吉乃
*
しんしんと夜の蟲が鳴く森の中で、焚火から火花の散る音ばかりが、静かに洞穴の中で溶けた。
信長は、地べたに横になっている夕立を眺めながら、蟲の声に耳を澄ませていた。
変わり者の坊主の話をしてからというもの、夕立は一言も話していない。どの分岐点で、なにがあったのか、信長の知るところではないが、その坊主に関しての何かが、夕立の中にある忌まわしいものを呼び起こしたに違いない。
呑気な夕立に、そんな辛い思い出があるようには見えない。しかし、妖の類でもないのだから、信長には人の心など分かるはずもなかった。
(何者なのだ)
信長は心の内で問いかける。
夕立の出生はわかった。骸から生まれ、武術に特化した肉体を持ち、余計な欲を持たない。
しかし、どうやって、いまの夕立が生まれた?
信長にはそればかりが気になる。
誰が夕立に剣術を教えたのか。それとも、その剣術の才すら生まれついてのものか。
どのように育てられてきたのか。誰が夕立の人格を作ったのか。
友は、想い人はいたのか。
求めれば求めるほど、夕立という娘が分からなくなる。
この娘は、よもや殺しても死なないのではないか。
そんな気にさえなった。
出生怪しく、その身は人智を超える。これが妖であると言われれば、納得もいくかもしれない。
もし夕立が、殺しても蘇るようならば、今度は信長が返り討ちに遭う可能性もある。
(この娘を手に入れることができればな)
信長は思う。
夕立が信長に心底から従うようになれば、もう殺す必要もない。
自分に歯向かう刃を折るには、夕立の心を奪う甘い餌が要る。
そのためにも、夕立のことを知らねばならぬ。
殺せれば殺す。
それができなければ、心酔わせて、自分に刃を向けぬよう飼いならすまでだ。
「―――お夕」
信長はいつになく、ひときわ優しい声をかけた。
「先の話、無理にせずともよい。かわりに、何か違う話でもしよう」
愛撫するような柔和な声が、信長の口から、するりするりと流れ出す。
それでも、夕立は反応を示さない。眠っているのか、夕立は背を向けて横たわったままである。
「―――」
信長は、沈黙を一貫する夕立の華奢な背中を睨む。
眠っているのか、不貞腐れているだけなのか。
その面を見て判断するために、信長は立ち上がった。
―――その時で、ある。
ぼう、と、夕立と信長の間で揺らめいていた赤い火が、強風に吹かれたでもなく、握りつぶしたように消える。咫尺も弁ぜぬ闇の中。本来であれば、信長も仕方なく、獣が入ってこないのを祈りながら眠りにつくところである。
しかし、信長は目を見開き、唖然としていた。
何処からともなく蛍火が湧き、蒼白い光が、横たわる夕立の身体を朧げに照らし出す。
何が起こっているのか理解できない。
状況の整理もままならぬ中、夕立の身体が起き上がった。
否、起き上がった、と、いうよりも、なにかに吊り上げられたようである。
不可視の糸が、夕立の四肢に絡まって操っているかのよう―――だらりと無力な起きざまは、まさしく、糸仕掛けの傀儡そのものであった。
「お夕―――」
信長はそう言いかけて、乾いた唇を強く引き結ぶ。
目の前に立ったのは、夕立に他ならない。
しかし、何かが違う。
生者とは思えぬ白い肌に、大きな黒曜石に似た眼。そして何を考えているのかつかめぬ、無表情。目鼻立ちも表情も夕立そのものであるが、その髪は長く艶めき、身には美しい姫装束を纏っている。
「貴様は」
信長はその刹那、ぞっと顔を青くした。
夕立に似た、美しい身なりの女。
信長の記憶の中には、それに心当たりのある女がいる。
「お前は、吉乃か……?」
信長の口から出たのは、かつて傍に置いていた女の名である。
それは、かつての信長の側室であった。
馬借りを生業としていた豪商の娘であり、元の夫・
否、弥平次を失ってから、というのは語弊である。
以前から生駒家の美しい娘に心奪われていた信長が、弥平次が死んだのを見計らって言い寄った、というべきであろう。
美濃の蝮と称された
当然、そんな女を抱けるわけがない。
初夜と言いながら白い寝間着を着て、顔を合わせたらそこまでで、あとは互いに別室で寝た。当然、子などできるはずもなく、信長と濃姫は一度も契ることなく冷え切るばかりであった。
信長は、濃姫を妻に娶って半年も経たぬうちに、何かと用事をこじつけては城を出るようになった。然るに、対した用事などない。外に出て、鷹狩や馬術に入れ込むばかりである。それもこれも、城にいる濃姫から逃げるためだった。
そんな最中に見つけたのが、吉乃である。
家臣である生駒の屋敷を訪れた際、その屋敷の縁側に、静々と座する美しい娘を見つけた。それが、吉乃という女だった。物腰柔らかく、優しげな風貌で、ふわりと花開いた花弁のように微笑む女はまさしく、濃姫とは正反対の女であった。
しかし、後に信長が吉乃に言い寄った時、すでに吉乃は別の男のものとなっていた。
吉乃を奪ったその男こそ、土田弥平次である。
天下人でも魔王でもなかった、ただのうつけでしかない当時の信長に、母の甥にあたる男から女を奪い取れるはずもない。
しかし、信長が苦い汁を啜ってから数年後。弥平次が戦死し、吉乃が生駒屋敷に返ってきた。
誰のものでもなくなった吉乃を、自分のものにするのは容易い。
弥平次の死を耳にし、急いで生駒屋敷に向かった瞬間のことを、信長は今でも覚えている。嬉々として馬にまたがり、野山を駆け、勢いよく屋敷の戸を叩いた記憶も、鮮明に残っている。
―――屋敷の中にいた、変わり果てた吉乃の貌も、忘れはしない。
穏やかな微笑みを浮かべた当時の吉乃はどこにもおらず、そのとき信長の前にいたのは、陰鬱な表情をした、能面のような顔の女であった。
弥平次の死に気を病んだか、それとも土田に嫁いでからの数年の間で、何らかの不幸に見舞われたか。
吉乃はまるで、死人のようであった。
話しても、抱いても、子を成しても、吉乃は信長の前で笑うことはなく、病に伏せ死を迎える瞬間さえ、微笑みを見せることはなかった。
あの時の、息を引き取る間際の吉乃が、目の前に立っている。
「信長さま―――」
吉乃が口を開き、生気の宿らぬ眼をてらてらと光らせる。
「私は許しませぬぞ―――」
吉乃の眼差しは、冷たい。
その口から零れ落ちたのは、かつて死に際に、吉乃が放った言葉と同じである。
「鬼女にでも成ったかよ」
信長は最愛だった女を睨み据える。
信長自身も、自分が吉乃に何をしたのか見当もつかぬ。化けて出るほどに恨まれる覚えなどなかった。
それでも、化けて出てきた吉乃は、ぼうぼうと浮かび上がる蛍火の中で信長と対峙している。
「なにが憎い、俺の何を恨んでおる」
信長は厳格に眉を顰めて唸る。
吉乃が生きていた時は、さも正室のように扱った。他の側室よりも正室よりも、吉乃はことさら特別に、寵愛されていたと言える。これといって無理強いをさせたわけでも、生駒の血筋の者に非道を行ったわけでもなかった。
問われると、吉乃は答えない。
「―――貴方様は、誰からも求められませぬ」
吉乃はそう、冷徹に言い放つ。
「貴方様に、そのような資格はございませぬ」
涼やかな声で謗り、吉乃の足元から蛍光が湧いた。
蜘蛛の子を散らしたように蛍光が舞い上がると、蒼白い灯りを放つ吉乃の足元が徐々に消えていく。
「待て、消えるな」
信長は我に返ると、声を荒らげる。
その華奢な腕を取ろうと手を伸ばすと、吉乃の体が白露に包まれた。腕をつかむが、感触がない。見れば、無尽蔵の蛍光が舞い上がり、洞穴の天をすり抜けていく。
「吉乃!」
信長は叫ぶ。
吉乃の恨み言の意味を、まだ聞けていない。
自分が何をしたのかも、吉乃は教えてはくれなかった。
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