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 太郎より良い結果を残せなかった以上、考えを改めなければならないのは次郎のほうだった。コンクールが終わった後、次郎は太郎と一緒に再び鉛筆デッサンに取り組むことにした。

 しばらく描いていなかったせいか、初めはなかなか調子が出なかったが、だんだん勘を取り戻し、次郎は以前よりも上手く描けるようになっているのを実感した。

 三学期も終わりに差し掛かったある日、二人は机の上に果物や花瓶を並べて、静物画を描くことにした。

 しかし、その絵が完成したとき、次郎は気づいてしまった。この一年間で、二人の画力には大きな差が開いていたことに。太郎が描いたリンゴは、かじったときの歯ごたえと口中に広がるみずみずしい果汁の香りを思い出せるほどに、リアルな質感を持っていた。次郎のリンゴは、ただの絵でしかないのに。

 そんな太郎でさえ、全国では入選できないのだ。太郎に追いつき追い越さなければ、画家になんてなれっこない。

 次郎は焦りに焦った。もはや太郎は、次郎とともに並んで歩んではいなかった。次郎より何歩も先を行く自分の影だった。次郎がいくら上達しても、同じだけ太郎も上達して、永遠に追いつけない気さえした。

 画力では、もはや太郎に敵わない。それならやはり、自分だけの個性的な表現を見つけるしかない。ついこないだまで「自由な表現」を求めて迷走し、太郎に大きく水を空けられたにもかかわらず、次郎は再び安易な「個性探し」の誘惑に負けそうになっていた。

 父さんから柴犬体質の話を聞いたのは、そんな時期だった。

「柴犬は人間より頭高がずーっと低いし、色の見え方も違う。もし柴犬に変身できたら、人間には見えん景色が見えるぞ。絵描きにとっちゃあ大きな武器になると思わんか?」

 父さんの言葉に、次郎は希望を抱いた。

 もし犬にしか見えない視界を描けたなら、それは絶対的な個性になるだろう。俺はどうしても柴犬になりたい。

 でも太郎と一緒じゃ意味がない。二人いたら「個性」じゃない。俺だけが柴犬体質でありますように。太郎は柴犬になんかならなくたって十分に上手いから、大丈夫だ。

 つまり次郎は生まれて初めて、自分と太郎とが同じ人間ではないようにと祈ったのだ。

 そして、四月一日のこと。

 二人の胸に、細いのが、五本ずつ。

 胸毛が、生えた。


***


 柴犬体質かどうかを見極めるため、時柴一族の男子は胸毛が生えると父親に連れられて、夜に人気ひとけのない場所へ行くのが伝統となっている。もし柴犬に変身した場合、身体が小さくなるので衣服が全部脱げてしまう。若いうちはいつ人間の姿に戻れるか分からないし、柴犬の姿では衣服を回収するのも大変だ。父親は、息子が柴犬に変身した場合に備えての付添人なのだ。

 胸毛が生えてから、父さんはなるべく仕事を早く切り上げて帰宅するようになり、毎晩夕食後に太郎と次郎を連れて外出した。七中の裏山への道は人通りが多すぎるので、行先はたいていその近所にある寂れた神社だった。

 次郎の身体に異変が起きたのは、四月七日の夜だった。明日から中三の一学期が始まるその日、時柴家の父子は神社へと続く砂利道を上っていた。四月一日の夜から数えて、これで七回目だ。

「俺たちは、柴犬体質じゃないんじゃないの?」

 柴犬体質にさして興味がない太郎は、毎晩の夜歩きに飽き飽きしているようだった。

「それはまだ分からんぞ。父さんが初めて柴犬になったのは、十六歳のときだったからな。言い伝えでは、二十歳を過ぎてから初めて柴犬になったご先祖様もいるらしい」

「ええっ、あと五年以上も毎日父さんと一緒に散歩するの?」

「嫌なのか? 太郎」

「正直言って嫌だよ。家でファミコンしたいもん。なー、次郎」

 次郎はいつの間にか、太郎や父さんより何歩も後ろを歩いていた。さっきから二人の会話が遠くに聞こえる気がする。視界がチカチカして、上半身が重かった。

「次郎?」

 太郎が振り返った。

 俺、なんかちょっと、体調悪いかもしんない……

 そう答えようとした瞬間、次郎の視界は真っ白になった。

「次郎!」「次郎が!」

 父さんと太郎が口々に叫ぶ声だけがした。次郎は頭が地面に向かって引っ張られるような感覚を覚えた。もうだめだ、倒れる――けれどもそれは錯覚だった。闇の中に浮かぶ鳥居と、太郎や父さんの顔がはるか高い所へ遠ざかったが、次郎は間違いなく自分の足で立っていた。

「次郎!」

 太郎が叫んだ。だから、次郎も太郎の名を呼んだつもりだった。

「わん!」

 自分の声を聞いたとき、次郎はようやく気づいた。

「わわん! わんわんわんお!」

 やった! 俺は柴犬体質だ!

 Tシャツの首から頭を出した小型の柴犬が瞳をきらきらさせて、人間の姿をした家族に向かって吠えていた。

 次郎は柴犬体質だったのだ。そして太郎のほうには、一向にその気配がない。まさに次郎が望んだ通りだった。

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