1 女郎屋に巣くう男

貝合


         1


 男は立ち止まった。

 見上げるのは朱漆で塗られた見事な門。開け放たれた扉を潜るのはいかにも金と暇を持て余していそうな、そんな男達。

 浮世と俗世を隔てる境界線。その敷居を跨いで一歩踏み出せば、そこはまるで別世界。女達が焚きしめた様々な種類の香の匂いが混ざり合い、遊女の持つ煙管キセルから立ち上る煙が辺りには漂っている。あまりの匂いに頭がどうにかなってしまいそうだ。

青年は眉を寄せた。


(よく、こんな場所で平気な顔をして笑っていられるものだ)


 皆、笑っているのに目は虚ろ。欲に溺れ漂う者と、それにすがりつき利用するモノ。浮世からは隔絶された、宵の花の中毒者。


 彼らは互いに依存し合っている。


 女達は自らの身を以て、男の欲を満たし憂いを拭う。

 女達はそんな男に自らの価値を、そして自由を求める。


 騙し騙され、戯言を信じた者は馬鹿を見る。虚が渦巻き、嘘で塗り固められた世界の中はあまりにも居心地が良くて、その毒は甘い蜜の様。美しく見えるモノの下には必ず、醜さというモノが隠れ潜んでいるもの。美しいモノが塗り重ねられている。それすらも忘れてしまう。


 ここ芦原遊廓よしわらゆうかくはそんな世界の典型だ。



     *     *



 青年は緊張で強ばった顔をして、遊女達がその身を捧げる町へと足を踏み入れた。

「何故、俺がこんなところに……」

 そう、青年は別に遊女を買いに来たわけではなかった。勿論、慰めて貰いたいだの、床を共にして欲しいだのといった欲求を抱いて来た訳がない。

可笑しな話だが、この男。女を抱きたいなどという感情を一度も抱いたことがないという。動物として如何なものかと問う前に、本当に男かどうか疑わしい。


 実はこの男、女が大のであった。


 女という生き物の習性が特に苦手で、傍に近づきたいと思ってもいない。寧ろ、そんなのは願い下げ。つまり、遊郭に足を踏み入れるなんてもっての外というわけだ。だが、どうしてもここに来なければならない理由があり、彼は仕方なくここにいる。


 ここ、栄戸が柳町やなぎまちで怪事件が起こったからだ。


 同心である自分はなんとしてでも、この事件を解決しなければならないのだという使命感が彼に事件解決を強く望ませていた。勿論、彼の本心も、事件を迅速に収束させたいと強く思っているつもりだ。

 問題は無惨にして鮮やかに細切れにされた死体と、目撃者が一人としてないこと。現場に残されていたのは何かを引きずったような痕跡がだけで、それも途中で途切れているためにどこへ向かったかまではわからない。そんな事件が、一月の間に五件も発生している。

 奉行所も頭を抱えるばかり。と、言ったところであろう。

 青年は何としてでもそんな事態だけは回避したくて、ここへ来たわけだ。


 奴なら、何とかしてくれるはずだと、あるに聞いた。僧侶としては今一つだが、この世の摩訶不思議に関しては詳しい。それが唯一の理由だ。

 もしも、そう進言してきたのが他の誰かであったならば、彼はこんな世にも恐ろしい楽園には足を運んでいなかっただろう。とは言ったものの……何故遊郭なのかは理解に苦しむところである。

 まさか、女郎如き下賎の輩に頭を下げろと言うのだろうか。仮にも武士である彼には考え難いことである。そんなことをしなければならないとなれば、奉行所の面目は丸潰れ。そうなってしまうようならば、即刻引き返してあの生臭破戒坊主のぼさぼさ延び放題の芝生状態の頭の毛を一本残らず引き抜いてくれるまで。




「お侍様、何をなさっておいでで? こんな、真っ昼間からさぁ……悪いお人でありぃすね」

 話しかけてきたのは一人の遊女。

 赤地に黄の菊柄の艶美な着物の胸元を大きく開いて纏い、黒地の帯を前結びにしている。横兵庫よこひょうごに結った頭に金や銀、漆塗りの簪や櫛をいくつも挿している。真っ赤な唇の間からは、今や廃れてしまったお歯黒を塗り込んだ歯が覗いていた。

「ちょいと登楼あがっていっておくれなんし」

 遊女は張見世はりみせの格子の向こう側から煙管を駆使し青年の襟を捕まえて引っ張った。格子越しに腕を絡ませ、胸を背中にくっつけてきたかと思えば、手を着物の中に滑り込ませる。力の抜けた青年の体を指の腹で撫で、口元を耳元に寄せて煙を含んだ吐息を吐く。

 青年は思わず悲鳴を上げそうになったが、あと少しのところでそれを丸々飲み込んだ。そして、女を、腕を振り払った。

「け、検分のために立ち寄っただけだ! 放してくれ」

「連れないお人……」

 女は詰まらないと言った風にすぐに諦めてそっぽを向き、手をひらひらと振った。あっちへ行ってしまえと、そういうことだろう。

 青年は息をつき、胸をなで下ろした。

 これは、早く事を終えなければ身が持たない。そう判断した青年は、足早に目的の置屋へと急いだ。



          *



鬼灯楼ほおずきろう……ここで間違いないはず」

 深呼吸一つ。青年は鴨居を潜り、敷居を跨いだ。

「私は奉行所の者だ。楼主ろうしゅを呼べ」

 手近にいた少年に強い口調と態度で短く、かつ的確に命令した。そうしないと、この一際強く立ちこめた女の香り気に気が持ちそうになかったから。

「あい。しばしお待ちを」

 しばらくして少年は一人の女を連れて戻ってきた。

五十近くと見えるその女。年嵩であることから考えて遊女ではない。丸髷であることから考えれば、彼女は楼主の内儀ないぎ――この妓楼の女将なのだろう。

「同心の旦那様が何のご用で?」

 女将はこれ見よがしに着物の襟元に触れ、胸元を張って強調した。仕舞にはとってつけたような笑顔。

「私は、楼主を呼べと、い、言ったはずだが?」

旦那だんさんはご不在で。私で勘弁して下さいまし」

 青年は努めて、動揺を悟られぬよう、顔には出さないように平静を装った。

「ここに、代御しろみという名の者が居ると聞いた。其奴のところへ案内してくれるか?」

 女将は眉を潜めた。

「そんな者、この見世には居りません。お引き取りを」

 女将は裾を翻すと、奥へと戻ろうとした。

 青年は、女将の命令で自分を押し返そうとする少年を力ずくで押し戻すと、声を大張って叫んだ。


鳴光寺めいこうじ住職である白勒びゃくろく殿の紹介状を持ってきた! これで文句はあるまい」

 女将は、白勒の名を耳にすると、はたと足を止めた。すると、女将は振り返り、再び青年の前に戻ってきた。

 青年が懐からたたんだ書状を取り出し彼女渡せば、それをじっと見て確かめる。

「……今すぐ通していただきたい」

「確かに、白勒様の筆跡……小史こふみや、旦那様を上へご案内しな」

「あい!」

 青年は女将に軽く頭を下げると、小史と呼ばれた少年の後ろについていった。



         *     *     *



「こちらです」

 案内されたのは位の高い遊女達の持ち部屋の並びの端に位置した一室の前。

「あの……くれぐれも気をつけてくださいよ。余程のことがない限り大丈夫だとは思いやすが、気を損ねると面倒な人なんでね……それじゃあ、あっしはもういきやすんで」

 見た目のわりにしっかりとした感のある少年は部屋まで案内してくれると、意味深に細を濁した言葉を残し下へと早足に去っていってしまった。

 青年は少し首を傾げた程度で、あまり気にも止めずに部屋の戸に向き直った。


 手をかけて一瞬。

 青年は動きを止めた。


 予想外――否、予想通りに手が震えている。

 別に彼は、女が恐ろしいわけではない。断じて、そういった軟弱な理由があるわけではない。ただただ、その性質が苦手なだけだ。

 ほっそりしたあの手足や首など、触れてしまえばすぐに折れてしまうのではないだろうか。あの真っ白で柔な肌の下には鮮やかな赤が隠れていて、指でなぞっただけでも滲み出そうで。噛みついたら、すぐにでも死んでしまいそうで恐い。

 加減なんてことができない。きっと、壊してしまうのではないかという恐怖が彼にはあった。苦手な原因はそこにあるのだろう。


 幸いなことに、見てくれがな青年に好んで近寄ってくるような女はまず、いないと言っていい。強いて言うなら、遊女ぐらいなものだ。だからこそ、この場所に来ることは彼にとって不本意なことだった。

 遊女に頼るなどもっての他。できることならば、この先には進みたくない。

 しかしながら、進まないことには事件を解決する事が難しい。不甲斐ないことに奉行所の手ではそれができないからこそ、頼ることにしたのだ。

 ここまで来ることができたのだから、行けるはずだ。落ち着いていこう。


 深く深呼吸を一つ。

「失礼する」

 青年は覚悟を決めて襖を一気に開ききった。

 目は瞑って。



「失礼するんだったら、はじめっから開けないでくだせぇ」

 目に飛び込んできたのは白銀の髪をした色白の女と長い黒髪の女。その二人の美女らの淫らな姿だった。

 彼が見たのは、白い女がもう一人上に馬乗りになるような格好で、足や腕を絡ませ合っている場面だった。

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