猿田彦


          2


「――猫が知っているのはそれくらいのことヨ。あの時、鵺様が何を二人に伝えたのか、どうして白が鵺様を殺したのか、猫も他の狒々達には推し量ることはできないネ。ただ、それが大猩々二人の意志であることは理解できる。故に、白を守るのヨ」

 猫の言葉は真っ直ぐで揺らがない。

 彼の言葉の通りであるならば、彼らは『本当の真相』何も知らない。知らないからこそ、大猩々の言葉を行動を選択を信じて疑わなかった。今も尚。

「さて、吾は知っていること全部話したヨ。これを聞いた上で、お前は大人しくしてくれるカ? 鬼の子」

「否。ヒノエにも話を聞く」

 そう断言する桐辰を前に、猫は目を瞬かせている。

「だから! お前は出しゃばるな、言ってるヨ。緋衣はもう堕ちてるのヨ。もう、覇兎にしか奴は止められない」

「だからこそだ。祓うしかないのならば、奴の言い分も誰かが聞いてやらねばならないだろ。ヒノエは鵺を慕っていたからこそ、真実に盲目となり、血の穢れを得るまでに至ってしまった。今更、真実を知ったところで戻ってはこられないだろうな。けど、聞いてやることくらいできるだろ? 奴の言い分ってやつをな。人を憎んでも、白勒殿を――同じく人から爪弾きにされた幼子を放っておけなかった様なお人好しだ。少しでも情はあったんだ」

 情というものほど危ういものはない。すぐに左右に振れる。愛情は憎しみに揺れ、憎しみは執着と化し、愛情へと転じる。

 白勒に対してヒノエが何の感情も抱いておらず、ただ鵺を思っての憎しみで動いているのであれば、何もしてやれない。けれど、情は僅かであれあったはず。その僅かな情を思い出せば、復讐などという愚考を思い改めてくれるのではないだろうか。


 賭だ。少しの可能性だけでもいいから、それに賭けたい。



 誰も傷つかないように。



「吾は守ってあげらんないヨ。それでもやるのカ?」

「これでも同心だ。ヒノエが塚守殺しの下手人である以上、奴に縄をかけるのが俺の仕事だ」

「勝手にするよろし」



          *     *     *



「田彦様――! 白が着きやしたよ」


 よく通る声が白勒の到着を屋敷の主へと告げる。

 熊は白勒が廟の中へと入るのを確認すると、茶を入れる為に五間約10mほど離れた庵へと駆けていった。



「帰ったか。吾が弟」

 出迎えた猿田彦は曇りのない真っ黒な目ですっかり老いた白勒の姿を認めて頷いた。

 人であった母親に似た彼は、狒々としての力を持ちながらもその外見は人間そのもの。ただ、白勒よりも三つ四つ年嵩なのに、三十そこそこの青年にしか見えなかった。

 他の狒々達は彫りが深く鼻筋の通った大陸顔なのに対し、奥まった精悍な顔つきではあるが一重瞼の小さな目に鷲鼻と、倭人に近しい。肌もよく日に焼けた小麦色で、それと言われなければ人と見分けはつけられないだろう。

 猿田彦は白勒の帰郷を嬉しむも、それを喜ぶこともできずに困ったような顔で笑んだ。

「息災のようで何より」

「そっちも。おっ死んでなくてよかったよ。死なれてちゃあ、わざわざ重い腰を上げて出向いた意味がなくなっちまうからな」

「もっとましな言い分は思いつかぬのか」

 白勒は肩を竦めると猿田彦の隣――祭壇の前に座し、まるで坊主らしく数珠を左に手を合わせた。

 しばらくの黙祷の後、彼は一膝下がり、猿田彦に向き直った。

「熊達から聞いたが、一人でケリつけるつもりらしいな。水臭ぇじゃねぇよ、まったく」

 鵺は白勒の目の前で自らの喉をその手で切っ裂き、殺してくれと頼んだ。血を渇望する獣に成り下がる前に死なせてくれと頼まれたのは、昨日のことのように覚えている。

 緋衣の激昂した顔も脳裏に焼き付いていた。

 緋衣が怒ったのも無理はない。あの時、彼には事の子細を伝えていなかったのだから。


 自分が元凶であり、『親』を奪った者。


 彼の憎しみが自分にだけ向けばいいと、思ってしまっていた。

 田彦は大猩々を継ぐに、それ以上はない器だ。彼が鵺に手を下す自体だけは防ぎたく、また、彼では父親の命を奪えなかった。

 たとえそれができ、実行したとすれば、緋衣はきっと彼も憎悪の対象として殺そうとしたはずだ。彼もまた、緋衣が憎む人の血を引いているのだから。


 自分が手を汚すのが、一番傷つくものも失うものも少なくすむ。


 必ず、緋衣は自分を責め、憎むだろう。それを確実とするには緋衣から真実を奪うしかなかった。

 その選択の間違いで、緋衣と対峙することになったのだが、それはそれでよかったのかもしれないとつい先だってまで思い込んでいた。

 そんなわけがなかった。緋衣の深く澱んだ憎しみが、その程度でとかされるほど生易しいものなわけがなかった。




「緋衣の憎しみがついに、お前の力をも越えたようだのぉ。封印が解かれたのだろ? 今のお前より、吾の方がまだ分がある。大人しく見とるがえぇ」

 そう。超えたのだ。

 白勒は拳を強く握って、眉を跳ね上げた。

「力衰えども、術を学びそれを扱うことを身につけた。三十年、それで食ってきてんだ。まだまだ、羅刹の一人や二人祓えるんだから、神使崩れの猿一匹祓えねぇでどうする。三十年かけて緋衣の力もだいぶんと削られてらぁ。それこそ、怖じ気づいて結界の内に隠るような意気地のねぇお前ぇさんの出る幕はないねぇ」

 まるで仇同士が顔をつき合わしているかのように睨み合う二人。二人とも頑固一徹、互いに一歩たりとも引こうとしない。

「急襲を避けるための策と言ってもらいたいのう。ちょうどええだろうに。緋衣のことを想うならば、お前は結界の内で大人しく囮にでもなってりゃええ」

「さればこそ。憎まれんのはぁ、俺だけで十分だ。最後までとことん憎まれ役に徹するんだよ。俺ぁ彼奴にどれだけ憎まれようがかまいやしねぇさ。彼奴は死にかけてた俺に手ぇ伸ばして笑ったんだ。『泣くな』ってなぁ。だから今度は、俺が死に急ぐ彼奴に手ぇ伸ばして止めてやらんとな」

「……まったく。馬鹿な弟だ」

「兄貴が阿呆なら、弟も馬鹿になるさ」

「ならば、緋衣もまた愚か者だということだの。何せ吾達二人の兄だものなぁ。吾も緋衣を想う心はお前と同じだ。あの時どうして緋衣に全てを話さなかったのだろうかと、話しておけばよかったのだろうかと、悔やんだものだ。しかし、去ったことを思い悩んだとて詮無いこと。緋衣は仲間を殺し、お前の血を被り、人を喰らった。既に堕ちている。そうなる結果を招いたのが吾達ならば、吾達で祓ってやるべきだ。そうではないか、白」

「妥協案ってわけかい……まぁ、いいが。今、俺の拾い子というか何というか、弟子みたいな奴が緋衣に同行しているらしくてなぁ。まぁ、頭のいい奴だから緋衣の嘘も見抜いているとは思う。けど、万が一、気づけていなけりゃ彼奴はお前ぇさんのことを『喰い』にかかるだろうから気ぃつけてくれや」

 義理とは言え、兄を息子が喰らう事態など想像もしたくない。

 しかし、緋衣は巧妙だ。あの覇兎の鼻さえ誤魔化している。そうでなければ、あの覇兎が闇堕ちなどというを前に大人しくしているはずがない。




 と、猿田彦は緊張を緩め、口端を上げた。かと思いきや、天井を仰ぐようにして大声で笑い出した。

「子飼いにしている妖喰いの兎か。お前もお前で、変わった輩を拾ったものだ」

 言った田彦の眦には涙が滲んでいる。

「見世物小屋で見つけてなあ。蛇喰いの白子なんて言われて晒し者にされてるというに、泣きもせんで。昔の自分を見ているようだった。無言で、殺してくれとその目が代わりに言ってたんだ。そりゃあ、放っておけるわけがねぇだろ。俺ぁ紛いなりにも坊主だぞ」

「そんな頭して何を言うかと思えば。猫に笑われるぞ?」

「もう笑われた後だってんだい」

「で、その子供はお前を反面教師に坊主になったか」

 今度は白勒が声を上げて笑う番だ。

「なるもんかい。拾って二年も経たねぇうちに野良になりやがったよ。まったく、自由な兎だよ。そのあと八年も顔見せねぇで、調子のいいときにだけ文を寄越しやがってよぉ。どうしようもなくできた息子だよ」

 白勒は目を細める。

 弟子だ息子だと言ってはいても、将寿には何一つ親らしいことはできていない。彼にとってみれば、その方が気が楽だったのかもしれないが、張り合いのないことだ。


 感傷に浸っていると、血相を変えた熊が柄杓片手に飛び込んできた。ただならぬ様子に猿田彦は片膝を立てて身構えるように中腰になる。

「何事だ?」

 たった五間の距離を走っただけで息を切らした熊は、顔面蒼白。白勒の傍らへと寄ると袈裟をかけた腕にしがみついて顔を埋めた。

「どうしたんだよ、熊?」

 白勒は、まるで子供のように震える熊の頭を優しく撫でてやる。が、その表情は声とは対局に堅く険しい。


「……緋衣が……兎を。覇兎を喰らった緋衣がここに来る――!!」

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