第6話
「ユリス! ユリス!」
静かになった部屋でしばらくぼうっと佇んでいると、突然、自分の名前を呼ばれてようやく我に返った。
「もう、なにぼけっとしているのよ」
「ああサニシュか」
アルフィアと入れ替わりのように、事務所の所有者の娘が入ってきた。
「せっかくお母さまのつくったシチューとパンを持ってきたのに」
「ああ、いつも、ありがとう」
礼を言って、先ほどまでアルフィアと話をしていたテーブルに置かれたままになっている、カップを片付ける。空いた場所に、サニシュは両手に抱えた小さなナベと、パンの入ったバスケットを置いた。
この事務所の所有者であるクラヌス氏の夫人は、しばしばボクの元に食事を差し入れてくれる。一応、自炊もするのだが、二、三日に一度の割合で貰えるうえに、なかなか味もよいために、ボクもありがたくいただいていた。
若い男性の一人暮らしということもあって、栄養を心配してくれているのだが、バーモンダル氏の紹介というのも少しはあるのかもしれない。
クラヌス家は、現在、海外に赴任中の海軍軍人の主人と夫人、そして娘のサニシュの三人家族である。不動産を所有しているとはいえ、ユーリントのごく一般的な市民の生活水準の家庭であり、キッチンメイドなどもおらず、料理は夫人自らが腕をふるっている。
以前はふたりでよく差し入れに来てくれたのだが、最近は夫人が教会の慈善事業に出かけることが多く、娘のサニシュだけが持ってきてくれることも珍しくなくなってしまったのは、少々、やっかいだった。
というのもこのサニシュは、明るくて気の利く反面、かなりおせっかい焼きで小うるさい性格なのだ。まだ十二歳なのだが、歳がずっと上のボクに対して、ずいぶんとお姉さんぶって接するのである。
クラヌス夫人と一緒のときはそうでもないのだが、ひとりで来たときは、大変だ。特に最近、ボクも顧客も増えてきて、仕事が少しずつ軌道に乗り始たことで、身の回りのことがおろそかになりがちになっていた。それをサニシュはめざとく見つけて、説教をして片付けるのだ。
片付けてくれるのだからありがたいといえばありがたいのだが、正直、細かくてやれやれと思うことも多々ある。戸棚の食器の配置まで口を出されるのは勘弁して欲しかった。
偉ぶりたい年頃なのだろうし、母親のクラヌス夫人も世話好きな人だから、その血を引いているのだろう。
「掃除するから邪魔にならないように適当に座ってて」
ボクの悩みなどお構いなしに、サニシュは差し入れと一緒に持ってきたエプロンをつけて、片付けを始めた。
邪魔とはひどい言われようだが、掃除をしてもらえる手前、文句も言えない。部屋の隅に立てかけてあった箒で床を掃き始めたサニシュを横目に、ボクは事務用の机に移動すると、明日の仕事の準備に取りかかった。
午前中に予定が入っている顧客に見せるための資料の作成である。支払う保険や年金の額などを、一年単位で表にするのだ。
作業自体は慣れているとはいえ、金融の知識がない顧客が一目でわかるような表を作成するのはやはり難しい。同業者からもあれこれ顧客にわかりやすい表を書くためのアイディアを聞いてはいるのだが、皆、苦労しているようだ。なかには顧客の心理的なハードルを下げるために、欄外にイラストを描いている人もいるのだが、絵心のないボクには無理である。
ボクの工夫は数字を色分けすることである。年金の受給などの入ってくるお金には青いインクで、生活費や保険、税金の支払いなどの出ていくお金は赤いインクで書くのである。
「そういえば、さっき出て行った人なんだけど」
掃き掃除を終え、壁を雑巾で拭いていたサニシュが、手を休めて訊ねた。
「なんだか金髪の綺麗な人だったけどお客さんなの?」
「アルフィアさん――ミス・ブラングリュードのこと?」
「まあ、もうファーストネームで呼んでるの!」
そう驚いたような口調のあと、ニッと笑う。
「ユリスって朴念仁みたいなのに隅に置けないのね」
「あのねえ」
このマセガキがと続けようとしたが、さすがにその言葉は飲み込んだ。親しいとはいえ、相手はこの事務所の所有者の娘である。夫人がこの程度のことで気分を害するとは思えないが、あまり乱暴なことを口にするのは、サニシュの教育上にも良くないし、自分の品位を貶めるだけだ。
「彼女がファーストネームで呼んで欲しいと言ったんだよ」
我ながら言い訳がましいと思いつつも抗弁する。もっともこれは本当のことだからやましいところは無いはずなのだが、どこか声の調子がいつもと違って震えていたのではないかと心配してしまう。めざといサニシュのことだから、ちょっとした口調の変化を突っ込まないとも限らない。
だがそれは気にしすぎだったようだ。
「でもあまり馴れ馴れしいと嫌われちゃうわよ」
軽く一言だけ発すると、もう興味が失せたように、掃除に戻った。
その姿にほっとしながら、ボクはそのまま手を休めてアルフィアの話を反芻する。
とにかく謎の多い依頼だった。
まず彼女の商会に仕掛けてきたパッセル・ドラングという男は、いったい何が目的なのだろうか。
穀物業界への参入のためにブラングリュード商会を買収したいとはいっても、果たして額面通りに受け取っていいとは思えなかった。もちろんまったくの嘘ではないだろう。だが、本当にそれだけの理由ならば、あまりに彼の行動はリスクが大きい。使用人を引き抜くような手段は、参入を果たしたところで、同業者の目も厳しくなり商売はし辛くなるはずだ。他の穀物商を懐柔しているとはいえ、それも限度があるだろう。他の商会にしても、今回はともかく、次は自分のところだという不安は常に胸中に渦巻いているはずだ。
よほど勝算があるのか。そうでなければ、ドラングにとって参入自体が目的ではないと考えた方がよいのかもしれない。
この辺りは明日、ブラングリュード商会を訪れたときに手がかりになる話が聞けないだろうか。使用人のほとんどが引き抜かれたということは、また残っている人間がいるということだ。恨みではないとアルフィアは断言していたが、直情に感じられる彼女の性格からは考えつかない理由があるかもしれなかった。
もうひとつの謎は、バーモンダル氏がどうしてこのボクをアルフィアに紹介したのかという点だ。
もちろん商業的な知識がないわけではないが、専門は保険や金融の個人に会わせた計画設計である。やはり商売の相談、それも商会規模の駆け引きとなると、ボクではどこまで対応できるかは自信がない。
そのことはバーモンダル氏はよく知っているはずなのだ。
バーモンダル氏は取引所の理事長であり、商工組合の会長を務めるほどの人物だ。単純に、情だけでも、利益だけでも動く人ではない。よほど深い考えがあるのか、それとも――。
「もう、何ニヤニヤしているのよ」
そう言われて顔を上げると、サニシュのそばかすのある顔が目の前にあった。
子供のくせに大人びた仕草で、いかにも呆れたという感じで肩をすくめた。
「そこの机の上も拭いちゃうから、書類、片付けて」
明るい性格とはいえ機嫌が悪くなると少々、我が儘なところが出てくることもあって、ボクは黙って言うとおりにした。
しかしニヤニヤしていたとは驚いた。
決して楽しいことを考えていたわけではないし、むしろ必死に頭を働かせていたくらいだ。だいたい、ほんの一時間前まで、南洋開発会社の倒産で価値のなくなった株式を手に、沈んでいたはずだった。
でも、やはり今、楽しい。
原因はたぶん――これがいつもと同じような依頼人ならば別に何ともなかったはずだ。やはり若い女の子に頼りにされるのは嬉しいのだ。
もうボクの人生はリンハラとシリカに捨ててきた。残りは余白のような日々とはいえ、少しくらいはそこに、カラフルなインクで文字を綴るくらいは構わないだろう。
――金銭に感情的になってはいけない。
死んだ父はしばしばそう言っていた。
だが今日だけはちょっと感情的になってしまうことは仕方のないことかもしれない。
いつの間にか手にしていた紹介状を眺めながら、そんなことを考えていた。
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