あなたも私もトンチンカン

「もちろん、最初はあなたの助言に従おうと思いました」

「でも無駄だった」と

「そのとおりです」

 久しぶりの再会だった。行方不明になっていた前任者である患者二十五号と病院の廊下でばったり出会ったのである。彼は退院を許されたか、転院をさせられたはずだったが。

 最近になって気付いたのだが、この病院では他人の話を真剣に聞いてはいけない。

 つじつまが会わなくても、偽りだと気付いても聞き流すのである。

 すべて本当であり、すべて嘘である。

 難しいことではない。

 簡単に言えば、時系列が壊れているのである。過去に体験したことが、本人の都合でつぎはぎされ、作り替えられているのである。話を真面目に受け取らなければ、実害はなく問題もない。ただ生真面目に受け取ると悲劇になる。

 生まれ変わるためには一度死なねばならぬなどと質の悪い医師の虚言に騙されて、待ちに待った退院直前に夜に、病棟の前の松の木で枝で首を吊ることもない。

 まるで小説のような存在であることに気付いた読者も多いではなかろうか。

 患者二十五号は信用できた。だから真情を吐露できた。

「これまでの事業に関しての会議や計画の記録した簿冊を手渡された時に思わず心が揺れ動いてしまった」

「結局、好きなのでしょうね」と彼は同情した。

「簿冊をめくりるうちに深くのめり込んでいった。多くは会議の記録だった」

 実は博物館建設の話である。

「偉大な白衣病棟の事跡を広く世間に知らしめ、後世に伝えるために博物館としての機能を優先すべきだ」と言う議論がわき上がったのである。

 教育施設などという名称は相応しくないと会議で決まったのである。ところが、すでにその博物館は白衣病棟の敷地の角に存在し、博物館長も存在するのである。新しい博物館建設となった時に、今の博物館長が話をまとめねばならない。互いに忌避するものだから、複雑になる。しかもこの事業は全国に点在する白衣病棟全体に関わる大事業である。

 パワハラ男を巡る騒動も、この博物館長の下での騒動である。

 患者二十五号も、去った後の話の成り行きに関心を持っていたらしい。「とうとう博物館と言う所に落ち着きました」とつぶやいた。

「ある役所で『私の仕事館』なるものを造り、不評で大赤字になり世間から袋叩きにされていますね」

 と彼は白衣病棟の責任者たちが避けて通っていることを言った。

「そのことも話題になっていた。でも病院が自己の経費で建設するのだから、何を造ろうと関係ないと主張する医師の意見が大勢をを占めたらしい」

「それなら一層、自画自賛館と言う名称にしても良いのではないか」と患者二十五号は皮肉を込めて言い捨てた。彼は成り行きをすべて見抜いているようにも見えた。

 私は会議には参加できない。だが意見は博物館長に託していた。事前に立体的な造形物を作成する器具やタッチパネル式のモニターなどの調査をすべきであることなどである。だが一切、無視をされた。最後に図面を描くためにキャドソフトをパソコンにインストロールしたいことも要望した。それさえて拒絶された。結論は業務から一切、手を引けと言い渡された。博物館長は、例のサドでパワーハラ上司にすべてを任せると明言し、調査に使う経費を、すべて彼の意見に従い運用した。

「要するに、あなたは仕事を外された訳ですね」

 細かい経緯は知らない。パワハラ同僚は関係しているのではないかと想像する。もちろん想像にしかすぎない。白衣病棟の上層部でどのように意志決定がなされたか知る由はない。

「そうです」

「それは良かった。祝福します。でも、今度は濡れ衣を着せられないように、準備しておくことです」


「これが薄汚れた白衣を身に着ける者の宿命です」と患者二十五号は付け加えた。

「そうですね。彼からも明言されました。薄汚れた白衣を着けている癖に、生意気なことを言うな」と

 前任者はフンと鼻をならして言った。

「うす汚れた白衣を着けた者たちなど、最初から存在を認めていない。最初から無視してもよい存在である」

 私も同調した。

「責任は私が身に着けるこのうす汚れた白衣のせいにできる。薄汚れた白衣を身に着けている存在だから無視したと言い訳をすれば、誰も博物館長の非を責めることはできない。薄汚れた白衣を身につける私の責任であり、それをつけさせ続けた白衣病棟の責任だと博物館長は言い訳ができる。無視するだけではなかった。逆の方に走ることに気付いたのです。古い博物館の蛍光灯をまぶしい黄色いの蛍光灯に変えたり、立体模型の作成に使われるべきだった経費は看板作成に使われるカッティングプロッター購入費に充当し、新しい博物館建設に重要な役割を担うはずだった部下たちを一年間、徒労と無為に過ごさせた。私は黄色のまぶしい蛍光灯のために目を痛め古い博物館から締め出しを食うことになった」

 私の言葉に恐ろしい気配を感じたのであろう。二十五号も顔をしかめた。私は刺激が強すぎたと思い、言葉を弛めた。

「ちろん表立っては言えない。彼は上司で真っ白い白衣を着る身分です。心中で愚かさを笑い、つまらないことに巻き込まれるのは御免と仕事をボイコットするしかなかった」と言葉を弛めた。

 それでも唖然とさせられる出来事が続いた。奇妙な雰囲気は会議に参加せずとも空気伝いに伝わるのである。毎夕に行われる打ち合わせの席でパワハラ同僚が博物館長の責任ではないと突然、慰め始めたりするのである。当然、慰めねばならないことがあったのであろう。その後の彼の言葉には、一層、唖然とさせられた。すべて副院長が悪いと評価するのである。一番の戦犯として責任を感じねばならない一人である。内部で、どのようなことになっているのか想像もできない。思わず二人の顔を見比べたものである。

「あなたの責任は追及されませんか」と二十五号は案じた。

「それを恐れています。でも、結局、何もさせてもらえなかった。博物館長とパワハラ同僚により、すべてを封じられた」

 もちろん、タッチパネルの準備や図面を描くキャドソフトのパソコンインストロールである。今ほど職場にパソコン持ち込みが厳しくない時代なら、自分のパソコンを職場に持ち込むことも考えた。この御時世である。厳しい処罰を受けることになる。そこまで白衣病棟に義理立てをする気はない。

 ひそかに医学史などを本を読み漁り、博物館に訪れて来る見学者に説明しようした。ところがそれにも口を挟み禁じようとしいた。そんなことは俺がやると。博物館長の嫌らしいところである。嫉妬しているとしか思えず、腹の底で舌を出し笑っていた。案の定である。不勉強で白衣を身に着けているだけの存在にすぎない彼に説明ができる訳はない。古い展示物を見学する客の背後で棒立ちになっているだけです。最近では彼は骨董品を集めると言い始めた。古い手術はさみや骨を切るのこぎりなどです。この世に存在するかどうかも分からない品物です。私は聞こえぬふりをしていました。世間から価値を認められないガラクタを展示するために数十億円もかかる建物を建設しようとしているのである。でも彼は本気です。客が押しかけて来ると信じているから救いようがありません。呆れて真剣に考える気にもならないと言うのが真情です。いずれにしろパワハラ同僚にさせると宣言したのですから、私は関係ないと耳を塞いでいました。

 パワハラ同僚のことが話題になると二十五号の目が輝いた。

「彼はどうですか」

「相変わらずです。仕事などしていません。部下を叱りつけるのが仕事だと思っている。レントゲン技師など、ひどい妨害行為に逢いぱなしです」

 レントゲン技師はどのように彼自身を納得させ、日々、堪えているのか理解に苦しむことがある。しかし博物館長はパワハラ男の孫部下が苦しむ様子などまったく気にしているようには見えない。無神経でおれる理由は自らをエリートと思っているせいであろうか。理解できない、遠い存在である。

「患者が看護士より賢くあってはいけない。これこそ医師と言う階層の身分を危うくし、組織崩壊を招く元凶であると信じている」

 患者二十五号は解釈した。

 今は倉庫に眠る品物を展示する仕事を命じられている。ある時、博物館長がその倉庫に来たので、あなたの頭の中には、この倉庫の品物を使い博物館を完成させる具体的なイメージが存在するのでしょうと皮肉たっぷりに言い、彼を古びた倉庫に一人放置したのである。それでも腹の虫は収まらない。最近では諦めである。その結果が沈黙である。問われても知恵を出す気はない。分かりませんと一言で片づけるつもりである。キャドソフトで図面を書けと言われても操作を忘れてしまいましたと応えるつもりである。一年間、あらゆる場で意見を無視され、反対方向に博物館建設の準備を進めてきたのである。理解できるはずはないのである。

 二十五号との話は佳境に入っていた。

 ふと気付くと、そばに例の清掃婦の老婆が腰掛けて休憩している。話に夢中になっていたせいで彼女がベンチに腰を下ろす気配にも気付かなかったのである。

 しかもラジカセの音楽が聞こえてくる。例の私の主治医でもある女医が古いラジカセで音楽を流しながら現れたのである。彼女は回診の帰りであろう。

 二人が現れる間の良さに、私と患者二十五号は思わず顔を見合わせた。


 赤青黄色の衣装を着けたトンチンカン

 とっても格好良いトンチンカンがしゃしゃり出て踊りだす

 美しい鳥たちも

 赤いリボンの花かごと

 愛のキスくれました

 トンチンカン


 真っ白い白衣を身に着ける者

 普通の白衣を身に着ける者

 うす汚れた白衣を身に着ける者

 みんなトンチンカン

 天才、偉人、みんなトンチンカン

 凡人、平民、みんなトンチカン

 責任を追及されることのないトンチンカン

 下克上を招きかねないトンチンカン

 トンチンカンな上司が士気を低下させるトンチンカン

 どうでも良いのよトンチンカン

 分かっていないのよトンチンカン

 ダーツの代わりにメスを投げつけたいのよトンチンカン

 何も言っても無駄よ トンチンカン

 もちろんメロディもリズムも聞き慣れない。初めて耳にする歌である。しかもラジカセから流れているが伴奏なしの地声である。女医が歌っていることは間違いない。

 彼女はラジカセの停止ボタンを押し、険しい目でベンチに腰掛けている私たちに向けた。いつもとは違う彼女の険しい視線に凍り付いた。おそらく患者二十五号も凍り付いたはずである。老婆だけが冷静だった。むしろ女医に投げかける皮肉な表情が顔には浮かんでいた。

 ラジカセの停止ボタンを押した女医は声を上げて歌い始めた。

 あなたも私もトンチンカン

 普通は滑稽なだけの無害なトンチンカン

 でも時には戦争も起こすトンチンカン

 会社に大損害を与えるトンチンカン

 でも責任を追究されることのないトンチンカン 

 歌に合わせて彼女は幼稚園児のお遊戯のように踊った。

 あなたもと言う部分では膝を少し折り曲げ私と患者二十五号をひとさし指で指した。みんなと言う部分では手を自らの頭上で大きく回した。

 私の主治医であるこの女医は才能豊かでマルチ人間である。尊敬をしている。

 歌と踊りと終えると、彼女は解説を始めた。この時も女医のトンチンカンという言葉に神様からの啓示に似た閃きを得ていた。博物館長やパワハラ同僚など周囲の者を一言で表現する言葉はないかと探し続けていた。まさしく彼女の言うトンチンカンと言う言葉が相応しいのである。

 歌と踊りを止めた彼女は、驚いて口を大きく開けて見つめる私たちに長い講釈を始めた。

「もちろんトンチンカンだからと言って恥じることはないのよ。特別なことではないのよ。でもトンチンカンだと侮ったら、とんでもない目に会うわよ。歴史上、このトンチンカンと言う人種がどのような役割を演じたか、振り返って御覧なさい。具体的事例をあげるわよ。日本人なら東京裁判で誰でも知っている有名な場面よ。大アジア主義者と言われる大川周明と言う戦前の有名な社会運動家が、自分の被告席の前に座るこれも偉い東条英機元首相の禿た頭を後からペシャと叩く場面があったでしょう。東条英機さんも、どのような反応をして良いか分からず、とまどいの奇妙な笑いを浮かべた。もちろん厳粛な裁判の席で起きたトンチンカンな場違いな光景に多くの者は驚いた。大川が東条をトンチンカンと言い捨てたかどうかは不明だけど、大川の奇妙な行動には理由があるのよ。五年ほど前に遡るけど東条英機が昭和天皇に呼ばれて首相に任じられたのよ。東条なら天皇に対する忠信が強いから、天皇の密かな平和への願いを汲み取り、血気だつ軍部を抑え、日米開戦を回避してくれるに違いないと言う判断から彼を指名したの」

 ずいぶん長い講釈になる。

 女医の専門は精神医学であるが、彼女は専門分野と同じぐらい歴史に詳しいのである。歴史上の人物の精神構造を現代風に解釈することで病を抱えた多くの人を救えると信じている。

 彼女はアングリと口を開けた三名の前でなお長い講釈を続けた。

 私は感動と羨望の視線で彼女のなめらかな口元を食い入るように眺めていたが、顔はほかの二人と同じくだらしなく口を開けていた。ただ老婆の表情には軽蔑の表情が混じっていた。


「ところが首相に任命された東条さんが、長く陸軍省に戻らなかったの。やっと戻った東条さんに、不思議に思った部下や副官が問きただしたのよ。東条さん真面目に靖国神社に立ち寄り英霊の声を聞いて来た。英霊たちが流した尊い血を無駄にできないとトンチンカンなことを答えたのよ。当時、日本はアメリカとの戦争を回避するために中国大陸から完全撤退をするかどうか二者択一を迫られていたから、英霊の気持ちを犠牲に出来ないと言う東条さんの発言を聞いた大川周明は驚いて、東条首相を訪問し翻意を促し、アメリカとの戦争を止めさせよとした。でも東条は一民間人の言葉など聞く耳を持たなかった。それで大川は靖国の英霊の方が貴方より聞く耳を持つと言うセリフを残し東条の元を去った。残念ながら大川の捨てセリフにトンチンカンと言う言葉で含まれていたかどうか不明です」

 私たち三名は彼女の長い講釈から得るものが分からず顔を見合わせていた。彼女は無反応な私たちに苛立った。

「良いこと。歴史上の人物もトンチンカンな判断をし、そのトンチンカンな判断が国を間違った方向に進めたこともあったと言うこと言いたかったのよ」

「大川が東条に向かい、トンチンカンと言い捨てる前に、『死の意味も分からぬのか」と怒鳴ったか、『黄泉の国に去った者と現世に生きる者の定めもつかぬのか、このトンチンカン』と怒鳴ったはずです」

 老婆は、女医の講釈に怒りを覚えたようである。

「死の意味が分からぬ者が存在してもよいのではないではないか。怨みを持つ死者が黄泉の国からよみがえり、ここに座っていても良いのではないか」と大声で反論し、言葉を続けた。

 私と患者二十五号は思わず顔を見合わせた。そして二人とも同時に気付いた。いつの間にかベンチの二人の間に腰掛けている老婆はこの世の存在ではない。彼女は黄泉の国から舞い戻った幽霊であると。

 老婆は怒りに任せて言葉をつないだ。

「それに人様の御先祖様をけなすこともいい加減にしなさい。大川や東条以上にトンチンカンな存在は多くいたはずよ。外務大臣の松岡洋介や国民の中にもいたはずだと。松岡などはアメリカ人なんか臆病でこちらが強く出れば、へっこむと外務大臣でありながらまじめに交渉さえしなかった。そんなことより医学界で名医として名を残しなどと身のほど知らずで馬鹿げたトンチンカンな研究など止めて、結婚して子造りに励み、子供たちを語り部にすべきだったのよ」

 女医も老婆の反論に負けいなかった

「誰も侮辱などしていません。彼らは偉かった。でも同じ人間です。人間である以上、トンチンカンでおかしなあやまちを犯す存在だと気付いてもらいたい。偉い人もトンチンカンな過ちをするから用心するように庶民に忠告したい。すべて仕事です。心に病を抱える患者は劣等感にさいなまれている者が多くいます。彼らを救うのです。劣等感や孤独の地獄から救い上げるのです。彼らを救うために歴史上の人物も彼らと同じだったと共通感と安心感を与えるのです。きっと治癒に役立ちますわ」

「馬鹿なことを言う閑があったら、さっさと嫁に行けばよかったものを。周囲からうるさいと思われているのでしょう」と繰り返した。

 「医師と言う職業は誰からも尊敬を受ける仕事です」と女医は丁寧に答え、「医師が明るく振る舞うことは病人治療の基本です」と老婆の批判をかわした。

 女医と老婆の会話から蚊帳の外に置かれた私と患者二十五号は二人で話を始めた。

「最近、博物館長とパワハラ上司が熱中していることは廊下の角を曲がる時には直角に曲がり、歩く時には腕は四十五度に振って歩くこと。上司に物を申す時には、腰を九十度、曲げた敬礼をした後に頭を下げ申し上げること。ギクシャクとした動作でロボットのように病院内を歩けるかどうかが序列を決める手段になっている。君たちはギクシャクした動作ができない。つまらない存在であり、こんな無意味なことを強制されても従わねばならないクズであり、カスだと思い込ませる。四十歳、五十歳を超えた分別のある者たちに対してです。家庭の主婦もいます。六十にちかい男性もいる。二人はそれが組織を造る元だと信じている」

「つまらない」と、患者二十五号は吐き捨てた。

「でも白衣病棟内の博物館長以下での仕事です。この時期に一番重要な博物館の設計など、まったく関心を持つ様子はない」

 情けない話である。この本末転倒ぶりが許される。異常としか言いようがない。訪問者が感動する博物館を造る。

「日本中から古いメスや使いふるした包帯を探せ。人々に感動を与えるためだ」

 二十五号は頭を傾げた。

「感動する博物館を造る。だから錆びた古いメスや血のりのついた包帯を集める。ちぐはぐでトンチンカンというべきである」

「展示物を見て感動をしない者はおかしい。博物館に入る資格はない。国の情感教育に欠陥がある。再教育をするために教育施設の役割も担わせろ」

「狂気だとしか、言いようがない」

 病院長から遠回しに指導もあったようである。だが気付く気配はない。

 今ふうに言えば、空気読めないと言う表現が当たっている。

「空気も読めないトンチンカン」

「この言葉は味わい深い」と二人で笑った。

 二人で小声で笑っていると突然、女医が口を挟んできた。彼女に聞かれても問題はないと思っていたが、小声で話していたのである。

「トンチンカンとは誰のことですか」

「博物館長です」と私が答えた。

 その瞬間に女医の顔色が変わった。

 ドラえもん型女医は怒りで顔を真っ赤に染めた。

 彼女は大声で怒鳴った。

「みんなトンチンカンでしょう。あなたも。あなたも。ええ、この病院中のみんなよ。とにかく薄汚れた白衣を身に着けた患者であるあなたたちが、白衣を身につける博物館長を批評することはできないの。あなたは無視された存在です。その結果がうす汚れた白衣を着けているのです。負け犬です」

 私は彼女が突然、怒った理由も辛辣な言葉も自分に向けられたとは理解できなかった。長く白衣病棟にいる二十五号は事情を承知していて、耳元で囁いた。

「彼女は博物館長が好きだったのですよ」と。

 老婆は、「そうだったの」とぶやいた。彼女のしわくちゃの顔には哀れみの表情が浮かんでいた。

「この白衣病棟であなたのような薄汚れた白衣を着続けた者に期待などしてはいません」

 さすがに男であり年長者である私は黙っておれなくなった。

「博物館長とパワハラ同僚、二人のおかげで設計業務は頓挫したのだ」

 一年間の事情を知らない。ただ私には結末が予想できた。空気を媒介に伝わってくる波動で、自分が予想した結末は間違いなかった思っていた。

「設計図を書くのは貴方の仕事ではないでしょう。それに設計図も出来ているはずよ」

 女医も私の激しい怒りに表情が固まった。

「まったく無意味な建前の設計図が。博物館長が大好きなガラクタを収めるガラスケースを配置する案を基に仕上げた図面が。何を展示すべきか。あるいは映像や音を交えた展示は必要ないのか。あるいは見学者が自らの好みでパソコンや模型などで観賞する選択をする自由を与える必要はないのかなど。様々な観点で検討すべきだった。それを博物館長の偏った思考でガラスケースで古い品物を集めて展示すると決めた。古いガラクタを展示することで多くの人が繰り返し見学に来たくなると、トンチンカンな博物館です」

「博物館長はそれで良いと判断したのでしょう。うす汚れた白衣を身に着けた貴方が口を挟む理由はないわ。それこそトンチンカンと言うものです」

 と女医は私の反論に言い返した。

 分け隔てなく語り掛けてくる彼女もうす汚れた白衣を身に着ける者を軽蔑していると気付き深く傷ついた。

 最後の言葉には特に力をこめて言った。

 興奮が冷めるのは早かった。

 女医はミュジカルスターが映画の中でで唄うように、例のドラ声で唄い始めた。

「あなたも、あなたも、みんなトンチンカン」

 女医は現れた時と同じく園児のように手や膝を曲げて踊った。僕と患者二十五号を指さした後、一指し指で病院中を示したが、老婆には指を向けなかった。


 その後、彼女は身を翻し、両手を腰に置き、ステップを踏みながら去っていった。

 僕は思わず、首を傾げた。

 そばで、この素振りを見ていた患者二十五号は呟いた。

「退院の日は近いかも知れない」

 僕はその予言めいた言葉が意味することを理解しなかった。

 すでに老婆も去っいていた。二十五号と二人、ベンチに取り残されていた。

 ふと老婆の顔を横切った女医に対する激しい怒りの表情や憐悲の感情を思い出していた。

 彼女の激しい表情の動きから、老婆が女医にまるで近親憎悪に似た感情を抱いているのではないかと直感した。

 二人は血のつながりのない他人同士だろうかと思ったのである。

「二十五号は正確なことは不明だが」と、断った上で教えてくれた。

「遠い昔のことであるが、自分が医師としてこの白衣病棟に赴任した直後、清掃婦の娘が女医として戻って来ると噂を聞いたことがある。あるいは彼女がそうだったかも知れない」。

 患者二十五号が耳にした噂話が事実なら、複数の男たちにひどい仕打ちを受けた老婆が産み落とした娘が女医であると可能性も生まれてくる。



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