バスが止まり、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは立ち上がった。出口まで歩いて、妻が立ち上がっていないことに気付いた。妻はこちらを悲しげに眺めていた。

「一緒に来てはくれないのか」

 ええ、と妻は小さな声で答えた。私はもう死んでいますし。

「そうか」ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは残念そうに俯いて言った。「すまなかったな」

 妻は首を小さく横に振りながら、微笑んで手を振った。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは手を振り返しバスを降りた。運転手が怪訝な顔をしていた。

 バスが走り去っていく。中の様子はもうよく見えない。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは教会に歩を進めた。中に入ると、人間が四人ほど。すべて観光客という感じではなく、現地の人間だ。ここで午後のひとときをすごすのが日課の人たちだろう。奥に向かって歩いて行く。汚い風体に人が顔をしかめるが一瞬だけだ。すぐにみな眼を逸らす。

 その汚いガラス製造の翌日にはもう二人の議員の失踪が発覚して捜索が行われたが、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキ、ノンノコに捜査が行き着いたのはすぐだった。遺体は一瞬で発見された。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは家にいなかった。二人の凶悪殺人鬼に対する徹底的な捜査網が敷かれた。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキとノンノコは、ノンノコが昔秘密基地に使っていたという防空壕跡に身を隠していた。これからどうしよう僕たち、とノンノコが言った。防空壕跡の中は暗闇でよく見えなかったがノンノコは笑っているような感じだった。教会に行こうと思ってる、護身用に持っていたヴァージニアン・ドラグーンの銃身を撫でながらドニプロパトロトリステキヴィスミジキは答えた。

「なんで?」

「妻と行こうと約束していたんだがな、そういえば、一度も行っていないのを思い出した」

「ふーん」そう言ってノンノコは何か考えているようなそぶりをした。

「お前は何をしたいんだ。自首するのか」

「しないよ」

「最期に手伝えることがあったら手伝うぞ」

「うーん、いろいろあるけど、まぁ、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキさんは教会に行きなよ。時間差で出て行くからさ」

「囮にするつもりだな」

「ばれた」

 二人は笑い合った。一通り笑い終わり、さて、とドニプロパトロトリステキヴィスミジキは立ち上がった。「どうしてこんなことすることになったんだろうなぁ」



 太陽という恒星がある。その周りを百万分の一以下の体積の惑星が回っているがそれが地球だ。その地球の表面の片隅に一時期だけ存在する空気の動きというものがあり、それが北風と呼ばれる。この両者が勝負したことがある。もちろん完膚無きまでに太陽が勝った。誰にだって分かりきった結果、異論を許さぬ試合内容、教訓もバッチリ、一般性を兼ね備えた上等の寓話のできあがり。めでたし、めでたし。

 こういう場合北風の味方をせずにおれないのが一山いくらで必ずいる。

 その一人が僕という人間だ。



 そう言ったノンノコに、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは、なんだそれ、と笑った。ノンノコも笑った。そしてドニプロパトロトリステキヴィスミジキは何も言わず防空壕跡から踏み出した。外に出ると空は曇っていた。道路に出て堂々とバスに乗っても特に誰も自分を気にかけている様子はなかった。これなら教会まできっと行けるな、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキはそう思った。

 あのままバスを降りなければ良かったのかもしれない。曖昧な後悔に包まれながらドニプロパトロトリステキヴィスミジキは教会の中を歩いた。少し気温が温かくなってきたように感じた。雨によるものだ。外で雨が降り始めたために空気が生ぬるくなった。それを温かいと感じたのだ。そのような原始的なことを今はじめて発見した法則のように思った。自分は今まで何を考えて生きてきたのだろう。ため息を吐いた。教会の中の雰囲気は穏やかだ。温かい。

 周囲の誰一人として今の彼を見て、20分後に正面入り口から突入してきた警官隊を奇跡的にも二人殺し一人に再起不能な重傷を与えてから蜂の巣になる男だなどと思わない。そのような偉業を成すものの心に共通して彼もまたある種の穏やかさに包まれていた。彼自身は自分が混乱していることを自覚しているという複雑な冷静さを手放さないように集中していた。そしてそのことにもまた自覚的だった。自らが酔っていることを分かって泥酔しているようなものだ。しかしいつだってそんなものではなかったか。世の中は狂気であり、正気でいると矯正される。何か頭の上に当たった気がする。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは禿げた頭頂部を手でまさぐり、そこに付着している落ちてきたものをつまんだ。見てみると一粒の砂だった。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは頭上を仰いだ。目の前に壮大な天井画がひろがった。中心線を境として二つの世界が描かれている。

 どちらが楽園かは判らなかった。

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