第6話 菜摘6 長岡京、崩壊。

何故、朕のやる事なす事すべてが裏目に出るのだろうか?


長岡遷都は間違いだったのだろうか?


難波宮から移築した宮殿の外では、梅雨の大雨が強く激しく、地面を打ち付ける。


延暦十一年(792年)。


長岡京遷都からずっと忌事続きだった桓武帝が正気を保っていたのは、ほとんど奇跡に近い。



忌事は、遷都翌年の種継暗殺事件から始まった。


調べてみれば弟早良寄りだった大伴一族や春宮坊(皇太子の使用人)たちが実行犯として次々逮捕、斬首された。


早良が暗殺計画に直接関わっていなくても…状況証拠が揃い過ぎて弟を処分するしかなかったのだ。


あいつは元々寺育ちで遷都に反対だったのは分かっている。だが、皇太子に反対派に回られては、困る。

政治刷新のためには、早良を廃太子にするしかなかったのだ。


淡路に流罪にして命だけは助けて、数年すれば寺に帰してやるつもりだったのに!

自ら食を絶って死んでしまうとは…許せ、早良よ。


それだけではない、四年前から愛する者を次々病で失った。旅子、母上(高野新笠)、そして我が皇后乙牟漏よ…


いま桓武帝の側には、幼くして母を亡くした二人の皇子、神野(52代嵯峨帝)と大伴(53代淳和帝)。


共に六歳の兄弟が父帝の周りを走り回って遊んでいる。

神野は皇后乙牟漏の子で、大伴は夫人旅子の子である。

皇子二人に、母親の記憶はない。


おいで、と桓武帝は我が子二人を膝に乗せて「これからは父が守ってあげるからね」と両皇子の小さな体をぎゅっと抱き寄せた。


その様子を見ていた女官明信は、

帝は皇子さまではなくご自分を慰め、励ましておいでなのだ。

と一人だけ桓武帝の胸中を察していた。


我が子で皇太子の安殿さまが精神の病を発症し、帝の御心はもう破裂寸前なのである。

「父上、苦しゅうございます」と神野が父の腕の中で身をよじった。

悪かった、と桓武帝は神野の頭を撫でて久しぶりに心から笑った。


随分と長雨と雷が続く梅雨だった。

完成したばかりの大学寮の門に、一台の牛車が止まった。

雨除けに衣(きぬ)を被(かづ)くその中年男は、阿刀大足だった。


「よく来られた、大足どの」

と大足を迎えたのは学者、味酒浄成うまささのきよなりといい、真魚が入学した明経科の侍講(教授)を務めていた。


いわば真魚の大学時代の担当教授である。

ずぶ濡れになっている大足の姿を見て浄成は真魚、真魚!と小走りで駆け付けた真魚に着替えと乾いた布を持ってくるよう命じた。


「書は守ったぞ」と叔父は防水の為に幾重も布に撒いた書物を大学寮内の空いた書棚に運ばせてやり切ったような笑顔を浮かべた。


「書も結構ですが、御身も守って下さいよ!その年でお風邪を召されたら命取りです」

と用意された部屋で叔父の衣を脱がせて肌を拭いてくれる佐伯真魚は今年十八になり、優秀な成績で大学に合格、入寮した。


思えば三年前、出会った頃は小さく頼りない少年だった真魚が、成長して随分しっかりしてきたものよ。


背も多少は伸びて、筋肉が付いて体つきもがっしりとしてきた。

それに、他人と目を会わせなかった気弱な性分も長岡京に来て人馴れしたのか、

人を真っ直ぐに見つめ返す胆力まで備わってきたようである。


「その年で、は余計だ!」大足はむっとして言い返した。

「だって、四十過ぎはもう老人ですから」


逞しくなったのはいいが…減らず口を叩くのは困りものである!


貴人の前で失言して処分された先人の話を持ちだして説教してやろう、と大足が思った時である。


小畑川、大水で決壊、氾濫!


の知らせが桓武帝の元に届いた。


小畑川とは長岡京の北西から朱雀大路ぞいに南に向かって流れ、主に農業用水に用いられていた。

この洪水で、田畑は壊滅。今年の収穫は絶望的となった。


「ああ…始まってしまいましたね。確かに都は水利の良い地域ですが、長雨が続くとそれが裏目に出るのです」


大足が大学寮に来た理由は、数日前から「高台にあるこちらに移って下さい!」という真魚の避難勧告であった。


少し後で洪水の知らせを聞いた大足は、まさか…真魚は全て見通していたのか?

と驚いて尋ねると、


「いいえ経験です。故郷の讃岐はひでりが多いのですが、いざ長雨になると水害がよく起こります。雨の降り方を見て水の動きを予測しただけです」

と目を伏せて答えた。


こうやって横顔を見ると、真魚は睫毛が長く、色白で女人のような顔立ちをしている。

この子の顔に、最近憂いが多くなった。と大足は思った。


真魚は物事を憂うくせがあるから気を付けて見てあげて下さい。


と姉玉依が手紙に書いていたのを大足は思いだした。


この792年6月の洪水は、後に桓武帝自ら視察する程の甚大な被害となったが、追い打ちを掛けるように、

二か月後の集中豪雨でまた小畑川、桂川が決壊し、洪水が起こるのである。


「確かに今年の雨の降り方は異常でした、だからといって…」

と大水が引いた都の惨状を高台から見下ろし、同期入学の学生と共に嘆いた。


建設途中の建物や掘っ建て小屋に近い庶民の住居はほとんど流され、逃げ遅れた人々の骸が散乱している…


半分白骨化した骸は半年以上前にわんずかさで死んだ骸だろう。


「都は、立ち直るのだろうか?真魚どの…」


と同級の学生が、大学寮ですでに智恵者と評判の真魚に縋るように聞いた。


真魚は黙って首を横に振った。

「立て直すには、人が足りませぬ。すでに疫病で多く死に過ぎています。

作物も全滅した。食い物の無い所に人は来ません」


「私たち学生は、洪水の間何も出来なかった。博士の命令で書を櫃に詰めて守るだけだった」


恐慌状態になった岡田牛養(おかだのうしかい)博士の叫び混じりの指示と、走り回って書の収集作業をする明経科の学生たちのばたばたという足音が、まだ耳に残る。


「仕方ないさ、かなり高価な書が水浸しになるところだったんだもの」

と嘆く同級生を口では慰めて、心ではちがうことを考えていた。


私達が守るべきは、高価な書ではなく、洪水に襲われた人びとではなかったのか?


ただ儒教はじめ唐の学問を繰り返し諳んじるだけでは、人は救えぬ。


見よ!この無残さを。天変地異に襲われた「都」のていたらくよ!



とどのつまり、まつりごとでは本当に人を救えぬということか…


隣の学生に見えないように真魚は自嘲気味に笑った。


そして数か月後、一人の学生が長岡京から消えた。




心は絶望に満ちていても、前だけ向いてないといけない時もある。


「いいかげんお母上の生まれ故郷の長岡に執着するのは止して、山背国葛野(京都)に再遷都なされては?」

と和気清麻呂が桓武帝に進言したのは洪水の翌年延暦十二年(793年)の事。


「やはり、再興は無理なのか…河川改修の名人のお前をもってしても」


と桓武帝は今年六十一になる寵臣の前で御椅子の手すりにもたれて右手で額を覆った。


「無理です。そんな費用も物資も無い事は帝ご自身もお分かりのはず」

と相変わらず人の心を見透かすような目で清麻呂は平らかに言った。


それよりも、と怒ったように続けた清麻呂の発言の内容に、桓武帝は仰天した。


「何故、小畑川の上流をこの清麻呂めに相談せず乱開発なされたか?小畑川を決壊させ、暴れ川にしたのはそれが原因」


朕は幼き頃、母と共に長岡で育った…昔から自然豊かな住みよい所であったから遷都したのに!


「あれは、食糧を確保する田畑を増やす為にやった事…朕が造京したから、朕が、長岡を壊したというのか!?清麻呂よ!」

と桓武帝に縋りつかれても清麻呂は表情ひとつ変えない。

生まれ故郷を壊したのが自分自身だという絶望が、桓武帝の心を激しく打ちのめした。


「他にどう言ったらよいのですか?…早く決断なさりませ、帝。洪水の被害に遭った民が怨嗟を朝廷に向ける前に、新都という夢を見せるのです」


分かった、と桓武帝は御椅子に戻り、威厳を正して「和気清麻呂、新都の造営をお前に任せる」と詔を下した。


「任せて下さい、この老い先短いじじい、最後の使命として完璧な夢の都を作ってみせましょうぞ…」


ふっふっふ、と笑いながら一礼して、清麻呂は背の高い体をくるりと向けて悠々と帝の傍を辞した。


「相変わらず言いたい放題の男ですね」


と二人のやり取りを聞いていた大納言、藤原小黒麻呂(おぐろまろ)が呆れて清麻呂が去った跡を見つめながら言った。


「…ああいう男だから、我が身を張って僧道鏡の帝位簒奪の野望を破り、天皇家を守り得たのだ。

清麻呂と同い年のお前もそれを見て来ただろう?小黒麻呂よ」


「はい、私めも清麻呂ほど勇敢な男を知りませぬ」

とすっかり年をとった忠臣小黒麻呂は、帝の傍で畏まった。


小黒麻呂は翌年の夏に死に、和気清麻呂は六年後の自分の死まで、平安京造営と政治刷新に尽くす。



都が長岡から平安京に移るまでの間、佐伯真魚はどうしていただろうか?


大和国(奈良県)のある山中を、一人の旅姿の青年がよろよろ歩いていた。

数日前に大学寮から出奔した真魚である。持ちだした干飯(ほしいい・米飯を乾燥させた携帯食)もとっくに食べ尽し、


山中にある果実だけでも腹を満たせず、ふくらはぎが鉛のように重く感じられ、どう無理しても、動けない…


真魚は体力尽きそうになり、とうとう山道の脇に座り込んでしまった。


はあ…足には自信があると思ったのにな。街と山とじゃ道理が違うよ、みちがでこぼこなんだもの。


秋も深くなった山中は木の実や柿、あけび、からすうりなどの果実に恵まれていて、湧き水を見つければ喉を潤せる。

…が、ひとたび奥に入れば右も左も、北も南も分からない迷宮と化す。


それが、山というものなのだ。


目印にと山道の脇の木の枝にくくりつけた端切れに三度めぐり合った時、真魚は道に迷ったな、と観念して秋草の上に寝転んだ。

日が暮れだして、夜の闇が近づいてきている。


こんなときに迂闊に山中をうろつくと、獣に襲われる。

歩いている間に集めておいた木の枝で焚火の準備をすると、火打石を叩いて枯れ草に火を点ける。


たちまちぱあっと橙色の炎が広がり、組んだ枝を舐めるように上に昇った。


私は、何処へ行くのだろうな?


一族の期待を裏切り、叔父から受けた恩も無駄にして都を棄て、学問への道を自ら断った。


気が付いてみれば誰もいない山中にこうして一人、火を焚いている。何処へ行きたいのか、何になりたいのかも解らず…


こうやって美しい炎を見つめていると、そんな物思いが消えて心が空になる。


そんな時だった。月夜に響くにえなる音声が、真魚の心を打った。



花間一壼酒

(ファジャンイーフゥジゥ)


獨酌無相親

(ドゥズュウオウチャンクィン)


舉杯邀明月

(ジュデイヤオミンユ)


對影成三人

(ヅイイェンチェンサンレン)


月既不解飮

(ユジブジェイン)


影徒隨我身

(ユィンチュスイウォシェン)



真魚の位置から山道を少し登っところにある崖の淵に座って、剃髪した老人が満月に向かって杯を掲げている。


今夜もお前さんと飲もうかね、と老人は月に声を掛けぐびり、と一杯酒を飲み干した。


「しかし、今夜はもう一人客人がいるがね。どなたさんかね?」

ととっくに真魚の存在に気づいている老人は杯を裏返しにして崖から真魚を見下ろした。


「珍しい響きの言葉ですね」

と真魚は引き寄せられるように老人の傍に寄った。月明かりの下、老人の眉も顎ひげも白く、肌だけが赤子のように艶々としている。


出家して山に隠棲した長者か貴族なのだろう、と真魚は老人の煤けた僧衣から推察した。

それにしても老けているのか若いのか、よく分からない僧であるよ、と真魚は思った。

「唐語じゃよ」

と老人はまたぐびり、と一杯やった。

「美しい響きに聞きほれてしまいました」

「ほう、李白の良さは言語を越えても通じるようだ」


当然のように老人は真魚に杯を渡して飲みなさい、と勧めた。実は真魚は酒は苦手なのであるが、この時ばかりはつい杯の酒を飲み干した。

「うわぁ、舌がびりびりする!」と真魚が言うと老人はひゃっひゃ!と悪童のような笑い声を上げた。


「おまえ下戸か!つまらんな。李太白(リータイホウ)の月下独酌(げっかのどくしゃく)、一緒に諳んじて月を愛でようではないか…」


花間かかん 一壷いっこの酒、


さかずきを挙げて名月を迎え、


影に対して三人と成る。


月既にいんかいせず…


影徒いたづらに我が身に随う。



花の咲き乱れるところに徳利の酒を持ち出したが

相伴してくれる者もいない。


そこで杯を挙げて名月を酒の相手として招き、

月と私と私の影、これで仲間が三人となった。


だが月は何しろ酒を飲むことを理解できないし、

影はひたすら私の身に随うばかりだ。


「さて、お前さんの中にある、揺らめく炎はなにかね?」


老人は、とっくに真魚の懊悩なんてお見通しだとばかりに言った。

自分の心を見抜かれたのは初めてだ!この御方は何者なのだ?

ひとしきり唐語による詩の朗読を終えると老人は、


「来なさい、もうすぐ冬になる。わしの庵に身を寄せたらどうだ?」

と真魚に手を差し伸べた。真魚は迷わずに老人の手を取った。


謎の老僧、戒明かいみょうと佐伯真魚。


この二人の月下の出会いが、真魚の人生と日本仏教界を大きく変える事になる…










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