愛の喜びの悲しみ

沓屋南実(クツヤナミ)

なぜか旅は喧嘩しやすい?

 初夏の午後である。地中海の陽射しのまぶしさに、目を細めて海の向こうを見つめる客たちが、出港を待っていた。

 クルーズの豪華客船の中ほどにあるラウンジ。初老のイタリア人支配人は、むっつりした顔でテーブルに向かい合って座る一組の夫婦を気にした。 これから旅がはじまるのに、来るだけで疲れてしまったのだろうか。

 しかし、年はまだ四十代半ばといったところ、ほかの日本人客に比べてかなり若い。日本からやってきたツアーのメンバーであろうから、遠路はるばる楽しみにやってきたはずだ。実はこのふたりは、結婚二十周年の記念の旅でここにいるのである。それを知ったら支配人はさぞかし、残念な顔をするだろう。 


 ふたりは半時ほどまえに、ベランダ付きの地中海を見渡せる素晴らしい部屋で荷物をほどき終えていた。夫の名は渡辺椋介、妻は秋穗と言い、晴れやかな南欧の青空とは反対に、暗雲たれこめてここだけは今にも雨が降りそうな雰囲気だ。

 このラウンジは、吹き抜けのある広い空間であり、一段高い部分が小さな舞台になっている。そこに、グランドピアノが堂々と真ん中を占め、周りに椅子や譜面台などが並べられていた。

 秋穗はそれを眺めながら、不愉快な気分がありながらも、どんな曲が演奏されるのだろうと考えた。クラシックファンと言いきれるほどではないが、友だちから勧められた楽曲を、たとえば、休日のブランチや夕食後にゆっくり飲むときなど、テレビでこれといって見たいものがないときなどに流していたから、多少の関心はあるといったところ。

 椋介の頭のなかは、険悪になったできごとを再現していた。妻に向かって言ってしまったことに、後悔しているのだ。口に出たことばを拾い集めてのどの奥にしまいこみたいと思ったが、後の祭りである。

 客室のクローゼットのハンガーに服をかけ終えると、妻がこの旅行のパーティのためのドレスを着て見せた。日本人としては平均的な身長で丸顔、四十も過ぎて脂肪がつきやすくなったが、メリハリのある女性らしい体つきをしている。その妻が、クローゼットの影からパッと明るい緑のミモレ丈のドレス姿で現れたとき、彼は片付けようと手にした本を、あやうく落とすところだった。

「あなた、どう? いいでしょ」

 椋介は普段とは違う姿に不意打ちをくらって驚いたのだが、一呼吸置くと何事もないように言った。

「その服は何だ。何か上に羽織れ」

 体のラインを強調しすぎると、夫は思ったのだ。妻は期待外れの反応に、笑みが消えた。

「色といい、デザインといい、おまえが着るとまるでヒキガエルだ」

 ヒキガエル、ということばに秋穗は固まった。しかし、夫は鮮やかな緑色のドレスの色に、アマガエルを連想したのだが言い間違えてしまった。妻の体のラインを美しく見せていると感じた。毎日一緒にいて見慣れている妻の、生身の女としての魅力が前に出すぎて当惑し、つまりは、そんな彼女を人目にさらさねばならないことに落ち着かない気分に陥っていたのだ。

 褒め上手な男なら「今日の君はとても素敵だ」と言うだろう、「似合っている」が無理でも「良い感じだ」とかぐらい言えたはず。否、言葉はなしでうなずく程度のことはするべきだった。

 それなのに、ふだんから褒める習慣のない男が、無理に何か言わねばと思ったところが、心にもないこと、しかも言い間違えまでしてしまったのである。

 秋穗は失望して「ひどい」と一言もらし、そしてため息をついた。目にはじんわり涙が浮かんできた。せっかく母と一緒に旅行のための買い物に行き、選んだドレスだというのに。すっきり着こなしたいと、緩んできたお腹を引き締めるべくダイエットにも励んだのだ。

 

 ラウンジの舞台には、演奏者らしいドレスの女性と、スーツを着た男性が譜面台に楽譜を置いて演奏の準備をはじめた。

 結婚二十周年の記念旅行に来ているふたりは、まだ黙ったままだ。 

 こんなときいつも先に妻が声をかけるので、涼介はそれをただ待っていた。後悔していたにもかかわらず、しかし謝ろうとはしなかった。

 テーブルをはさんで向かいに座る、木綿のリゾートウエアに着替えた妻をチラリと見た。こうしてふたりでまとまった時間を海外で過ごすのは、新婚旅行以降はじめてのこと。

 ふたりの子どもに恵まれ、仕事もまずまず順調にきている。秋穗は当たり前に家事や育児をしっかりこなしていた。料理はそれほど好きではなさそうだが、それでもテレビや雑誌で見つけたレシピを作るなど、工夫をしてくれた。また、家のなかのものの整理も上手だった。出してほしいものを言えば、秋穗はすぐに出してくる。

 そんな妻のおかげで、椋介は家での煩わしいことは何もなく仕事のことだけ考えいればいいのだ。その上、秋穗は幼稚園や学校のさまざまな活動にも声がかかれば断らずに出かけていた。人付き合いが苦ではなく、彼女の実家も近いため子どもを安心して預けられるということもあったが、寛容で責任感の強い人柄がそうさせたのだろう。

 秋穗は秋穗で、まじめで働き者の夫がいて、元気な両親が近くにいてこんなに恵まれた人生はない、と思っている。今回の旅行にしても、子どもたちを彼女の両親が預かってくれるからこそ叶ったようなものだ。秋穗は今の生活に満足している、これからもつつがなく日々が過ぎていけば十分なのだ。

 口のうまくない夫に対しても、気の利いたことを言ってほしいと期待していたわけではない。ただ、今回は特別な機会なのだ。そして少しだけロマンティックに過ごしたいというのに、どうしてぶち壊しにするのだろう?

 きっと夫は謝らない。悪気はないけれど、これまでずっとそうだった。謝れば簡単なのに、そうしないがために長々と引きずるばかりだが、それを言ったところで仕方がないので、秋穗はそれでよしとしてきたのである。 

 これまでは、意見の相違や誤解で空気が悪くなったとしても、その後は生活が流れていくなかで、何となく普通の会話に戻っていた。椋介は会社があるし、秋穗は秋穗でまだ子どもにも手がかかるし、その関係でさまざまな係を受け持っているので思いのほか忙しい。それがかえってよく、顔を合わせない間に相手へのイライラした気持ちは収まっていく。人間、怒りにもエネルギーが必要で、持続するのも大変なのだ。それに、多くは考え方のちょっとした違いで、たぶん誰かに相談したらどっちでも大丈夫でしょう、で終わってしまうようなことだ。 

 旅行前の一週間ほどは、大小さまざま用事をぎゅっとまとめて片付けるのも、大変だったのだ。愛知県の南に位置する知多半島沖の中部国際空港からベネチアまで、遠路はるばるやって来きて、やっと何もしなくてよい時間があるというのに。もったいなくて、仕方がない。けれども秋穗は、今回だけはやはり夫が良くないと思った。

 椋介は椋介で、空気を変えたいがそれができずに明らかに困っていた。席を立ってひとり右舷のデッキに出てみるが、虚しいばかり。仲良く会話する何組かの夫婦や友達同士を見てさらに落ち込んだ。

 謝ればいいんだろうな、本当は。彼も今回ばかりは自分が悪いと認めている。しかし、ふだん謝り慣れていない彼には高い高いハードルのようだ。さて、どうしたものか……。




 

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