第7話 正体

 私は檻の外に引っ張り出されたとき同様、青年の手に引かれ、今度は門の内側に入った。背後でガシャンと門が閉まる。その音に、まるで私の逃げ道を断たれたかのような感覚に陥った。

 青年は付いてくる選択をした私に満足そうに微笑み、再び歩き始めた。彼と手を繋いでいる私も、それに合わせて進む。緑の垣根、赤やピンクの花々、それら美しいものに囲まれたベージュの石の道を踏み締め、古びてうら寂しい洋館の入り口に立つ。重そうな扉が目の前に立ちはだかった。私は心の準備をするために深呼吸をしようとしたが、それが終わる前に青年が躊躇いもなくガコンと扉を開けてしまった。あ、と思ったときには、青年に手を引かれて中に入っていた。

 赤い絨毯、大きなシャンデリア、広いホールは初めて入った宿と同じ。だがエレベーターではなく大きな階段が目の前にあり、その階段を上がった先は廊下が左右に分かれ、それぞれ洋館のさらに奥へと続いている。今いる1階は目の前の階段の奥に扉が二つ、ある程度の距離を持って並んでおり、ホールの左右にも扉がくっついていた。そこまで私が確認したところで、ちょうど今見たホールの右側に備え付けられている扉がキィ、と開く音がした。私は緊張していることもあって飛び上がるほど驚き、未知の生き物が住んでいるであろうこの洋館から、一体何が来るのだろうかと身構えた。

「こんにちは、大黒おおぐろさん」

 高くて落ち着いた女性の声がした。青年を盾にしてなおかつ自分の腕で頭をかばうようにしていた私は、それに拍子抜けして警戒を解き、顔を上げた。

 黒だ、というのが私の最初の印象だった。私たちに声をかけたその人物は、黒いワンピースドレスに黒いタイツ、黒い靴を履き、左右に三つ編みにした髪にも、丸い眼鏡の奥に見える瞳にも黒を持つ少女だった。少女といっても私よりはずいぶん年上で、おそらく14,5歳だろう。その少女は静かに微笑みながら私たちを見つめ、しずしずとしとやかに近づいてきた。………私の鋭い聴覚をもってしても、少女の足音が聞こえない。

「こんにちは、純子すみこさん。お変わりありませんか?」

 しかし、青年は私の心中と裏腹に明るい声で少女と挨拶をして、まったく警戒を見せなかった。少女も穏やかな表情を崩さず、おかげさまで、と応じる。

「時間ピッタリのお越しでしたね。おそらく蓮太郎れんたろうさんはまだ寝ていると思いますので、起こしてきます」

「ああ、彼は今が就寝時間ですからね。悪いけど、そうしてもらえますか」

「はい。えにしさんと雪那ゆきなさんはもうリビングにいらっしゃるので、お先に行ってらして下さい」

「そうさせてもらいます」

 青年―――先ほど大黒さんと名前が判明した彼は少女・純子と、私には分からない言語で話をし、純子のほうは軽く頭を下げてもと来た方へと去っていく。扉を閉める直前、私と目が合った純子は目を細めて穏やかに笑み、静かに向こう側へと消えていった。純子は足音もしないし、近づいてきても気配を感じない、少し脅威に思えるほどの存在だが、何故か私はその笑顔を見て彼女を信用できると感じた。穏やかに微笑むのは大黒さんも同じだが、彼のそれは何を考えているか掴めないもので、こちらが穏やかな気持ちになったことはない。しかし、私は純子の笑顔を見たとき、ふっと緊張がとけ、警戒心がなくなっていった。何故か彼女の中に優しいものを感じたのだ。理由は分からない。

 そうして少し落ち着いた私の手を、再び大黒さんが握った。

「行こうか。ここに住んでいる人たちに会わせてあげよう」

 今度は気構えずに私は頷いた。二人一緒に歩き出す。階段を通り過ぎて、奥にある二つの扉のうち右側の方へと向かう。大黒さんがまた、躊躇いもなく扉を開いた。

 その部屋はアンティーク調のソファー、テーブル、その他もろもろの家具や暖炉によって歴史と高級感を感じる空間になっていたが、テレビがひとつ置いてあることで妙な生活臭が漂っていた。先ほど純子がリビングと言っていたから、ここは住人たちがよく使っているのだろう。その証拠に、ソファーに腰掛けている一人と一匹は勝手知ったる様子で寛いでいた。

「お待たせしました」

 大黒さんは部屋に入るなり一人と一匹にそう声をかけ、それに応じて彼らも振り返った。青い瞳が二つと、黄金の瞳が二つ、私を射抜く。

「よう、久しぶりだな」

 最初に声を発したのは黄金の瞳を持つ一匹のほうだった。渋い男の声だ。と、認識した私は、そもそも動物は言葉を話すだろうかと根本的な疑問を持った。彼は、長いオレンジの毛がふさふさした猫だったのだ。渋い声の猫は高級そうなソファーのひとつに伏せって寛いでいたが、私たちに声をかけながら身を起こして座った状態になった。ふらりと機嫌良く振られた尻尾は、二つ生えていた。

「お久しぶりです、兄さん」

 大黒さんがオレンジの猫に向かって驚きの事実を言う。しかし、このときの私はまだ日本語が分からなかったので、この二人が兄弟、しかも猫のほうが兄!? という衝撃は受けなかった。故に、尻尾が二つある猫なんているのかと、ふらふら揺れるそれを眺めていた。

「変わりはねぇようだな。お袋は元気か?」

「ええ。相変わらず、あちこち飛び回っていますよ。この間、兄さんのお父さんにも会いに行ったらしいですね」

「ああ。親父のやつ、かなり喜んでたぞ。別れた今も惚れてるって公言してるからなぁ。お前の親父と一緒になったって聞いたときの落ち込み様は、今でもはっきり覚えてるぜ」

「今は私の父とも別れてフリーですから、チャンスですよ」

「親父もそう言ってすげー意気込んでたよ」

 私が言葉を理解していたら、この二人が異父兄弟であることと他にも色々とお家の事情が知れたのだが、私は相変わらずふらふら揺れる二つの尻尾に夢中だった。

「なあ、大黒さん」

 兄弟の会話と私の尻尾への視線を遮ったのは、この場にいるもう一人の存在、青い瞳をもつ人物だった。私は新たな人物の声が聞こえたことでそちらに目を向ける。二十歳前の若い男性、こちらは少なくとも外見は人だった。柔らかそうな金髪と、絵画の中の天使が成長したらこうなるだろうと予想できるような愛らしい美貌。座っている体躯から想像できる小柄な身長も、その愛らしさを引き立たせることに一役買っていた。もし私が人並みの感覚を持っている女の子だったら、その美貌にうっとりと見惚れていただろう。しかし、先ほどかけられた青年の声はぶっきらぼうな印象を与える声音で、表情も微かに眉値を寄せていることから、彼のせっかくの愛らしさは幾分か損なわれていた。

「あんた、確か今日は新しい住人を連れてくるって言ってたよな。まさかそのガキじゃないよな?」

「ああ、そうそう。紹介しなければいけませんね」

 愛らしい青年の不機嫌さに気づかないように明るくそう言って、大黒さんが私の背に軽く触れる。言葉は分からないが、私のことを話しているのはそれで分かった。

「この子が新しい住人です。ずっと屋内にいる生活を送っていたので色々と知らないことが多くありますが、少しずつ教えていってください」

「はあ!? 本気で言ってるのか、あんた」

 愛らしい青年が大黒さんの言葉に語気を荒げた。私は何を話しているのかと青年と大黒さんを交互に見つめ、キョトンとするしかない。

「こんなガキに仕事ができるのか? 足引っ張って面倒なことになったらどうするんだよ。それに、何にも喋らないし、表情もないし、こんな蓮太郎みたいなやつが増えるのは御免だ」

「最後のが本音だろ」

「うるさい」

 オレンジの猫が言ったことに青年がそっぽを向いて答える。

「喋らないのも表情があまりないのも、ずっと人と接してこなかったからですよ。それにこの子は日本語が分かりませんし」

「それでどうやって意思疏通を図るんだよ。やっぱり俺たちと仕事するなんて無理だろ」

「仕事は今すぐ始めるわけではありません。雪那さんの仰る通り、さすがに意思疏通ができなければ仕事はできませんからね。まあ、まだ幼いですし、言葉はそのうち覚えるでしょう」

 青年・雪那が何を言っても、大黒さんはにこやかに答え続ける。噛みつく相手に対する態度としてはいっそ怖いくらいの穏やかさだと私は思ったが、青年はその怖さを感じないのか、なおも言葉を続ける。

「そもそも言葉云々の前に、ガキが役に立つとも思えないんだけどな」

「それについては大丈夫でしょう。この子は……」

 と、そのとき、大黒さんの言葉を遮るように私たちが入ってきた背後の扉が開き、二人の人物が姿を現した。後ろにいるのは純子だが、もう一人、扉を開けた人物は新顔だ。扉の上に頭をぶつけてしまうのではないかと思えるほどの長身に、細身だがしっかりと筋肉がついている男性。頭痛を耐えるように顔を俯け、額に手を当てているのでその容貌は見えず、ただ黒髪が艶やかなことだけが分かる。

「ああ蓮太郎さん、おはようございます。お休みのところお呼び立てして申し訳ありません。純子さんも、ありがとうございました」

 大黒さんが蓮太郎と呼んだ男性に挨拶し、彼を起こしてきた純子に礼を言う。純子はいいえ、と微笑みながら応じたが、蓮太郎は俯いたまま低く唸って答えた。それから額に当てた手を離し、気だるげに顔を上げた。

 顔の美醜が判断できない私でも、彼の顔は思わず美しいと思ってしまった。職人の手によって作られた人形のように端正な顔立ちと、滴るような男の色気を持つ、二十代半ばほどの男性。それが蓮太郎という人物だった。ただ、陶器のように血の気がなく真っ白な肌と、赤黒い瞳のコントラストが恐怖に似た感情を私に呼び起こさせた。しかし、蓮太郎が私に視線を合わせると、逃げるべきだという警告が頭で鳴るのに引き込まれたように動けないという奇妙な現象に見舞われ、体が硬直した。

 その硬直を解いたのは、ぽん、と両肩に置かれた手の感触だった。私はハッとして手を乗せた人物を見上げる。大黒さんがニコニコして蓮太郎と純子を見ていた。

「今ちょうど、この子が新しい住人だと紹介していたんです。ずっと屋内にいて外のことはあまり知りませんし、日本語も話せないですけど、どうかよろしくお願いします」

 大黒さんが雪那に反感を買った紹介を一息で言い切った。私は雰囲気で自分のことを話しているのだと分かったので、また反発されるのではないかと二人の反応を伺った。

 しかし、返ってきたのは、

「はい、よろしくお願いします」

「………ああ」

 という、純子の柔らかな肯定と、蓮太郎の腹に響く低音だけだった。

 あれ、終わり? と私は首をかしげたのだが、それを思ったのは雪那も同じだったらしい。

「お前ら、それで終わりか! 良いのかよ、ガキ住まわせるなんて」

「はい、楽しくなりそうですね。それに、女性は私ひとりだけだったので、女の子が増えるのは嬉しいです」

 純子がニコニコしながら雪那に答える。一方の蓮太郎はまた「………ああ」とだけ答えた。すると、先の発言から蓮太郎が嫌いだと思われる雪那が、怒りの矛先を彼に向けた。

「だーっ! お前はまともな言葉を喋れ! どう思うのかって聞いてんだろ!」

 ついに雪那が立ち上がり、蓮太郎に指を突きつけながら怒鳴る。私は愛らしい外見の彼が沸点の低い行動をとることを、意外な思いで傍観していた。しかし当の蓮太郎は、怒鳴られてもどこ吹く風、我関せずといった態度で、今度は無言を貫いた。

「まあまあ、そんなカッカすんなって、雪那」

 蓮太郎の態度にさらに腹を立て、雪那が再び食いかかろうとしたとき、オレンジの猫が止めに入った。二つの尻尾はまだふらふらと揺れていて、その余裕を表すように顔にも笑みを浮かべている。猫なのでおそらく、もともとの顔が笑っているように見えるのだろうが。

「蓮太郎に当たるのは違ぇだろ? 喧嘩するほどなんとやらとも言うけどよ」

「違う! 縁、お前毎日どこ見てたんだよ!」

「ありのままを見てるがな。ま、そんなことより、だ」

 縁と呼ばれたオレンジ猫が、ひたと雪那を見つめる。

「こいつが連れてきたってことは、そこのお嬢ちゃんがただの人間なんてことはねぇって分かってんだろ? もちろん、そこらに蔓延ってる闇の世界の住人に成り損ねたチンピラとも違う。な?」

 縁が大黒さんを顎で示しながら雪那に言い、最後に大黒さんに問いかける。大黒さんは嬉しそうに頷いた。

「ええ、もちろん」

「じゃあ、そのガキは何なんだよ?」

 雪那がブスッとして尋ねると、大黒さんが待ってましたとばかりに笑みを深めた。再び私の肩に手を置く。

「この子は狼人間です」

 キョトンと大黒さんを見上げる私がその事実を知るのは、もう少し後の話。

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