6 タクシーから見る景色は

「まだ水曜か」

 Excelをいじりながら、夜7時に独り言。


 水曜が週の折り返しなんて思っちゃいけない。週後半の方が体力の削られ方が大きいので、木曜の午前くらいが折り返しと思っておくと一番良い。俺が3年半の社会人生活で得た豆知識。ってことは、今日の夜が一番しんどいってことだな……。


 と、逸見さんがフラフラ歩いていた。普段あまり歩き回ってないので、逆に目立つな。ストライプの入ったグレーのスーツに薄いパープルのシャツ、赤のネクタイ。シンプルだけど、白髪とのコントラストが妙にカッコいい。


「いたいた。唐木さん」

 あ、俺に用事だったんですね。


「明後日金曜日さ、午後に打ち合わせ入れてたでしょ? ちょっと別件でどうしても外に出なきゃ行けなくてさ。悪いんだけど、明日の朝イチにしてくれない?」

「わかりました。じゃあ会議リスケしておきますね」

「悪いね、よろしく」


 去っていった後、スマートに会議召集のページを開き、スムーズにスケジュールを変更する。そして、脳内で呻く。


 明後日午後のつもりだったのに、明日朝イチだってええぇぇぇ! そんな無茶な!

 いや、やりますよ、やりますけどね。でも絶対早く帰れないヤツじゃん!


「ふう……」

 脳内の俺が一通りジタバタしてハンカチ噛んだ後で、深呼吸して気持ちを整える。


 プロジェクトマネージャーに電話をして、「緊急で打ち合わせお願いします」と告げた。





「で、と……報酬シミュレーションの方なんだけどね」

 金森さんの声が、俺の耳横を通ってガラスにぶつかる。ひょっとしたらそこにペタリと張り付いて、真っ暗な夜空を眺めているかもしれない。



 フロア両脇、いつも使っているガラス張りの会議室。まもなく5月下旬というこの時期、昼間は日当たりも良いし会議室の場所によってはスカイツリーなんかも見えるけど、今はほとんど何も見えない。

 近くのビルの屋上に航空障害灯が赤く光っているのと、他のビルで僅かに電気がついている程度。


 PCの右下、時計を見ると、23:35という数字が見えた。かれこれ3時間は打ち合わせしている。


 世間が残業規制を強める中で、「時間の制限なく働ける自由」があるのはひょっとしたら悪くないのかもしれない。

 でもね、あのね、やりすぎ。この時刻は本来、漫画とかアニメに没頭してて「そろそろお風呂入ろうかな」とか迷いだす時間なんじゃないでしょうか。



「将来の人件費を幾つかのパターンで見せてあげたいんだよね」

「あの、でも今も変数を幾つか使って、変数変えれば自動で変わるようになってますよね?」

「ああ、そういうことじゃなくてね」

 金森さんが軽く首を振る。「違うんだな」と、黒縁の眼鏡の奥が少し光った気がした。


「同じ変数で複数のパターンを見せたいんだよ。シミュレーションのファイルをコピーして、別の設定をすれば、複数見せられるでしょ?」

「ああ、そういうことですね。どういう条件ですか?」

「どういう条件だと思う?」

 まさかの逆質問! これは難しい。


「えっと…………」

 時間も時間だし、なかなか頭が働かない。でも、こういうときもパッと閃いてサッとまとめて話せる人もいるんだよなあ。すごいよホント。こんなこと考えてるから閃かないんだよ!


 まとまらないで深夜の冷蔵庫のように唸っていると、金森さんが「あのね」と切り出した。


「プロジェクト全体を見ないとダメだよ。今回お客さんは、『このままじゃ人件費が上昇しそうだ』って不安になってるんでしょ? だから、今より人件費を下げる分岐パターンを作ってあげた方がいいんだよ」

「あっ、そうか」


 言われてみれば、確かにその通りだ。でも、それを思いつくだけの視野と深堀りが、まだ出来ないでいる。ううん、その発想はなかった。


「今のものを標準として、自分は追加で3パターン考えてるんだけどね」

 え、応用編3パターンも考えてるの。スゴすぎんですけど。


「一つは、評価が低い場合の昇給を0にする。もう一つは、定年再雇用の社員の給与を半分にする。これは方針未定だけどね。で、最後にその2つを両方やるパターン。こうやって4パターン作れば、総額人件費が4パターン出るでしょ」

 台詞のようにスラスラと話すのを、メモ帳に急いで書き留める。


「そうですね。毎年の金額が変わるから、10年の総計額も変わりますね」

「そう、それを明日のミーティングでグラフで出してほしい。ここでやっていくならタクシー使っていいからね」

「分かりました」

 こうして、長い長い長い会議が終わった。





「……うしっ!」

 いつもより強めにエンターキーを押す。グラフもなんとか作成して、急ごしらえで明日の準備終了。


 画面の右下。0:56という信じられない文字が浮かんでいる。そしてもっと信じられないことに、まだオフィスには何人も社員がいる。大学のサークル部屋かよ。



「すみません、大崎まで」

 オフィスの前でタクシーを拾う。「ルートはどうしますか?」と聞いてきた人の良さそうな運転手さんに「お任せします」と答えて、車は動き出した。



 利益率なんかの関係で経費が潤沢に使えるプロジェクトであれば、タクシー帰りも許容範囲。今日は終わらせてから帰りたかったから、使えて良かった。



 ふう、と深く息を吐いて、窓の外を見る。PCも開かず、スマホで曲も聴かず、SNSも見ず、車のライトと工事現場の看板、そして信号の灯りだけが光る街並みを眺めるのが好き。


 そして、その光を見ながらエンジン音をBGMに、帰ってからどうやって過ごすかを考えるのが、たまらなく好き。


 歯を磨きながら録画したバラエティーを15分見よう、お風呂に入りながらあの曲を聴こうか、寝る前にあの本を読むぞ。


 時間が極限まで足りないからこそ、残りの時間をどこまで有意義に使えるかの勝負。「一日仕事だけしてた……」で終わりたくない。ちょっとしたゲームみたいな感じだ。



「そこの信号前で停めて下さい」

「はい。えっと……3760円です」

「カードで」


 自宅前。運転手さんがカードの手続きをしてる間に、友人のSNSの返信を済ませる。あとは、会社からのメールチェックして、明日の天気を調べて、やりたいこと3つ終わり。ちょうどレシートが出てきたので、もらったペンでサインをする。


「ありがとうございました」

 挨拶は忘れない。言わなくてもいいのかもしれないけど、大した手間をかけずに相手が喜んでくれるなら、やるにこしたことはないだろう、ということ。



「んじゃ、お風呂から行きますかね」

 肩と腰が悲鳴をあげてるけど、家に帰ってからも仕事のように動く。

 多分それが、今日1日を少しだけ、悔いのないものにしてくれる。

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