第一章 まだキスも知らず③




「ごきげんよう、リーデリアお姉さま」


 通路の陰からリディの前に躍り出た異母妹は、ドレスの裾を持ち上げ、あくまで品よく会釈した。


 十年前、レオンとリーデリアの母である正妃クローディアが亡くなった。

 その後を継いだのが第二王妃のジュリアンヌ。

 エルヴィラは彼女の娘で、第二王女だ。


 一つ年下のこの異母妹は、何かにつけ――主にリディが魔法が使えないことで――言いがかりをつけてくる。

 シアラが言うには、エルヴィラはレオンに一方ならぬ憧れを抱いているから、可愛がられているリディが面白くない、ということらしい。


 着る人を選ぶ、個性的な深紅のドレス。

 純白の羽根をあしらった金と赤の豪勢な帽子。

 自分ならば絶対に選ばない華やかな衣装を身に纏ったエルヴィラが、長い髪を揺らしながら射るような視線を向けてくる。

 大勢の侍女たちが、彼女の後ろに付き従って通路を埋めていた。


 ――ここを抜ければ、もうお兄様の部屋なのに。


 できる限り平静を装って、リディはエルヴィラを見やった。


「ごきげんよう、エルヴィラ。何の用かしら」

「そんなに焦らなくても、お話はすぐ終わりますわ。お姉さま、今夜わたくしと一緒に仮面舞踏会へ参りません?」

「私が……?」


 思わず聞き返した。

 エルヴィラが自分と出掛けたがるなんてありえない。


 ――しかも私が式典以外の行事にほとんど出席しないのを、知っているのに……。


 エルヴィラは再び扇を開いて顔を半分隠すと、ずいと身を乗り出した。


「実は、お母さまがわたくし一人の外出を許してくださらなかったの。最近、夜会でうら若い貴族の娘が人攫いに遭う事件が起きておりますでしょう?」

「お兄様も、その調査をしていらっしゃるわね」

「そう。まだ犯人が逮捕されていなくて――でも、今日は四月一日。春祭りですもの。ノーラン大蔵卿が開催される仮面舞踏会は一際盛大と聞いるし、わたくしどうしても遊びに行きたいんですの。だからお姉さま、いいでしょう?」

「……他の人を探したら? 侍女をたくさん連れて行くとか」

「だめよ。侍女たちは信用がないもの。わたくしを止められないからですって」


 それはそうだろうと、リディは義母の胸中を察して内心で同情のため息を吐いた。

 派手好きであちこちの夜会に顔を出しては問題を起こす娘を、正妃も扱いかねているのだ。


「つまり、私はお目付け役ということかしら」

「ええ、そう。お姉さまはわたくしのおまけなの」


 少しも悪びれることなく、エルヴィラが声を上げて笑う。


「お姉さまが一緒なら、きっとお母様も納得してくださるわ。お姉さまは、わたくしと違って遅くまで遊び歩くことはありませんもの。何せ〈飴色の賢者〉さまでいらっしゃるから」


 エルヴィラの言葉に、通路中に広がっている侍女たちがクスクスと笑い合う。

 ますます、できることなら何としても断りたかった。


 身分も正体も明かさずに済むのをいいことに、仮面舞踏会では皆、大胆な行動に出る。

 一時の恋を楽しみたいだけの多情な男たちなら尚更だ。

 彼らに近づかれることを想像しただけで、リディの背筋にぞくっと冷たいものが走った。


 返事に窮したリディは、レオンの部屋の方へちらりと目を向ける。

 その途端、エルヴィラに手を素早く掴まれた。

 笑顔を浮かべているのに、目はちっとも笑っていない。


 ――お兄様には、黙っておけということね……。


 確かに、仮面舞踏会に行くなどと言えば、着飾ったリディをろくでもない男たちの目に晒すなんてと、レオンは断固反対するだろう。


 けれど、あの兄に黙って出かけるのは物凄く気乗りがしない。

 一度、リディが内緒で街へ本を買いに出た際に、宮殿を挙げての大捜索になってしまったからだ。


 レオンに黙って仮面舞踏会に行くのは、二重の憂鬱だ。


 ――でも、ここで押し問答をすれば、お兄様との貴重な時間が。


 これ以上、兄を待たせるわけにはいかない。


 一緒に食事をして喜ぶ兄の顔を思い浮かべながら、リディはため息を呑み込んで頷いた。


「……わかったわ。その代わり、日が変わる前に帰るわよ」

「ありがとう、それでこそお姉さまですわ。では、わたくしはこれで」


 エルヴィラは、もう用は済んだとばかりにリディの横をすり抜けた。

 通路を塞いでいた侍女たちも、静々とその後に続く。


 やけに大人しい。

 もうひと押し、嫌がらせをしてくるかと思ったのに。


 リディはとっさに、その後ろ姿に呼びかける。


「エルヴィラ、どうしてその仮面舞踏会に? 盛大な夜会なら他にも――」

「だって、仮面舞踏会なら王女の身分を隠せますもの」


 エルヴィラが背を向けたまま答える。長い黒髪がさらりと揺れた。


「お姉さまだって、王女の重責を脱ぎ去って、少しは羽を伸ばしたいんじゃなくって?」

「私は――」


 そんなことはない。


 その言葉が、何故かくっと喉につかえた。


「――きっと、とっても楽しい舞踏会になりますわ」


 エルヴィラの満足げな高笑いが遠ざかっていく。

 その姿が角の向こうへ消えたのを見届けると、リディは息を吐いた。

 これでレオンの部屋に行ける。


 ――でも、面倒な約束をしてしまったわ……。


 がっくりと落とした肩に、突然とんと手を置かれてその場で跳び上がった。


 ――今度は誰っ!?


 顔を引きつらせながら振り向く。

 背後の人物を認めて、しまったと思ったがもう遅い。


〈紅焔の王子〉というあだ名とは微塵も結びつかない温和な表情で、涼やかな美貌の兄が立っていた。

 王太子特有の白地に金刺繍の入ったジャケットに、父親譲りの漆黒の髪が映えるその姿は、まさに美丈夫と呼んで差し支えない佇まいだ。


「……どうかしたのか? そんなに驚いた顔をして」


 レオンは問うように、微かに朱の入った黒色の瞳を見開く。

 リディは通路の角を盗み見たが、当然ながらエルヴィラの姿はもうそこにはない。


「――その」


 何と言って誤魔化そう――いっそ、全てを話してしまおうか。


 そうすれば、レオンは間違いなく自分を引き留めてくれる。

 仮面舞踏会には行かずに済むし、黙ってリディを連れ出そうとしたエルヴィラがレオンに叱られて――。


 その後で、異母妹に一体どんな仕打ちをされるだろう。


 不毛な堂々巡りになるだけだ。


 ――ごめんなさい、お兄様。今日だけだから。


「少し驚いただけ。まさか、迎えに来てくださるとは思わなかったから」

「すまない。いつまで経っても来ないから、待ち切れなかったんだ」


 説明に納得したのか、楽し気にレオンはリディの手を取った。自分の腕にその手を乗せて、リディを先導するように自室へと誘う。


「行こう。せっかくの時間がなくなる前に」

「――ええ」


 リディは申し訳ない気持ちを誤魔化すように、優しく兄に寄り添う。

 背後から、同情するようなシアラのため息がリディの耳に届いた。

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