スペクトル

黒楠孝

スペクトル

プロローグ

2-0. 人殺しをめぐる論議(Ⅰ)


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 ヒナコは何かを思い出した気がした。


 それはほんの一瞬の、奇妙な感覚。

 起き抜けに、見ていた夢を振り返ろうとするときのような。

 あるいは、つい先ほどまで自明であったことが、わけもなく疑わしく思えてくるような。


「……考えてきてくれましたか、九條くじょうさん」

 永久乃トワノ博士の穏やかな声が、混乱したヒナコを現実に引き戻す。

「ええ」勢いよく頭を振って、小さく呻くようにそう告げた。質問に答えたのだ。


 博士は訊いた。

 考えてくれましたか。

 何を?


「なぜ、人を殺してはいけないのか」永久乃博士はもう一度、その問いを口にした。「きっと、妙なことに拘る男だとお思いでしょう」

「いいえ……」ヒナコは俯いた。「すみません、ぼうっとしてしまって」

「お加減がよろしくないのですか」

「大丈夫です」


 言ってから考える。

 そう、大丈夫。これはインタビューだ。呆けている場合じゃない。


 永久乃数一すういち

 今を時めく人工脳研究の第一人者でありながら、姿を見た者すらほとんどいないと言われてきた謎多き人物である。

 その永久乃博士が何の気まぐれか、個人経営のサイエンスジャーナリストという怪しげな肩書をひっさげた女の取材に応じてくれたのだ。記者としては千載一遇のチャンスといえた。


「まず、問題をきちんと定義する必要がありますね」ヒナコはこめかみを右手の人差し指で抑えるいつものポーズをとった。「博士がなさろうとしているのは、殺人を禁止する社会的合意の根拠についてのお話でしょうか」

「そうではありません」永久乃博士は静かに首を横に振った。「失礼、もう少し厳密に訊きましょう。人が自らに対して人殺しを禁じることができるとすれば、その理由は何だと思われますか」

「であれば、私の想像と大体同じです」とヒナコは慎重に頷いた。「殺しが発覚すれば処罰を受ける、などといった外的な要因を除外して考えれば、答えは自ずと限られます。最もシンプルな考え方はこうでしょう。自分に対して人殺しを許可すれば、他人が殺すことを禁止できる合理的な理由がなくなる」

「つまり、殺されたくないならば殺してはならないということですね」博士はヒナコの目を見てゆっくりと言った。「では、殺されてもいいと思ったとき、人は人を殺してもいいことになります」

「自分が殺されても構わないと思っている人間に人殺しを禁じることは不可能です」ヒナコは率直に言った。

「明快ですね」と永久乃博士は満足げに呟く。「しかし、本当にそう言っていいものでしょうか」


 ヒナコは返事に迷った。

 職業柄、学者という肩書を持った人間と話をする機会は少なくない。ヒナコの見立てによれば、彼らの対人行動特性は大きく二通りに分類できる。

 一つは、自分の属性が他者との関係において持つ意味合いを十分に意識しており、時には会話の中で知性や権威を誇示したがる人種だ。言い換えれば、他人に興味があるタイプ。大学というコミュニティの中で権力を持つのはこういう人間が多い。

 もう一つは反対に、自分の殻に閉じこもる人種。他の人間と会話をする動機は「自分では思いつかない発想を得られる可能性がある」ことだけで、言葉の意味にしか関心を示さないタイプだ。


 永久乃博士をどちらのリストに追加するべきか、ヒナコはまだ決めかねていた。

 滅多に人前に姿を現さない孤高の科学者というイメージから、人間嫌いの気難しい相手であることを覚悟していたが、人当たりがよく、対人折衝能力は低くなさそうである。

 しかしながら、そもそも「なぜ人を殺してはいけないのか」という議論に彼が拘る理由がよくわからなかった。これが哲学科の教授ならまだ納得もいこうというものだが、彼は工学系の研究者だ。初対面の記者と議論するためのテーマとして、「人殺しをしてはいけない理由」が適切なものだとはやや考えづらい。

 つまり、これがコミュニケーションを目的としない、永久乃博士の純粋な興味関心に基づく問いである可能性を検討すべきではないかとヒナコは思いつつあった。


 だがそれは、博士の容貌に引きずられた思考であったかもしれない。

 あまりにもメディアに顔を出さないものだから、実は彼自身が秘密裏に開発された汎用人工知能であるなどという噂さえ囁かれる有様だったが、こうして本人を前にすると、あながちその風評も的外れではないのかもしれないと思えてくる。

 柔らかく、つやのある黒髪。

 ほっそりとしていながら丸みを残した輪郭。

 やや薄い眉の下には、温和ながら好奇心に満ちて輝く二つの瞳。

 サイバネティクスに端を発する種々の応用的技術の発展により、一部の富裕層にとって“人は見かけによらない”という題目が単なる慣用句以上の意味を持ちつつあるとはいえ……どんなに高く見積もったところで、ヒナコの目の前にいるのは十代前半の利発な少年としか見えなかった。

 その彼が「なぜ人を殺してはいけないのか」などと言うものだから、善悪の判断もつかない子供の純粋無垢な問いかけのように感じられるのだ。


「……博士のお考えを伺っても?」

 結局、ヒナコは永久乃博士の人格を問わず柔軟に対応できる無難な返答パターンを選択した。

「九條さんの議論では、自己に対する禁止と他者に対する禁止が混同されているように思えます」博士は淡々と答えた。「殺されたくなければ殺すな、というのは突き詰めてしまえば他人からの命令ではありませんか」

「ええ、内発的な動機でないという意味では」ヒナコは肯定した。「私が言ったことは、結局は他者との利害関係を基準にしています。命を奪うことそのものを全面的に否定するための論理ではありません。自分が殺すことと他人に殺されることの間に直接の関係を想定していない点で、殺さない理由を罰に求めるのとは少し違うとは思いますが」


 言いながら、だがとヒナコは思案する。

 殺人を禁ずる内発的・・・動機。

 それは、もはや宗教の領分ではないのか?

 例えば「神が与えたもうた生命」というドグマを前提に据えれば、殺人はおろか自殺の否定さえ容易だ。

 既存の倫理の尺度で測れない問題を取り扱う科学者が、何らかの宗教を拠り所にしているケースは珍しくない。


 彼が行おうとしているのは、一種の信仰告白なのだろうか。

 もしそうだとすれば、著名な科学者をネタにしたゴシップ記事は書けないこともない。だが、それが会談の主題になるようでは、サイエンスライターとしてははっきり言って期待外れもいいところだ。


「僕の考えるところでは」永久乃博士は口許に右手をやった。「人を殺すことには意味がありません」

 彼の返答が大きく予想と食い違っていて、ヒナコは思わず噴き出してしまいそうになるのを堪えた。

「意味ですか……」目を丸くして眉を歪めた妙な表情になりながら、なんとか返事をする。

「人が誰か、特定の個人を殺すことでコンフリクトの解消を図るとき、本当の問題が存在する場所は自己と他者の中間です」博士はヒナコの様子には頓着せず言った。「人と人の関係性に何らかの矛盾があるから葛藤が生じる。そこで、関係が存在するための基盤そのものを消してしまうことで矛盾をなかったことにしようとするのが殺人という行為の本質と言えます」

「興味深いお話です」ヒナコはおべっか半分、本音半分でそう相槌を打った。

「しかし、これは妙なことです」と博士は続ける。「水道管に穴が開いたから貯水施設を撤去しましょうと言われて納得する人はいません。人殺しも、やっていることはそれと似たようなものです」

「問題解決の手段として考えると、殺人は不合理だということでしょうか」

 ヒナコが論旨を簡潔にまとめると、博士は小さな笑窪を作って顔を傾けた。

「それでは人を殺してはいけない理由にはなっていない、とおっしゃりたいのですね」

「いえ」とヒナコは口ごもる。実際のところその通りだったのだが、インタビュアーの立場ではっきりと博士の言い分を否定するのは気が引けた。

「構いません」彼は首を振った。「元から答えがあるはずもない問題です。拙いですが、僕なりのアイスブレイクのようなものと思ってください」


 ヒナコは曖昧に笑って応じた。

 どうにも捉えどころがない人物である。こうやって話が終わってしまうなら、結局どこに彼の関心があったのかわからない。

 転がる会話の成り行きをコントロールするのは聞き手の仕事だ。そのために手綱は握っておく必要がある。相手の人となりが掴めない状態は、インタビュアーとしては望ましいとは言えない。


「何か、訊きたいことがあっていらっしゃったのでしょう」永久乃博士は、少年のような貌に似つかわしくない柔和な表情を浮かべた。「こういったことにはあまり慣れていないのですが、できる範囲でお答えしますよ」

「……ありがとうございます」ヒナコは内心の逡巡を見透かされぬよう、ポーカーフェイスで目礼をした。「では、早速ですが。博士は、ご自分の研究が私たちの社会にもたらす影響をどのようなものとお考えですか」

「大前提として、それは僕たち一人ひとりが考えて決めるべきことです」博士は滑舌よく聞き取りやすい声で喋る。「人間という種全体が、自己の存在意義に対する内省を求められていると言えます」


 その回答にはやや拍子抜けした。

 思想の潮流としてはもう古典的と呼んで差し支えない論点であるし、内容も優等生的でさして面白みのあるものとは言えない。


「ええ。人体の機械化を訴える、トランスヒューマニストの主張も単なる絵空事とは言えなくなりつつありますね」ヒナコは当たり障りのないレスポンスを返した。

「ヒトが、ヒトによる支配を正当化するために自己の優越性を主張できる時代は終わりました」永久乃博士は、やはり聞き手のリアクションなど意に介さぬように平坦な声音で続ける。「客観的な状況としては、あとはいかにしてヒトが自分たちの負けを認めるかというだけの話ではないかと思っています。短期的には人工知能を何らかの形でヒトの支配下に置くことも可能かもしれませんが、それは今まで地球上で起こってきた出来事と照らし合わせて考えれば、明らかに不合理な状態です。遅かれ早かれ破綻するでしょう。我々にとっては、そのときのために備えておくことが肝要だと考えています」

「博士は、人間が人工知能との生存競争に敗北するビジョンをお持ちなのですか」

「敗北という言葉をどう定義するかによります」と博士は言った。「これまでの歴史で人類が築いてきた自己像は、修正を余儀なくされると思います。進化の原則は適者生存です。ヒトの在り方も時代に合わせて変わっていくのが自然でしょうね」

「具体的に、人間がどのように変化していくと?」


「大雑把に三つのパターンが考えられます」

 言って博士は三本の指を立てた。


「一つは人間と人工物の融和です。

 技術の進歩により、徐々に両者の区別がつかなくなっていく。いわゆるトランスヒューマニズムの人間観はこれに属するでしょうし、僕の研究も大別すればここに含まれると思います。

 人工知能を人間と比較した場合、最大のアドバンテージはハードウェアの制約が非常に緩い点にあります。その利点を人間にも適用しようというわけです。

 このアプローチは、人間と人工知能を対立的に捉えるような考え方を無意味なものとするでしょう。技術的なハードルはまだ多く残っていますが、以前と比べればこうした考え方に対する人々の抵抗も薄れてきています」


 ヒナコは頷いて話の先を促した。


「二つ目に考えられるのは、人間が己の尊厳を放棄するケースです」

 指を一つ折って永久乃博士は続ける。

「このままいけば、人間が人工知能よりも優れた成果を挙げられる分野はほとんど残りません。勝てない勝負を挑んでも仕方ないのだから、生産的な活動はいっそ彼らに任せて我々人間は歌や踊りに興じるだけのペットにでもなってしまおうではないかという考え方ですね」

「ぞっとしない話です」ヒナコは大げさに肩を竦めて見せた。

「今、こうして生きている人間からすればそのように感じるのも無理はないでしょう」博士は頷いた。「ですが、誇りなど所詮は適応の副産物に過ぎないとも考えられます。それに現在、この星に存在する生物の多くは、人間に何らかの形で利用価値を見出され、いわばお目こぼしを受けることでなんとか生き延びてきたのです。今度は我々がそうした生物の一員に加わる努力をしなくてはならないというだけのことかもしれません」

「まるでディストピア映画のシナリオみたいですね」ヒナコは言葉と裏腹に少し弾んだ声を出した。「例えば私がそう感じてしまうこと自体も、今後は適応の妨げになりうるでしょうか」

「生存のための適応という考え方は、元をたどれば現象に対する後付けの解釈でしかありません」と博士はすぐに答えた。「それは、結果から原因を推定する能力に特化した人間という種族の癖のようなものであって、本来とは順序があべこべになっています。実際には多様な存在がある中で、たまたま生き残った個体が適応に成功したとみなされているに過ぎないのです。非常に人間的な、倒錯した発想だと言えます」


 ヒナコはなるほどと頷きながら、内心で永久乃博士への評価を調整する。

 見た目通り少年のような無邪気さを覗かせるところもあれば、世慣れた古狸のように老獪な雰囲気も持ち合わせていると感ぜられた。

 研究者に求められる範囲であれば高度な駆け引きの類も難なくこなすだろう。だが、それがまるっきりの腹芸ではなく、思ったままを正直に述べているだけに見えるところに彼の特異性がある。

 本人が、そのような印象を与えるであろうことを織り込んで振舞っているのかどうかはよくわからなかった。普通に考えれば、計算ずくと見るのが妥当だろう。何しろこの少年のようなビジュアルは、どう考えても彼本人が選択したものなのだから。

 だが、博士の言動にはどうもそういった打算のような意図を見出しづらい部分が多い。おそらく、穏やかな物腰とは裏腹に、実はかなり不安定な人格を内包しているのではないかとヒナコは睨んだ。

 同時に、永久乃博士に対し、単なる取材対象としてではなく個人的な興味を抱きつつある自分に気が付いて、若干の戸惑いを覚える。


「最後のパターンは、我々が二つの道のどちらも選ばなかった場合の、ある意味では消極的な見通しと言えるかもしれません」言って博士は指をもう一つ折った。「実のところ、人体をまるごと機械に置き換えてしまおうというトランスヒューマニストの主張には致命的な欠陥があると考えられています」

「……自己同一性の問題、でしょうか」

 ヒナコが呟くと、永久乃博士は「その通りです」と首を縦に振った。

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