも受け取れない。ちらりと見やることさえできない。

 とうとうゆかなは目くじらを立てて遙香を叱った。


「だからっ、ちょっとは落ち着いてよ遙……、」

「遙香ちゃん、今日も元気だねえ」


 ゆかなを遮って、あははと笑ったのは美希だ。

 ゆかなを横から覗くように出てきて、その肩口から遙香に微笑みかける。

 遮られて口を尖らせたゆかなとは逆に、大好きな美希の登場に遙香の方はぱあっと表情を明るくした。


「美希ちゃんっ」

「やっほー、遙香ちゃん。昨日ぶりー」

「うん、昨日ぶりっ、昨日ぶりだね!」


 ぴょんぴょんと跳ねてその喜びを体全体で表現する遙香。

 いつまで経っても子供みたいな行動をする彼女にゆかなが呆れた表情を浮かべる。

 その横を通り過ぎてゆかなの前に出た美希はにこやかに遙香の手元を覗き込む。


「なになに? それなんの本?」

「あ、これねっ。図書室で借りてきたの! 」

「花の、図鑑?」

「そうそう、綺麗でしょっ。どれかね、育てようと思って」


 ゆかなに押し付けていた分厚い本。

 それを美希の方に向けて、遙香は早口にまくしたてた。

 ブンブンと上下に本を振ってみせて、その興奮を美希に伝えようと躍起になる。

 ゆかなはその様子を腑に落ちないような、微笑ましいような、複雑な気持ちで眺めていた。


 とめどなく喋る遙香だ。

 口を挟む隙がないためか、みな静かに沈黙していた。

 だから、遙香の高い声がよくよく教室の中に響いて。

 ここに口を挟むのも野暮だろうと、ゆかなは開きかけた唇をピタリと施錠することにしたのだ。


「うんうんキレイキレイ」

「だよねっ。……それでね、この本にはねっ、花言葉も乗ってるんだけどね」

「へぇー、それはスゴイ」

「この花のね、花言葉が素敵で……」


 遙香の声が興奮して高く高くなっていくほど、美希の方は呆れてしまっているのか平坦になっていく。

 最後の方なんてもう棒読みもいいところだというのに、空気の読めない遙香は気づかない。自分の話に夢中になっているのだ。

 ゆかなは重々しくため息をついた。

 そんな遙香の話に根気よく付き合ってくれる美希には頭が上がらない。

 後ではお礼と謝罪の両方をしておこう。遙香には悪気はないんだと、フォローを添えて。


 遙香の姉貴分として? 保護者として?

 美希の友人として? いや、2人の友人として。

 彼女らがいつまでも、いつまでも。

 仲のいい友人同士でいられるように。ゆかなは奔走せねばならないのだ。


「だからね、あのね……」

「ねえ、遙香ちゃん」


 ふいに美希が遙香を呼んだ。

 唐突に自分の言葉を遮る形で呼ばれて、遙香は軽く首をひねる。


「なあに? 美希ちゃん」

「別に大したことじゃないんだけどね、一応注意しておこうと思ってさ」

「うん? なにかな なにかな? なんでも言って?」


 ヘラリと軽く笑んだ美希。

 それに身を乗り出すようにして遙香は彼女を覗き込む。

 なんの変哲も無い、日常の一ページだ。


 にこにこと笑い合う大切な友人と妹分に、気を悪くする人間がどこにいるだろうか。

 ゆかなもこのやり取りをいつの間にか微笑んで見守っていた。

 背中で他の三人の視線を感じながら、彼女たちも同じなのだろうと、少しばかり嬉しくなった。

 だけど……。


 ひやり、背筋を撫ぜたのは冷気。

 視界の端で美希がニコリと笑む。たったそれだけの、それだけのことで。

 ザワザワと胸が震えて煩い。

 なぜ? なぜだろうか、なぜこんなにも……。


「遥香ちゃん、そこ……危ないよ?」


 美希が言ったのはこんな言葉。

 全く意図がつかめないセリフだ。なんの変哲も無いこの教室で何が危ないというのだろうか。

 思わず首をひねったゆかなが、目を瞬かせた遙香が、その答えを見つけるよりずっと先に。

 遙香の体は斜めに傾いた。


「あっ……」

「はるっ……!」


 ガタンッと大きな音がして、机や椅子を巻き込んで倒れた遙香。

 完全に床に倒れる前に、なんとか体を支えようと何かに後ろ手で手をついた。

 しかし、遙香が縋ったそれはプラスティック製のゴミ箱。

 小学生ぐらいでも難なく持ち上げられる、軽いものだった。

 そんなものが春香の体重を支えられるはずがない。当然バランスを崩してしまい、遥香と共にひっくり返った。


 内容物がその場に散乱する。

 教室の床に、遙香の制服に、遙香の足に、無造作に転がった図鑑の上に、ゆかなの目の前で。


 ゆかなはすぐさま駆け寄るための一歩を踏み出した。

 一体なにが起きているか理解もできない頭のままだったが。それでも愛しい『妹分』の現状を突っ立ったまま傍観しているだけだなんて、ゆかなには出来なかった。

 すぐに駆けつけて、その肩を支えてやらねばならない。立ち上がるために手を貸してやらねばならない。

 そう思ったから。


 しかし、ゆかなのその行動は細い腕一本に遮られる形となった。

 美希だ。


 足を踏み出したままの状態で固まってしまったゆかな。

 美希はそんなゆかなを振り返ることなく、ゆかなが行動をやめたことだけを確認して、腕を下ろした。

 しんっと静まり返った部屋の中。

 遙香を美希がニコリと陽気に笑った。


「あはは、遥香ちゃんったらほんとドジなんだから」


 それは親しげな笑顔だった。

 状況にそぐわないその表情は、混乱した頭をさらに混乱の底に陥れる。

 ─遙香がドジ? でも、今確かに美希が突き飛ばして、あれ? あれ?

 ゆかなはぶらりと立ち尽くすしかない。

 美希が何をしたいのか。何を考えているのか、底が見えない。わからない。


 だから、この時のゆかなは何もできなかったのだ。

 ただ腕に遮られるままに、遙香に駆け寄ることを諦めたのだ。

 まだ心のどこかで信じていたから。

 美希がそんなことをするはずがない。だって二人は仲良しで。友達で。私の……。

 だからだからだからだから、


「だから言ったじゃん。そこ危ないんだって」

「ぅ、え? 美希、ちゃん?」

「今度からきおつけなきゃダメだよ〜?」


 床に手をついて倒れた遙香もゆかなと同じなのだろう。

 何が何だかわからないと言った表情だ。

 それなのに、犯人である美希は平然と遙香の方へ近づいてくる。

 事実が明白な中で白々しい言葉なんかを吐きながら。


 ただ瞬きを繰り返す遙香の正面に立った美希。

 彼女は中腰になって遙香の方ににこやかに手を差し伸べた。


「大丈夫? 立てる?」

「え、あ……、うん。大丈夫……」


 相当混乱しているのだろう、遙香はその手を取ることを一瞬躊躇った。

 しかし、その戸惑いを咎めるようにもう一度目の前に突きつけられる指。

 早く取れ、そういう意味だ。

 それをみて、ようやくおずおずその手を取る。


 震える指の、その振動が見ているこちらにも伝わってくるようだった。

 いや、もしかしたら震えていたのはゆかな自身だったかもしれない。

 遙香は美希に引き上げられて、危なげに立ち上がった。

 遙香の方をまっすぐに見つめる美希。

 彼女に遙香は、曖昧な笑顔を浮かべた。


「あの、美希ちゃんありがと、う? あはは、私ったら足滑らしちゃったのかな、心配かけて、……あのごめんね?」


 遙香が足を滑らせた? そんなはずはない突き飛ばされたのは明らかだ。

 でも、遙香は信じられないのだろう。

 大好きな美希が、大切な友人だと信じてきた美希が。

 自分にそんなことをするはずはないのだと。


 ……ゆかなと同じで。


「ふふふふ」


 美希が笑った。

 遙香はビクリ大きく肩を跳ねさせる。

 その笑顔はいつもの優しい彼女の笑みではなかったから。


 美希は快活で、面倒見が良くて、彼女が笑うとなんだか安心する。それはついさっき証明されたばかりだろう。

 力強い、でも温かみのある笑い方をするのだ。

 でも、今は。


「ほんっと遙香ちゃんってさぁ……、あはは」

「み、美希?」


 真弓が、絵理子が、智恵が、ゆかなが、固唾を飲んで見守る中。

 美希はゴミ箱のそばにあったを手に取った。

 掃除用具のバケツに入った雑巾。

 床だとか、机。黒板の粉受けを吹いたりするアレだ。


 帰りの掃除もしばらく前に終わったばかりで、まだしっとりと濡れているそれ。

 それを美希は乱暴に掴み取った。


 ベチャッ。


 くすんだ液体が宙を舞う。

 美希がそれを遙香に向かって投げたのだと、気づくまでにゆかなは数秒の時を要した。


 なんだこれは。

 一体何が起きているのだろうか?

 2人は仲が良かったはず。昨日も楽しそうに談笑していたはずなのだ。

 さっきだってそうだ。今の今までずっと……。


 ああそれなのに。


 真っ白になったゆかなの頭の中。

 その視界の端で、『仲の良いはずの2人』が対峙している。

 1人は雑巾を頭の上に乗せて、1人は腕を組みもう片方を嘲笑うような笑顔で。


 滴るほど湿った雑巾だ。次第に遙香の顔にその茶色っぽい汁がつたっていく。

 しかし、呆然と立つ遙香はそれを払うこともできず、パチクリと虚空を眺めていた。

 次第に髪に、制服にと侵出していく薄汚れた雑巾の液。

 それを満足げに見つめて、美希はからからと笑った。


 冷たく冷たく、でも愉しそうに。

 口角を大きく釣り上げたその笑みは、子供の頃見た絵本の魔女を連想させた。


「それ、似合ってるよ?」






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