白衣病棟から退院できないことを、運命と諦めるようになった頃である。

 感覚を麻痺させることで快適な生活も不可能ではないと慣れてきた。心を許せる友人は痩せ背も低く貧弱な例の男だけであるが、しばらく会っていない。

 心を許せる友人とは言え、彼について多くは知らない。彼の父がこの白衣病棟で不遇のうちに死んだことが強く印象に残っている。

 もちろん今でも病院と外界の境界に残された古びたプレハブで小屋作業をしているはずである。

 気晴らしに唯一の友人を訪れようと思った。

 梅雨の合間の暇を見て、彼が居るはずのプレハブ小屋を訪ねた。

 軽くアルミサッシの扉を叩いたが、返事はなく微かに人が動く気配だけが聞こえた。

 サッシーの扉を右側に引き寄せるとガタガタときしむ音を立てて開いた。

 古びたねずみ色の事務用机の前にひじ掛けのないみすぼらしい椅子に腰掛けて古い本の埃を払っていた。

「やはり来ましたか」

彼は予感していたように言った。

「そろそろ来る頃とでも思っていたのですか」

「時期的に」と彼は軽く受け流し、ネズミ色の椅子から腰を上げ、古い茶色のソファーに移動し、腰を下ろし私にも座るように手で促した。

「実は夢の知らせです」と打ち明け、僕の心を覗こうかとするかのように目を見つめた

「一週間ほど前です。義理の母が夢枕に現れ、あなたが来るはずだから、礼を言い、よく事情を説明するように」と枕元で告げたのです。

「義理の母」

 心を許せる友人とは言え、彼について多くは知らない。彼の父がこの白衣病棟で不遇のうちに死んだことが強く印象に残っている。義理の母など知らない。もちろん会ったことなどもないはずである。

「まあいいです」と軽く言い流し、許した。

「これも宿命でしょう」と言った。

 宿命と言う突然の重い言葉に驚いた。

「事情を説明します」と言い茶碗をテーブルの上に置いた。

「と言っても困まったものだ」と友人はため息をついた。

「長くて複雑な話で、どこから説明したらよいか決めかねます。三十年も昔の話です。この白衣病棟が、ひどく荒れたことがあります。荒れた理由はある一人の医師が巻き散らす毒のせいだった」と今でも信じています。

 その頃の話はよく耳にした。作品の中でも書いてある。だが突然、彼が告げた毒と言う言葉が理解できない。意味が理解できないまま、思考が止まった。

 友人は僕の困惑に気付いたようである。

「毒と言う言葉のほかに例えようがない。もちろん物質的な毒物ではない。人間社会で人間の心や人間関係を蝕む毒です」

 僕が理解していないと気付いたようである。毒と言う言葉の深刻さに気付かねば先には進めないと彼は思ったのである。

「このような話はまことに話しづらい」と嘆いた。

「例えると毒とは人間が社会生活を円滑に過ごすために押し殺さねばならない本能や欲望を、いたずらに掻き立てるものです」

 まるで謎々である。私に何を気付けと言うのであろう。

「例えば乾燥し切った砂漠で道に迷い喉の渇きに苦しむ隊商の前に、突然、ヘリコプーターでやって来て十分すぎるほど水を飲んだ話や水を贅沢に使い水浴びをした話などをする。どうですか。想像するだけで喉の渇きを覚えませんか」

「喉が渇き切った隊商たちにとっては耐え切れないことでしょうね」

 友人はこの反応に満足しなかった。じれったそうに頭を横に振った。

「それでは次のような例えはどうだろう。本を書こうとする人ですから、すでに読んだかも知れません。松本清張の無宿人別帳と言う作品があります。その中に『おのれの顔と言う』と言う短編があります。物語は江戸時代の牢獄の中の話です。自分の顔にコンプレックスを持つ男が、自分の顔とそっくりの男が牢に押し込められた時から始まります。彼を主人公にする物語のようですが、実はこの物語の主人公は別に居るのです。同じ時期に店の主人の女将と不倫をやらかして牢獄に放りこまれた若者です。彼が牢に放り込まれた理由が色事であると知った男たちは羨ましく思います。特に好色な牢名主は執拗にその若者に、その交わりの様子を知ろうします。若者も調子に乗って様々な情事の場面を話します。牢の状況ですが、最初は収容される囚人の数も少なく牢内はすいてました。ところが次第に収容者が増え、満足に座ることもできないほど混雑してきます。当時としては当然ですが、いよいよ間引きをしなければならないというところまで混雑します。間引きとは数人を殺し死体を牢の中から役人に引き取ってもらうことです。三人を間引くことになりました。誰を間引くかと言うことになった時、主人公の男は自分の顔に似た男を間引くことを牢名主に求め、牢名主は好色な話をした若者を間引くことを指示をしたのです」

「牢名主は自分の心に毒を注いだ若者を許してはいなかったのですか」

「そうです。牢名主にとって好色な話は関心はあるが、同時に牢に閉じ込められて望んでも実現しない毒でもあったのです。それで若者を許すことができなかったのです」

「若者にとっては理不尽な話ですね」

「そうです。牢名主はそれが権力者ですから許されるのです」

 本題に入るまでの前置きが長いのは、いつものことである。

「似たような話が、三十年前にこの病院で起きた。三十年前はこの病院も無防備であった。毒を流した医者が一流大学を卒業していた。身構える余裕もなく、彼の流した毒を飲み込んでしまった」

「具体的に一体、どのような毒ですか」

「彼が自分自身と関係をした病院関係の女性の名を公開したのです」

 耳を疑う話である。一般常識では考えられないことである。

「最初は出鱈目だと思われた。ところがそうではないのではないかと思われた。内心、羨ましいと思う者も現れた。まさしく狭い牢獄の中に閉じ込められた囚人たちの心境である。確かに閉鎖社会でないが、社会を構成するために抑制せねばならない欲望である。守らなければならない社会のルールである。彼はソドムの市の箱の蓋を開けてしまった。良識のある者は笑った。普通の笑いではない。呆れた時に表情に浮かぶ笑いであり、自己の欲望を言い当てられ者が、それを隠すために表情に浮かべる自虐の笑であった。騒げば騒ぐほど当事者を傷つけることでもあり、第三者は沈黙するしかない。人間の弱みを十分、承知していて仕掛けてくるのである。やがて踏みにじられた者は踏みにじられたことを屈辱と考え告白することすら出来なくなり、彼に従属をせざる得なくなる」

 息を吐かずしゃべり続ける友人の言葉に怒りと怨念が混ざっている。聞いているだけであるが、思わず身震いをした。

「そんなことが許されるのですか」

「病院がスキャンダルの暴露を恐れる以上、彼を大事にするしかない。彼はこの病院の都合も巧みにつけ込んだ。すべての悪事を病院はもみ消さざる得なくなった」

「あなたは」

「何度も彼に止めるように忠告した。しかし彼は耳を貸そうとしなかった。逆に私や私の家族を陥れた。その後も三十年間病院に告発し続けた。しかし病院は一向に聞き入れない。また不思議なことに彼の周囲に男が集まった」

「隙あらば同じ思いをしたいと思う、スケベな男も多いでしょう」

「あまりのことに見かねて、言葉を慎むように忠告した私は逆恨みをされ、妻を失い家庭は失い、社会的地位をも失った。すべて彼が裏で仕組み、多くの者を巻き込んだ罠だった」

「妻を失った時に、ある者は私に次のようなことを言って慰めようとした。『妻はあなたの嫌いだった』と。次の者があなたがそれは理解できなかったから妻は死を選んだ」

「違う」と彼は自己の言葉を否定して叫んだ。

「少なくとも最初から嫌いだった訳ではない。嫌いだったら、私と一緒になり子供を産むはずはない。するとある者は慰めに来た。『長い年月の間に嫌いになったのだ』と。それも違う。嫌いになるように仕向けられたのだ。言葉の相違はわずかだが、この違いが大きい。彼らは言葉を混雑させ、犯罪をボカそうとしている。できれば私に責めを回そうとしている。『妻が私のことを嫌いだった』と信じ込ませようとする」

 同一人物とは思えないほど、めまぐるしく彼の言動は変化する。

「ところで私や家族を地獄のどん底に突き落された対価はいくらぐらいだと思いますか」と静かに話の方向を変えた。

「生命保険会社なら人の命の代償などを計算することもありましょうが」

 私は私に質問するのはおかど違いだと言うことを友人に伝えたかった。

 ところが友人の顔が厳しく緊張で痙攣した。

「なるほど生命保険会社ですか」と大きくうなづいた。

「彼は生命保険会社の顧問として向かい入れられた。生命保険会社なら人の命の計算もできますね。彼はこの白衣病棟で高い地位を占め、そのまま最後は国内有数の生命保険会社にです。彼が生命保険会社に顧問で招かれる前にこのプレハブ小屋に来て、言い捨てた言葉があります。『小さなことを言うな』と。これが妻の生命を奪い、私の家族を地獄に叩き落した代償なのです。この価値判断が生命保険会社の基準と合致したのでしょう」

 と彼は絶叫した。


「その友人に味方し、あなたを葬った人物はどうなったのですか」と友人は聞いた。

「みんなか」

 一瞬、みんなと言う個人がいるかと勘違いする声をするような声である。

「みんなとは言い逃れに使う卑怯な呼び名だ。裏で仕掛けたであろう言う人物も、みんなと言う呼び名に隠れて特定できなくなった。私の想像は外れてはおるまい。悪事を重ね、ある時には過去の自己の悪事と病院が庇護したことを暴露するぞと脅迫し、病院を意のままに操作し、彼に味方した者をとり立てた。順風満帆の人生だ。立派で腕の良い優秀な医師が報われるとも、正しい行いをした看護士が報われるとも限らない生きると言うことは、そういうことだ。この世の出来事、人生も、国家も社会も、すべてが仕組まれた、インチキなんだ。八百長なんだ」



 私の主治医である女医の母親である老婆が二番目の娘を連れて、真夜中に枕元に現れた時のことを思い出した。その時、二人は目の前の友人とは違いひっそりと語ってくれた。

 女医の妹が別れさせ屋なる奇妙な職業の男の計略に乗り、一時の迷いから主人以外の男に肉体を許し、それをネタに夫婦はゆすられ、主人は社会的に葬られ自殺し、妻はそれを苦に息子を残し、自殺をしたと言う主治医の妹がたどった悲しい運命である。

 残された息子は今は女医が引き取り、母親代わりに育てている。

 友人が言う義理に母とは、その時、老婆ではないか。そして彼の妻とは主治医の妹ではないのか。

痩せていて骨が浮き出た清掃婦の老婆を思い出した。いつも青色のみすぼらしい作業着を着ている。彼女は現世の存在ではない。私など特殊な能力を持つ者以外には姿は見えない。老婆が連れてきた女性のことを僕が瞑想すると、友人の顔が歪んだ。目の付近が委縮し、阿修羅のような表情になり、次には今にも泣き出しそうな顔になった。


 そこまで思考が及んだ時に、これまでのことを振り返った。

 彼女の夫は、妻が死ぬ前に自ら命を絶ったと聞いたが。それを悲しんだ末に夫の後を妻が追ったはずである。もし彼がその妻の亭主なら、老婆の話から思うと目の前の友人は自死したはずである。

 だがそのことは意味をなさない。深刻に考えることでもない。

 なにしろ白衣病棟は十三号室の開かずの間を中心に現世の者と冥界の者の魂が共存し、死者と生者の区別が出来ない世界である。現世と冥界と境界である。疑えば私も冥界と現世の境界に存在するか、自分でも気付かぬ間に冥界の住人になっているかも知れない。

 だが友人の話すとおりのことが、法や良識に縛られた社会で起きるのだろうか。

 彼に落ち度はなかったのか。だが落ち度のない完璧な人間などいるはずもない。

 私は自分の心の中で自問自答した。

 相反する別の物語を想像した。

 彼は悲劇のヒーローのように自らを語り、ある人物を悪魔のヒーローのように語るが、実は彼は能力もない落ちこぼれであり、これらの話はすべて彼がねつ造したものではなかったのか。

 友人の話では妻の不倫云々の話が核になっているが、妻も彼に愛想を尽かしたのではないのか。医師免許を保持しているが誰にも相手にされず見捨てられたのではないのか。

 最近でも医師の免許を保有しているが事件を起こす不逞の輩は多い。

 長い年月全国津々浦々を移動するたびに心中は怨嗟の気持ちに毒され、「ミイラ取りがミイラになる、「朱に染まる」と言う諺もある。魂も価値観も破壊され、彼自ら墓穴を掘ったのではないのか。

 この思いを打ち消すに対し叫び声が耳奥でこだました。

「友を失うようなことを考えるな。すべてこの世はプロパガンダだ。権力闘争。政治闘争で決まる。この世の出来事、人生も、国家も社会も、すべてが仕組まれた、インチキなんだ。八百長なんだ」と

 強い怨念が部屋中に通過するのを感じた。

 我に返った私は慌て友人に尋ねた。

「あなたが女医の妹のご主人ではなかったのですか」と

 すでに部屋の中に彼の姿はなかった。

 雨脚が突然襲って来るような音が窓の外でした。汚れで曇りガラスのようになった窓の外側を見ると、うっそうと茂った孟宗竹が大きく揺れていた。

 雨音に聞こえた音は笹の葉の触れる音だったようである。

 だが揺れるのは孟宗竹のその部分だけであった。

 風はなかった。



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