新帝國大学の美人教官が出不精な理由(わけ)

文乃 優

プロローグ ある天才医師の悲劇と狂気

【 イデアの影 】


 現実世界を洞窟にたとえるならば、

 我々が見ているすべては洞窟の壁に映し出された

 イデア界(理想世界)の影にすぎない。


 ――― プラトン(紀元前427年~紀元前347年)


◇ ◇ ◇


 ベッドには娘が横たわっていた。体はやせ細り、呼吸は弱々しい。はかなくカゲロウのような少女。


 部屋の内装は少女のイメージとは違い、重厚な歴史を感じさせる和のアンティークが所せましと並んでいる。もちろん少女の趣味ではないだろう。大の大人でも気圧されるほどのデザインと意匠。部屋の空気にさえ重みを感じる。工芸品の域を越え、美術品といっていいだろう。どの什器も普通の家庭ではまずお目にかかれない。


 天井から吊り下げられているのは、これまた凝った意匠のペンダントライト。暗めの間接照明が、温かさではなく部屋の重々しい雰囲気をより一層引きたたせている。


「景織子、安心しなさい、父さんが必ず治してみせる」


 間もなく壮年に差し掛かろうかという医師風の男が、横たわった少女の手を握り、耳元で声をかける。その声は優しく力強い。しかしどこか悲壮感に満ちている。それを掻き消そうと男は何かに耐えているようだった。


 少女はハーッと大きく息を吐き出すと、意を決したように話を始めた。


「う、うん。無理はしないで。お父さん忙しいんだから……」

「私は家族をかえりみず仕事を優先してきた。母さんにも苦労をかけた。お前がこんな状態になって、やっと大切なものに気が付いた」

「でもお父さんの治療を待っている人達がたくさんいるのよ。早く行ってあげなきゃ」

「今は景織子の治療に全力を尽くす。自分の娘一人救えないで何が名医だ!」


 ”お父さん”と娘に呼ばれた医師風の男は、悲壮感溢れる表情を打ち消すように無理やり笑みを浮かべた。娘を安心させるためだろう。


「だからな、景織子……もうちょっと頑張ろう」

「うん……ありがとう、お父さん」


 少女は目を閉じた。そして二度と目を開けることはなかった。


◇ ◇ ◇


 常盤井ときわい家は、茨城県北部、常陸太田市に居を構える由緒正しい旧家である。先々代の亮助りょうすけは貿易業で巨万の財を成した。そのおかげで日本でも並ぶもののない裕福な家へと発展し、隆盛を極めた。強大な財力を背景にその力は政界にまで及んでいた。


 現当主の亮太郎りょうたろうは幼少の頃より神童と称され、非凡な頭脳を発揮して医者となった。


 専門は脳外科。どんな難手術も成功させ、若くして名医の名を欲しいままにした。発表する論文は切れ味鋭く、医学界に新風を吹き込む革新的な内容ばかり。現場での診察と治療、そして疎かになりがちな研究も同時にこなし”稀代の天才医師”と称賛された。


 しかし亮太郎は仕事ために犠牲にしたものがあった。――― 家族である。亮太郎の妻は一人娘を残し、若くして亡くなった。


 亮太郎は一年の大部分を病院と大学で過ごしていた。たまの休みで帰宅しても、書斎で論文作成に没頭する生活。そのせいか一人娘の景織子は、ほとんど家庭の温かさを知らずに育った。


 景織子が唯一気軽に話せる家族は、乳母や召使いだけだった。富裕層ということもあったが、およそ一般の人間とはかけ離れた環境で育った。


 だが景織子は幼いながらも父の仕事を理解していた。社会のためになる意義ある仕事だと。だから自分は我慢しなければならない。亮太郎に普通の父親としての態度を求めてはいけない。自分の我慢が、世のため人のためになると堅く信じていた。それが父と繋がる唯一の絆だと思い込んでいた。


 ある日、景織子は自宅の居間で倒れた。最初はただの貧血だと思っていたが精密検査の結果は無情……余命は一ヶ月。死に至る難病だった。


 景織子はみるみる衰弱していった。亮太郎がそれに気が付いたのは、景織子が余命宣告を受けた二週間後の事だった。海外の病院に勤務していた亮太郎。だから知らせが遅れた、という事情はある。しかしそれだけではない。


 「お父さんが仕事に集中できるように、余計なことは知らせないで」


 と景織子自身が周囲の者に懇願したからだ。


 亮太郎は”景織子 危篤”の知らせを聞くと、すべての仕事を放棄して日本へ帰国した。あらゆる医療機器を屋敷へ持ち込み、娘の治療に持てるすべてを注いだ。


 家庭をかえりみなかった亮太郎。だが、心の中では娘を誰よりも大切に思っていた。娘に父親らしいこともできず、日頃から罪悪感を感じていた。よりによって不治の難病で大切な娘を失おうとしているとは、想像もしていなかった。亮太郎は酷く後悔した。自分自身の罪の重さを知った。娘との時間を大切にしなかった天罰が下ったのだ。そう思った。


「この病を克服するには、もっと時間が必要だ。なんとか……なんとかできないものか!」


 天才医師、常盤井亮太郎の治療も虚しく、景織子は若くして亡くなった。役所へ死亡届こそ提出したものの、景織子の葬儀は行われなかった。亮太郎が景織子の死を認めようとしなかったからだ。遺体は荼毘だびにふされたが、医療研究を名目に脳だけは冷凍保存された。


 ――― それからの亮太郎は大きく変わった。


 病院から退き、大学教授の職を辞した。突如アメリカへ留学し、情報工学や電子工学、生命科学、遺伝子工学の博士号を取得すると、毎日狂ったように研究に没頭した。

 

 研究といっても自宅に篭り、人知れず行う個人活動である。どの学会にも属さずフリーの研究者として活動を続けた。多くの最新機器を金に糸目をつけず購入していった。政府の所有するスーパーコンピューターをデータセンターごと買い上げた事もあった。その購入は新聞に大きく取り上げられるほどだった。


 おかげで常盤井家の財もかげりを見せ始めた。


 だが亮太郎の研究は止まらなかった。何を研究していたのかはまったくの謎だった。冷凍保存された娘の脳を引き取った事から、医学界では「娘が罹患りかんした病の解明ではないか」という噂が広がっていた。


 娘の死から二十年が経過したある日。


「ようやく私は娘に報いることができる……」


 そう言って亮太郎は研究の手を止めた。


 研究を終えた亮太郎の腕には、一人の赤子が抱かれていた。常盤井家のメイド達が「その子は誰ですか?」とたずねると、亮太郎は奇妙な事を言った。


「何を言っているお前たち。この子は私の娘、景織子きょおこだよ」

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