20170208

 気が付いてみると随分と気分が良いので何時だろうかと見てみると、正午を回っていた。

 昨晩はひどく精神を悪くしていたので、いつものように死ぬの死なないのといった風なことを撒くし立てていたことを考えるとまったく情けない。


 結局のところ、心持ちというものは身体に左右されるものであって、不調のときはたっぷり寝るしかないのだろう。

 こういう時に情けないと思いながらも広く詫びることができれば、人間として一等マシになることができるだろうと思うのだが、そうはできない偏屈さというものが自分を形作っていることに忸怩たるものを感ぜずにはいられない。

 ご心配をかけて申し訳ない次第です、と一言関係各所へ頭を下げるだけでも、随分と生きやすくなるだろう。


 人体というものは精神の操作によって動いているように思っていたが、そうではないと気付いたのは身体を悪くしてからのことである。

 眠ければ具合が悪くなるし、腹が減れば怒りっぽくなる。寒ければ悲愴な気持ちになるし、腰が悪くなると生きる希望も消え失せた。

 詰まるところ精神などというものは肉体の傀儡であって、それほど上等なものではないのだろう。



 昔、まったく何も食べないで生きていると言い張っている人が、実のところは夢遊病のように飯を食っている、という話があった。

 本当に飯を食わずに生きている人もあるのかもしれないが、この人の場合はとんだペテンであったと酷く笑われていたのを憶えている。


 しかし、よくよく考えてみれば「この人の精神」は「何も食っていない自分」を信じているのだ。

 精神を傀儡として操作する肉体の方では、これではいかんということで、飯を食う。

 結果として、実際と認識との間に齟齬が生まれることになるが、そこに人間というものの魅力がある。



 してみると、何かに抗議して義憤から食を絶ち、自死する人の何と気高く、強靱なことであろう。

 本来調和して然るべき精神と肉体とを相克せしめ、ついには精神の力で肉の慾を抑え付けて、死に到るのだ。

 これは、ただごとではない。


 昨日死にたい死にたいと言っていた身の上ながら、ただただ驚くばかりである。




 これから、腰の治療へ出掛ける。

 腰さえ良くなれば執筆も進むと思うのだが、これがなかなか難しい。

 今日からは鍼を使うというから、どういう塩梅になるか、怖くもあり、楽しみでもある。


 嗚呼、腹一杯の苺が食べたい。

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