17 閑話休題


   ◆◆◆


 乾いた音を立てて鉛筆の先が折れた。


 痛みにも満たない小さな痺れが、じんわりと右手から這い上がってくる。鉛筆をテーブルに放り出し、右手を掲げてみる。指先が微かに震えていた。


 酷使され続けた右手は、そろそろ――


 「限界だな。今日は終わっていい」


 テーブルの向かいからタマサカさんが終了を告げた。見計らったように柱時計が午前三時の鐘を打つ。緩んだバネが爆ぜるような、どこか間抜けな響きがみっつ続いて、音は夜と朝の隙間に吸い込まれていった。


 口を一文字に引き結び、身じろぎひとつせずに“トレース”による自動筆記を目で追っていたタマサカさんが、腕組みの上下を組み替えた。


 タマサカさんは極端に動きが少ない。


 彼はその必要がない限り、バッキンガム宮殿の近衛兵のように、ぴくりとも動かないのだ。ペラペラとした紙人形のようなイルマとは対照的に、タマサカさんは動かざるごと山の如しを地でいくような存在だった。


 正直なところ、息が詰まってしょうがない。


 イルマ相手になら、そんな軽口も叩けただろうに、相手がタマサカさんとなると、途端にわたしは無口になってしまう。それに腕を組み替えただけにしても、それが彼なりの寛ぎ方らしいということを、肌感覚で知っていた。


 腕組みを合図に、わたしはテーブルに伏して目を閉じる。眠気のせいで頭を持ち上げているのも辛かった。瞼の裏には今し方までノートに綴っていた文字が、ちらちらと瞬いている。


 “トレース”によって文字に引き下ろしたマナカの記憶。


 彼女の記憶は、もどかしさで満ちていた。誰かの中に、かつての自分や自分に似た何かを見付けた時、人はそんな気持ちになるらしい。


 わたしは重い瞼を持ち上げた。

 ノートの文字の一節に目を留める。


 ――どうして伝わらないんだろう?


 マナカの憤りを物語るように、文字は四角く尖っていた。


 スミに気付いてもらいたいと願うマナカ。彼女自身の見栄や虚栄心が無いといえば嘘になるけれど、スミを思う気持ちに嘘はない。気付いてもらいたいという正義感にも似た強い思いが、マナカの心を動かしている。


 正義感。


 呟いて、わたしは眉を曇らせる。


 わたしの “トレース”は、まだまだ未熟なものでしかない。

 それでも、幾つもの心の流れを渡ってきた経験は、流れの行き先を予感できる程度には、実を結びつつあった。

 山間に生まれた小さな沢が、幾つも重なって川を成し、やがて海へと辿り着くように、心の流れにも行き先がある。


 マナカの中に生じた小さな流れが、これから合流するであろう奔流を思うと、気分が滅入った。既に起きてしまった過去の記憶とはいえ、憤らずにはいられない。


 「どうした?」


 我にかえって顔を上げると、タマサカさんがこちらを見ていた。表情の乏しい顔だから、彼からは何の感情も読み取れない。

 強いていうなら心配そうな、と形容できなくもなかった。よほど沈痛な表情を浮かべていたのかもしれない。

 わたしはマナカの心情について、心の内を吐露しようとした。

 視線を宙に彷徨わせ、適切な言葉や説明を探す。もちろん、空中に適切な説明など書かれてはいないのだけれど。

 言葉を探したままとうとう声は出なかった。

 わたしはゆっくりと首を横に振る。


 「……なんでもないです。少し疲れただけで」

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