第一章(2)私と藤枝


「このお話は、あまりにもつまらないわ」




 私が畳に寝転がりながら独り言を呟いていると、障子の向こうから藤枝の声が致しました。



藤枝というのは、私の世話を一番良くして下さる家政婦にございます。



 「お嬢様、失礼致します。」



 「どうぞ。」と返事を致しますと静かに障子が開き、藤枝が部屋に入って参りました。



開けた障子を閉めて振り返った藤枝は、私の姿を見て目をまん丸にしております。



 「なんと、凛子お嬢様。

そのような格好で読書をなさいますのは、大変お行儀が悪くございますよ。」



 「大袈裟ねぇ。

貴方だってこの前、お部屋を散らかしていたじゃありませんの。

私だけに注意なさるなんて、少しずるくってよ。」



 そんなことを言いながらも私は、


これ以上お小言を言われないように居ずまいを正して座り直しました。



 「なっ、なんと。

また、私のようなものの、汚い部屋にお入りになられたのですね。

そのようなことが奥様に知られでもしたら、私も凛子様も大変なお叱りを受けてしまいますよ。」



 「まぁ、藤枝ったら、口五月蠅くってお母様みたい……。」 



 「めっ滅相もございません。

私のようなものが、凛子お嬢様の奥様のようだなんて。」



 「そう慌てずとも良いでしょう。

お母様も貴方も、私からすればそう変わりはないもの。



それより、ねぇ、藤枝……お母様は……どちらに行かれたのかしら。



私を置いて、どこに行ってしまわれたのかしら。」



 少し俯きながらそう溢すと


藤枝は私を抱き締め繰り返し何度も、優しく背を撫でて下さいました。



 「確かに、奥様は、凛子様を置いてどこかに行かれてしまいましたが、

必ず戻って来て下さいますよ。


貴方様みたいに、使用人一人一人をよく見ておられるような優しいお嬢様を


残したままで、どうして平気でいられるのでしょう。


一時の気の迷いにございます。


奥様だって人間です。


人間は皆、平等に間違うものですから仕方ありません。


 ですが、奥様にはお嬢様がいらっしゃいます。


こんなに可愛い凛子お嬢様を一人にして、


いつまでも平気でいられるはずもありませんから、きっと戻ってらっしゃいますよ。


 それに士族の女性としての佇まいを日頃から凛子様に口五月蠅く仰られているのに、ご自身がそれを長くおやぶりになるはずありません。


奥様は凛子様を大切に想い、


士族の女性らしい振る舞いをお手本として見せておいでなのですから。」


 「因果応報……。」


 唐突にそんな言葉が浮かんで参りました。


 いいえ、唐突でもないのかもしれませわね。


 お母さまが恐れておいでの世のことわり。


 平生からお母さまはそれをとても気にして口にしていらっしたから、耳に残っているのでしょうね。


 そんなものに、どこか怯えていらっしゃったというのに、

今回の振る舞いはどうされたことなのでしょう。



 「左様にございます。」



 人の温度が私の頭に伝わります。藤枝のかさついた手が、私の髪を撫で降りていきました。



 「ただ、奥様が恐れておいでなことは、

自分自身にお巡りになってきた報いが、ご自身で清算おできにならなかった際、

凛子様や旦那様にも飛び火してしまうことです。


 この因果応報というものは、何もご自身だけの問題ではございません。


その家族に影響を及ぼすことがございます故に、

あのようにいつも行いについては厳しくなさるのです。     


 それを私共使用人にまできつく仰っている奥様が、

自らでそれをお破りになるはずがございません。


 時間はかかりますでしょうが、必ず凛子様の元に戻って来て下さいますよ。


 ですから、そのようなお顔をせず、私と一緒にお待ち致しましょう。」



 他の使用人はお母様出て行ってからというもの、私を哀れな同情に満ちた目で見つめてまいります。



 ですが、藤枝は違いました。


 

 いつだって、私に寄り添い、傍観なんて無能なことは致しません。



 とても、とても、温かいヒトの血が通った藤枝。



 そのような藤枝が、私は大変好きでいますのよ…………。





…………………。





 「そうね。そうですわよね。

 私ったら、いけないわね。気長に、お母様を待ちますわ。

 長いご旅行に行かれたのだと思いながら。


 でも……。」



 「如何なさいました、お嬢様。」



 「私、お母様の言いつけを沢山破ってしまいましたの。


 さっきだって、寝転がって本を読んでしまいましたし、

それに、おやつもいつもより多く食べてしまっていますの。


 叱られてしまうかしら。」



 お怒りになるお母様を思い浮かべ不安になる私を見つめ、

藤枝はクスクスお笑いになります。



 「お嬢様、それは私とお嬢様以外、誰も知らないことにございます。


 ですから、私とお嬢様との秘密に致しましょう。


 その代り、お嬢様が私のお部屋に入られたことも内緒にしておいて下さいね。

でないと、使用人の部屋に凛子様を入れてしまったお咎めを受けてしまいますから。


 ね、このようにすれば、誰もお叱りを受けませんよ、凛子様。」



 「まぁ、藤枝ったら。」



 つい先ほどまで真面目な顔でお話なさっていたのにと思うと、


少々呆れてしまいそうになりましたが、


それでも名案だと言わんばかりの顔でいる藤枝を前にしていると、


私もおかしく思え声をあげて笑ってしまいます。



 「お嬢様、はしたないですよ。」



 「だって貴方、とてもおかしいのですもの。」



 「それもそうにございますね。」




 それから、私と藤枝は他のお方が耳になさっても詰まらないことに思えてしまうような他愛もない話をしておりました。

 


 藤枝と過ごすこの時間は、私にとっていつもたいへん早くに過ぎ去ってしまう大事な時間にございます。



 「凛子お嬢様、お話の時間はこのくらいに致しましょう。

そろそろ夕食のお時間ですから。

身なりをお整えになって手を洗い、大広間に向かわれて下さいね。

 

 私も残りの家事を片付け次第、凛子様の配膳のお手伝いをさせて頂きますので。」



 「このお家には私と貴方たちしかいないというのに、大広間に向かわなくてはならないものかしら。

 お部屋で食べても良さそうなものに思えてしまうのだけれど。」



 「まぁまぁ、そう仰らずに。

 それにもしも突然奥様がお戻りになられ、凛子様がお部屋でお食事をなさっていることがお耳に入りでもしたら、その時は、私たち使用人は大目玉の木っ端微塵になりかねませんよ。


 ですから、そのようにならないためにも大広間にて、お食事をなさって下さい。」



 私は、藤枝の言葉に、渋々と立ち上がり、身なりを整える為に姿見の前に立ちます。



 鏡に掛けられている薄い布を捲りあげては着物の崩れを直し、


「では、参りましょう。」と藤枝に声をかけます。



 頷きながら「はい、参りましょう」と藤枝は答えますと、障子をお開きになりました。



 


 障子が開けられた時の、微かな風で、風鈴がその身を揺らします。






 ―チリンー





 ―チリンー        ―チリンー

 




 ―チリンー


 




 「さ、お嬢様、お足元にご注意なさって……あら……。」

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