第8話 菜摘8 最澄とは?

どうして人は、自分の思うようには生きられないのだろう?

 

時が経つのも忘れて滝に打たれながら、真魚は思った。

 目を開けて手をかざしてみると、手のひらに水が溜まる。

 

この水も冬には凍ってつららとなり、春には溶けて河を流れ、麓の村の田畑を潤してくれる。

 そして、梅雨の頃には大雨となって洪水を起こし、人びとの暮らしに牙を剥く…。

 

刻一刻と変わる存在。人のこころもおんなじや。

 

真魚が山岳修行に入って四年過ぎた延暦十六年(797年)秋、

 

人が苦しむのは、「こころ」があるからや。

と思うようになってきた。

 

好き合って夫婦(めおと)になった男女が数年暮らすと、情が干からび、剣呑な暮らしになってしまう。

 長く付き合っていた友が自分より恵まれているのを見ると、嫉妬でもだえ苦しみ憎悪さえする。

 

情愛が一瞬にして殺意になるほど、人のこころは変わりやすい。

 

男女、年齢、貴賤の差別なくこころは誰しも持っているもの。その苦しみから解放されるには…と考えかけた所で、

 

おーい!と崖の上から呼びかける声がした。

 

「精が出るこっちゃなー」と勤操がにやにやしながらこちらを見下ろしている。

 

「勤操はん!」と真魚は手を振り、爪先で飛ぶように崖を上ると濡れた白衣を脱ぎ、手早く体を拭いて僧服に着替えた。

 勤操は食糧の入った荷車を驢馬に引かせて真魚と並んで歩いた。

 

わしがこの崖から真魚を蹴落として四年…色白で頼りなかった真魚が、今では見違えるほど逞しくなったものよ!

 年がら年中山をほっつき歩いているせいか小柄な体躯のうちにはみっしりと筋肉が付き、わしを追い越す程脚も速くなった。

 

顔つきも、頼もしさを通り越してふてぶてしささえ漂って来る。

 

「なあ真魚」崖の上の戒明の庵に向かう途中で、勤操は珍しくさえない顔で荷を指しながら尋ねた。

「今年から運ぶ酒の壺が一個になった。…じいさん、なんぞ体の具合でも悪いんか?」

 「いいえ、戒明さまはいっこも具合悪うありまへん。わざとお酒を減らしているのかと」

 

さよか、と勤操はしぼんだ声を出していつものように前だけ向いて歩いた。

 

勤操はん、なんぞ悩みでもあるんかいな?と察して真魚はその背中に従った…

 

 「とにかく、あの最澄という男が南都六宗にとっては脅威や!」

 と庵に着いた勤操は新都、平安京の東北にある比叡山に籠って寺院を建て、天台宗という新しい仏教の宗派を起こそうとしている最澄という若い僧の話というより愚痴を、

 

庵のあるじ、戒明と杯を酌み交わしながらこぼしていた。

 

「何でも新しもの好きの山部王(桓武帝)さまが、その若き僧に随分入れ込んでいるらしいね。

 内供奉十禅師ないぐぶじゅうぜんし(天皇付きの僧官で侍医的な役割も持っていた)に選ばれるのは優秀だからじゃろ?

 しかし、問題なのは…」

 

そう、その問題や!と勤操はたん!と杯を床に置いた。

 

「帝が最澄が掲げる天台一乗ひとつに入れ込んでいる事や!最澄も南都六宗の僧たちにいちいち喧嘩を吹っかけて来る。

 おかげで法相宗の徳一とくいつと最澄は、顔合わせれば激しい論争や。

 まるで前世からの敵同士みたいやで…

 いちいち間に入って喧嘩おさめるわしの身にもなってみい!」

 

「お前も大変だねえ」と戒明は座敷に横向きに寝そべる勤操の背中をぽんぽん叩きながら言った。

 

「あの、戒明さま、最澄という御方は…」

 と真魚はその最澄という僧侶にいたく興味をもって師に尋ねた。

 

「そうか、山に籠って修行しているお前の耳には届いていないか。最澄という僧は、元々は東大寺で受戒した正僧なのだよ。

 

年はお前より七つほど上の三十一歳で、出身は近江(滋賀県)。

 俗名は三津首広野みつのおびとのひろのといって渡来人の子孫の家に生まれた。

 

学業優秀なため十二で国分寺に入り、十八で正僧になった。一族の望み通りの出世の道を歩いてきた訳だ、が…」

 

「が?」

 

「東大寺でよほど嫌なものを見てしまったのであろう、正僧になってすぐに寺から逃げ出して比叡山に籠ってしまった。

 優秀なれど東大寺が嫌いなのは、誰かさんに似てるねえ」

 と言って戒明はわざと真魚の顔を見た。

 

「だが、お前さんとは違ってその最澄、実に自他に厳しい頑固者でね、自身が掲げる法華経の天台一乗の教えこそ最上の仏の教えだと言ってはばからんのだよ。

 南都六宗を所詮机上の空論に堕しているとか、お前らも私が救ってやる、とか、ね」

 

「それでは敵しか作らへんやないですか!?最澄はんは苦労しそうやなあ」

 

「そうや、仏教伝来から二百年近く継がれてきた教えを最澄は真っ向から全否定や。

 わしとほぼ同期の徳一も、根は生真面目でいい男だが…怒ると頑固なんや。

 

今上帝が最澄に着いたことで、奈良の僧は戦々恐々としとる…

 なあじいさん、わしら南都六宗は天台宗という車輪に、轢き潰されてしまうんやろか?」

 

とひと通り愚痴をこぼすと、勤操はくうくう寝息を立ててしまった。

 「しょうがないなあ、風邪ひくでえ」と真魚は勤操のからだに夜着をかけてやった。

 

戒明は「そうやって見ると真魚はすっかり勤操の弟子だね。しかし、喋り方までうつってしまったのは困りものよ」と真魚をからかった。

 

「いまから言う事は、勤操には内緒だよ」

 と真魚の傍に寄って耳元で

 「東大寺嫌いの今上帝は、同じ考えの最澄の側についた。

 新しい国産の宗派で大陸伝来の宗派を轢き潰す。

 案外勤操の言ってる事は、帝の考えを言い当てているかもな…」

 

「それは、仏教の宗派を一つだけにするという事ですか!?」

 

真魚が驚いていると、戒明はひとつ、深く頷いた。

 

「しかしそれでは危険だ。山部王さまは若い頃から学者としては優秀だったが、優秀なお方ほど誰も信用せず、何でも思い通りにする悪い癖がある。

このままでは最澄は不幸になるよ」

 

「まるで帝を昔から知ってるような言い方ですねえ」

 

というと、老僧は真魚に向かって「昔、因縁があってね」とぺろりと舌を出した。






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