序章②

「珍しく早起きなさっていると思えば……朝っぱらから、何をなさっているのですか?」

 振り返るとそこには、長身の眉目秀麗な青年が眉をひそめて立っていた。

 涼やかな暗紫色の瞳には、どこか呆れた様な色が浮かんでいる。

「し、紫晃しこう……! えーっと、ちょっとした実験を……」

「ほう……。手を真っ赤に腫らしながら……ですか?」

「うっ……」

 蔡家の家令を務める青年――とう紫晃からの鋭い指摘に言葉を詰まらせる。

 十年以上も世話を焼いてくれる紫晃のことは、もちろん深く信頼はしている。

だが、七つもの年の差に加え隙のない彼には、いつも言い負かされてしまう。

 陽琳が目を泳がせていると、紫晃はため息をついて陽琳の手を取った。

「打ち込める何かがあることは素晴らしいことですが、御身は大切になさってください」

「はあい……」

 紫晃に促されるままに井戸の水で手の傷を洗い、適切な処置を受ける。

 軟膏が塗られ、包帯を巻かれた己の手を見ながら、陽琳は感心したように頷いた。

「さすが紫晃ね! 傷の手当てもばっちりだわ!」

「褒めても何も出ませんよ。これくらいの処置は、家令ならばできて当然です。……それよりも、このようなことで褒められずに済む方が、私としては大変助かるのですが?」

 にこりと微笑みながらそう言った紫晃に、陽琳は再び小さく呻いた。

「こ、今後は気を付けます……」

「そうしていただけると幸いです」

 痛みが和らいできた手を一撫でし、陽琳は小さくため息をついた。

(うまくいくと思ったんだけどな……)

 今日こそはという望みは儚くついえた。現実は厳しいものだ。

 願望と現実が異なることなどわかってはいるものの、期待はいつもふくらむ。

 陽琳は肩を落とした。

「それはともかく、陽琳様。そろそろ通学のお時間ですよ。早くお支度を」

 更なる現実を突きつけてくる家令の言葉に、陽琳はげんなりとした表情を浮かべた。

「じ、実は、今日は珍しく早起きしたせいで、物凄く眠いのよね。今日はお休みっていうことにさせてもらえないかしら……?」

「ご自身の趣味で起きておられたのでしょう?」

「えーっと、じゃあ……そうだわ。実は昨日から喉の調子が悪くて……」

「先ほどまで元気に叫んでらっしゃいましたが?」

「……」

「……」

 二人の間に流れる、沈黙。

「逃げるが勝ち!」

 その直後、陽琳は突如踵を返して走り始めた。

 ――が、

 紫晃が振り上げた右袖から、先端にひょうの付いた鉄鎖が飛び出し、陽琳の腰に巻き付いたかと思うと、あれよという間にぐるぐる巻きにされてしまった。

「ぎゃあああああっ!」

 年頃の乙女には似つかわしくない声で叫んだ陽琳に、紫晃がにこりと微笑んだ。

「私を前にして逃げ出そうなど、百年早いですよ」

「うううっ……」

 紫晃の器用な手つきによって、がんじがらめになった鎖から解放されながら、陽琳が頬を膨らませた。

「暗器を使うなんて卑怯よっ。これじゃ絶対逃げられないじゃない」

「私にとっては願ったり叶ったりですが?」

「ま、まさか、そのためにわざわざ習得したってこと……⁉」

「もちろんです。……というのは冗談で、護身用ですよ。私にはお仕えする皆様をお守りする義務がありますから」

 すました様子で嘯く紫晃の「完璧なる家令」っぷりに、陽琳は地団太を踏んだ。

「いつか絶対に、出し抜いてやるんだから!」

 そんな陽琳にも紫晃は顔色一つ変えず、涼やかに言った。

「おや。それは残念ですね。先日皇宮で摩訶不思議な怪談話を一つ仕入れたので、陽琳様が勉強を頑張られるようでしたら、教えて差し上げようと思っていたのですが」

 普通の年頃の娘がこのようなことを言われても心は動くまい。

しかし、仙人を志す陽琳は違った。

「な、何ですって⁉ それならそうと言ってちょうだい! 皇宮でも何でも、どこにでも飛んでいくわ!」

 飛び跳ねて訴える陽琳を見て、紫晃はふっと微笑んだ。

「ならば、準備を整えてください」

「はいっ!」

「すぐ行動!」

「は、はいいいいいっっ!」

 紫晃の号令を聞くなり、陽琳は自室に向けて一目散に走りだした。

 ――そんな場面に運悪くも足を踏み入れた庭師は、しまったとばかりに踵を返すが、同じく居合わせた新米の使用人が不思議そうに首を傾げ呟いた。

「ここのお嬢様、大丈夫ですか? 仙人なんて架空の存在だというのに、奇妙なことばかりなさって……。やはり、残念公主という噂は本当だったのですね」

だが、庭師が「馬鹿! お前!」と血相を変えたその瞬間――突如飛んできた鉄針が使用人の足元に鋭く突き刺さった。

「ひいっ⁉」

「……おや、私としたことが、虫を狙ったつもりだったのですが、手が滑ってしまいましたね……。陽琳様の悪口を言う下賤な虫の声がしたのは気のせいでしょうか」

 冷ややかな声音で言い放った紫晃の凍り付くような視線に、使用人達は蒼白となり、慌ててその場から駆け去った。

 このような光景は、この邸内では日常茶飯事なのであった。

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