逃亡②

 それから何日が過ぎただろう。

 朝昼と馬を走らせて夕方になれば食糧を探す。スオウが集落で手に入れた携帯食も食べ尽くしてしまった。水の恩恵はない。もっとも雨が降れば寒さで身体が動かなくなる。ともかく、イスカの大地はシオンたちに味方してくれないようだ。

 疲労は限界に達していた。気力だけがシオンを突き動かしている。死んではならない。カンナには何もしてやれなかった。だからせめて、側女の最後の願いだけはきき届けなければならない。

 相変わらずスオウはだんまりをつづけている。

 頑固な男だ。声を出すのが禁忌だと思っているらしい。とはいえ、シオンも喋る元気すらなくなってきた。西まであとどのくらいだろう。きいたところで、大した答えは返って来ない。

 夕暮れが近づいて来た。昼が短くなっている。そう感じるのは本格的な冬がはじまるからか、それとも馬が言うことをきいてくれなくなったのか、シオンたちが疲れ切っているせいか、わからない。野営の準備をするシオンを残してスオウは水を探しに行った。食べ物は期待できそうもない。兎狩りをする元気が残っているくらいなら、とっくに西へとたどり着いている。

 燃ゆる火を見つめながらシオンはため息を吐いた。息が詰まる。スオウはいつまでこの逃亡をつづけるつもりなのだろう。獅子王は死んだ。シオンの兄たちも、四つ下の弟エンジュも死んだ。カンナも死んだ。でも、シオンは生き延びなければならない。

 追っ手はどこまで追ってくるのか、それとも西へと先回りしているのか。

 どっちだっていい。シオンは、たたかうだけだ。

 馬のいななきがきこえた。シオンは顔をあげた。不覚。こんなに近くにいるのに気付かなかった。馬たちがいなければシオンはとっくに死んでいた。

 三度目だな。シオンは独りごちる。イスカの王城で二度、そしていま。それなのにシオンがまだ生きているのは、イスカの大地がシオンを生かしてくれているおかげだろう。

 シオンはやおらたちあがった。追っ手は三人。いずれもシオンより若く、少年のように見える。まず右の男を殺す。そのあいだに残りの二人はシオンに飛び掛かってくるだろう。左腕は捨てる。馬も諦める。騒ぎに気付いたスオウはすぐに出てこない。だが、それでいい。二手に分かれた方が助かる道は増える。シオン同様に、スオウもまた生きなければならない。

 男たちが間合いを詰める。シオンは懐に隠してある短刀を取り出した。カンナの形見のひとつだ。ところが、短刀を振りかざす前に声がきこえた。スオウだった。

「シオン、よせ」

 なぜ、止めるのだろう。男たちの視線がスオウへと向く。シオンもスオウを睨めつける。スオウは目顔で訴えつづけている。よせ、シオン。懇願のようであり、それは命令のようだった。

 シオンは唇に笑みを描いた。そういうことだったのか。イスカの王城でシオンを救ったのはスオウだ。そうしてシオンとカンナを燃える王城から連れ出してくれた。しかし、カンナはもういない。ここまでだろう。スオウは義理人情に厚い男だが、こんなところで死ぬことはない。

「おれを、信じてくれ」

 スオウは真顔だった。短刀を手放したシオンを、男たちが捕縛した。

 

 

 







 

「お前たちはここへ来ると思っていた」

 シュロのところへと連れて行かれたのは、その日のうちだった。

 いつのまにか西の部族の領域に入っていたらしい。あの少年たちはスオウを知っていたから、いきなりシオンを襲ってこなかったのだ。

 シオンは舌打ちする。極度の緊張と疲れのせいで、人間の心までなくしてしまった。スオウはシオンを裏切ってなどいなかった。信じられなかったのは、シオンの弱さのせいだ。

「積もる話でもしたいんだがな。その前に身をどうにかしてもらおうか。……匂うぞ」

 シオンは嗤った。着の身着のままでイスカの王城から逃れてきた幼なじみに対して、最初の声がこれだ。道中スオウは二度集落に寄ったが、金はすべて食糧に充てた。カンナの残したかんざしも馬を買うために使った。

 さっきの少年たちが戻って来た。一人増えている。四人目は少女で、二人一組となってシオンたちを連れていく。ここにはイスカの王城のような風呂などなかったが、冷たい水でも身体を洗えたことに感謝するべきだろう。水は貴重だ。罪人扱いのシオンたちにもシュロは水を分け与えてくれる。

 少女が用意した貫頭衣かんとういは古着だったが、それでもありがたかった。蘇芳すおう色の貫頭衣を上から被って、そしてシオンは自分の肌を嗅いだ。少女がくすっと笑い、少年に小突かれていた。ようやく人間に戻れた気がした。

 族長の天幕へと連れて行かれると、スオウとシュロが向かい合っていた。

 久闊きゅうかつを除して語らう友というよりも、族長と俘虜ふりょのようだ。そうなのかもしれない。シオンとシュロは逃亡者だ。

「俺は、ケイトウが王でもいいと思っている」

 シュロの声は冷めていた。怒りのままシオンが殴りかかってくる。わかっているくせに、そういう声をする。

「お前たちは、どこまで知っている?」

 だが、シオンは拳を固く作るだけだ。シュロの声はまだ終わっていない。

「私たちはなにも知らない」

 答えに対してシュロは笑う。何も知らないのはシュロの方だろう。

「深夜、突然に襲われた。カンナとスオウがいなかったら、私は死んでいた」

「カンナはどうした?」

「死んだ」

 深い嘆息が落ちた。シオンが他人事のように言ったせいだ。

「さっき言ったとおりだ。俺は、ケイトウが獅子王でもいいと思っている」

「何の話だ?」

「玉座に収まるのはエンジュだ。だが……、実際の王はケイトウ」

「なにを、言っている? エンジュは、生きているのか……?」

 シオンの声にシュロは応えず、視線をスオウへと向けた。スオウの唇は固く結ばれていたが、その答えにシオンはたどり着いた。

 そう、あのときスオウはと言った。。たしかにそう言ったのだ。これまでその意味を考えなかったわけじゃない。だが、宰相がそうする利点がないと思い込んでいたのだ。

「ケイトウは宰相だ。次の王がスオウに替わったとしても」

「ああ。奴は永遠に獅子王にはなれない」

 ならば、なぜ? シオンは途中で声を止める。獅子王をほふり、シオンの兄たちを殺したのは宰相だ。あんな奴の目的などわかるものか。

「ケイトウも戦士だ。過去形にすべきじゃない。だから、欲しいものは力で奪う」

 シオンは歯噛みする。シュロの言っていることは正しい。いつの時代もイスカは乱れていて、玉座は力で守られてきた。

「個人としてはあの男は好かん。だがな、俺はずっとケイトウを見てきた。政治力に優れた者こそ、獅子王の傍らにいるべきだ」

「あいつは叛賊はんぞくだ」

「どれだけの民が、お前とおなじ声をするだろうな?」

 言って、シュロはまた笑う。王が倒れたとき国は激しく荒れる。イスカという国が持っているのは宰相の力だ。そう、シュロは言いたいのだろう。

「おれたちに死ねと言うのか?」

 それまでひたすらに沈黙を守っていたスオウの声だ。怒っているのだろうか。スオウの顔から感情の一切が消えている。

「そうだ。お前たち二人の命でイスカの平和が保たれる。安いものだろう?」

 シオンはずっと作っていた拳を解いた。シュロはもうあのときのシュロじゃない。シオンに臀を蹴られても笑っていた少年は、西の部族の長だ。

「俺たちはな、別に獅子王に従ってきたわけではない。利害が一致していただけだ。ケイトウはお前たちを引き渡すように俺に言ってきた。さすれば、我が部族は安泰だと」

 たぶん、これは友の声ではないのだろう。シオンはそう思い込もうとする。

 少年たちが天幕へと入ってきた。話は終わりだ。シオンとスオウは抵抗することなく、シュロの前から消えた。

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