第16話時をすり抜ける男(患者二十二号)

 世の中には奇妙な人物がたくさん居る。

 精神病棟に入院して治療を始めて、ますます、このように実感するようになった。

 特に私の入院する病院は病院とは言え、医師も看護師も白衣を身につけているせいもあり、患者も看護士も医師も、すべて罪深い同じ人間に変わりはないと言う認識も持つのである。

 もともとこの病院はこのような人道的な発想を原点としている。だから患者も看護士、医師もすべて同じ白衣を身につけて生活をするようになったらしいが、僅かに異なる点は医師が身に付けている白衣が新品であり、患者が身に付けている白衣が薄汚れていると言う点である。もちろん中間に位置する看護士は中間程度の白衣を身につけている。

 衣装に無駄な経費が掛からずに済むと陰口を叩く患者もいる。

 ここでは精神病棟などと聞き慣れない言葉を止めて昔風の精神病院と呼ぼう。やはり精神を病んでいると言う方がふさわしいと思うのである。

 今回ももちろん、その種の患者の物語である。

 いきなり彼のことを患者二十二号と呼称する。

 彼の症状は幽霊を見ることである。ただ軽度な症状であり、自宅から通院を許されている。

 開かずの間の十三号室、十四号室の異変を察知したのは彼であるらしい。

 彼の自らの他人とは異なる人種であることに気付いたのは十六歳の思春期を迎えた頃である。以来彼は無数とも言える幽霊に逢い続けた。最初は姿を現す幽霊に恐怖を感じたが、今では幽霊に逢わないと寂しささえ感じると言う。

 先に述べたとおり彼は入院患者ではない。あまりに幽霊を見る回数が増え、仕事や日常生活に支障を及ぼすようになると病院を助けを求めて通院をして来るのである。

 最近では月に一度ほど病院を訪れて来るようになったらしい。

 彼が逢った最近の幽霊の一例を紹介し彼の症状を説明しよう。

 以下は彼自身が饒舌に私に語ってくれた話である。息継ぎをする暇もないほど彼は連続して喋り続けるのである。端で見ていると呼吸が止まり窒息するのではないかと案ずる程である。

 ところが、彼はある一瞬、突然、話すことを止め、ハッハッとせわしく短い呼吸を繰り返すのである。

 あるいは私が質問をはさみ、休憩を間を与えなければ、呼吸困難に陥り、何らかの医学的な処置を要することになっていたやも知れない。

「普通は、予告もなく突然、現れます」

「一体、どういうことですか」と私は思わず反応して聞いた。

 実は私は、その日の仕事、すなわち病院内の清掃のために外来待合室の前を通り過ぎようとした時のことのである。彼は床に視線を落とし、私の方を向いている訳ではない。

 私は咄嗟に彼の言葉に反応してしまっていたのである。

「もちろん幽霊です。彼らが現れるのは夜とは限りません。白昼であっても姿を現します。医学的には精神分裂病の一種で特殊なケースではないかと医師は判断しているようですが、正確なことは解らないようです」

その時、私は見ず知らずの、この男に言葉に掛けるべきではなかったのでは後悔した。

 後日、聞いたのであるが、彼は別に私に声を掛けた訳ではなく、通り過ぎる誰に対してでも、「突然、現れます」と言い続けるのらしい。丁度、エンドレステープのようなものである。

 咄嗟に彼の声に反応する者が現れると、彼のお喋りのスイッチが入り、本編に移行するのだと言うのである。

 歩いていると交通事故で死亡した者の姿を見かけることもあります。そのような時は決まって道端に御地蔵さまが立ち、花がたむけられている。

「幽霊とはどのように見えるのですか」と私は質問した。

 様々です。だが死ぬ間際の姿であることは間違いありません。いえいえ、幸いにことに苦しんでいる姿はあまり見ません。これには本当に救われます。死ぬ間際と言っても、彼らの幸せな瞬間の姿です。例えばランドセルを背負い、母に送られ家の喜々として家の玄関を飛び出す姿です。

 それを聞いて、かえって私は悲しくなった。

「最近、どのような幽霊を見ましたか」と興味本意に聞いてみた。

 そうですねと彼は答えて、タバコを一息、くゆらせたものである。

 ここは喫煙可能な区域であった。

 その時、始めて彼は顔を上げて私を見た。

 しわが皮膚に浮き出ている。目は逆三角である。鼻はひらったい。顔は日焼けしている。否かの百姓という顔である。

 彼は一服した後、語り始めたのである。

 実は日頃、懇意にしていた友人が退職しまして、ある博物館に勤めることになったのです。博物館と言っても小さな資料館です。江戸時代の庄屋の屋敷跡で遺族が寄付した物を市が管理し、一般に公開をするというものです。

 彼から見に来ないかと誘いの電話があった訳です。

 私も帰省の途中に時間があったものですから立ち寄ることにしたのです。

 私は博物館のある場所を聞いた。

 場所は言えませんと答えて彼は答えて、話し続けた。

 気味が悪いと評判でも立ち、紹介してくれた彼や博物館に迷惑が掛かると困りますから。とにかく私は彼が指定した駅で指定された時間に電車を下りました。小さな田舎の駅です。駅員が一人で切符を回収しているだけで周囲には人影はありません。個人的な事情ですが、車は乗りません。自動車免許は持っています。でも運転中に幽霊の姿を見つけて我を忘れることが恐いのです。

 とにかく、焼けるような熱い夏の真っ盛りです。駅舎を出ると国道を目標に歩きました。常に日陰を探し、そこを飛び石を伝わるように歩くのです。二十分ほど歩いたでしょうか。大きな楠の大木が目にとまったのです。

 何のことはない。それは彼が勤めている博物館の中庭に茂る楠です。白と黒のなまこ模様のに壁が囲まれて二階建ての古い木造の建物が姿を見せています。それも見覚えのある古民家です。実は訪れる前にインタネットーで調べていたのです。

 蝉の声以外に物音はありません。もちろん人の気配などもちろんありません。

 焼けるような暑さを逃れるような屋敷に飛び込み、楠の根元の日陰に逃れました。

 するとどうでしょう。

 突然に身体が冷気に包まれた。全身の汗も一挙に引き、真冬の寒い世界に放り込まれたのです。

 急激な変化に目眩がしました。正常な感覚を取り戻し、見ると楠の木が生い茂る薄暗い幹の周囲に沢山の人々が集まっているのではないですか。

 先ほどまで聞こえていた蝉の鳴き声も一切、途切れてしまいました。一言で申すと音のない無音の世界です。

 先ほど申したとおり人の気配には気付きませんでした。だが現実には多くの人が楠の木の幹を囲みに集まっているのです。

 奇妙な感覚に震えました。寒さは感じますが、そのせいで震えたのではありません。気味が悪いのです。

 多くの婦人は久留米絣の青いモンペ姿を着ています。男の多くはカーキー色の服を身につけています。

 自分が別の世界に紛れ込んでしまったことに気付きました。かえっていつものとおりのことで冷静に戻れます。

 背の高い痩せた中年を過ぎた立派な男性が人々の中央に立っています。立派なあご髭を蓄えて、筋骨たくましい男性です。

 彼が主人公のようです。

 彼は集まった者一人一人と名残を惜しんいます。

「不安に怯える者にすぐに帰って来る」と彼は約束をしています。でも、それ以上のことは解りません。何しろ彼らの会話は聞こえません。ただ彼らの表情や唇の動きで想像するだけです。

 中年の男性は小さな木戸を開け、門の外に一歩足を踏み出すと、家の方を振り向き、深く頭を下げます。それきり彼は後ろを振り返らずに歩き始めたのです。

 見送る者も彼の後を追い続けました。

 私も見送る人々の後を着いて行きます。

 田畑の中の細い小道を人々は黙々と歩き続けます。

 周囲の景色は田園風景です。

 収穫を終え、冬枯れの田畑の景色は飢えと寒さを感じさせる殺風景な景色です。

 やはり二十分ほどで駅舎に辿り着きました。

 すぐに黒い煤の混じった煙を棚引かせ蒸気機関車がホームに滑り込み、黒い車輪の間から熱く白い水蒸気を勢いよくはき出し、そして蒸気機関車は止まりました。中年の男性は一人、扉を開け、汽車に乗り込み去って行ったのです。

 私も無言の人々の中で、彼の乗る汽車の姿が見えなくなるまで見送りました。

 突然、私に声を掛ける者が居ました。実は、それまで誰も私に声を掛ける者などなかったのです。

 振り返ると駅員が不思議そうに見つめているのです。

 彼は私が切符を渡した駅員であり、その時に博物館までの道順を教えてくれたのです。

 周囲の景色は先までの冬枯れした殺風景な景色と全然、違います。周囲には濃い緑の木々や草がうっそうと茂る田舎町の風景が広がっています。日差しは強く、地面を照りつけています。

 人々の姿はありません。

 古い茶色の木造駅舎もありません。目の前の駅舎はコンクリート平屋のクリーム色の駅舎です。

 人々が別れを惜しんだ土の広場にはアスファルトが張られ、白いペンキで区画表示がされた駐車場になっています。

 駅員は道が解らなくなって戻って来たのかと質問をしました。

 複雑な話をして時間を無駄にしたくなかったので、大丈夫だとだけ答えて、博物館の方へ、四十分前と同じ道のりを辿り始めたのです。

 博物館に着いて友人から話を聞くまでは何が起きたのか正確には理解できませんでした。

 おそらく遠い昔の出征兵士を見送る場面にでも紛れ込んだのではないかと思ってもみましたが、陰鬱で暗い風景で雰囲気が違うのです。

 否定する理由は、出征兵士を見送る時の、日の丸を打ち振る興奮や、にぎやかな風景はなく、人々の歓声も万歳の声も聞こえません。

 それに見送られる男性は年を取りすぎているのです。

 疲れた足取りで道を博物館の方に戻り、やっと友人の勤める博物館に、ふたたび辿り着いたのです。


 その時は友人が門の所で待っていました。

 彼は私が約束の時間に現れないので案じてくれていたのです。

 彼に体験したことを簡単に話しました。

 彼は私が幽霊を見る能力を持っていることを承知していましたが、さすがに身近に起きたことに驚いた様子です。

 友人が驚きながら断言しました。

 この屋敷に関係したある軍人だったにちがいない。その軍人は無事に戦地から復員して来たにも関わらず、昭和二十三年にB級戦犯容疑者として巣鴨プリズムに拘置され、二度とこの家に戻ることはなかった。

 無実であったにも関わらず、裁判の結果、銃殺刑に処せられのである、

 この軍人の名前は博物館の名や場所を明かせないのと同じく理由で明かせない。

 気味悪い話と世間に広がってしまっては博物館にも迷惑をかけかねないからである。

 彼は昔の軍人であった。

 昔の軍人の中には悪い奴もいたが、彼は立派な軍人であったことは間違いあるまい。

 人間同士が殺し会う戦場のことである。彼がいつも良い軍人ではったと断言はできない。しかし、彼は立派な軍人でいようと努力したことには間違いない。なぜ無実の彼が戦争犯罪者として裁かれ、銃殺に処せられたのか。

 身近にいる悪い奴が罪を犯し、人の良い彼に罪を被せたことも考えられる。

 彼の死で命を救われたの者は、お人好しな彼をあざけ笑い、幸運な自己の運命をほくそ笑んだのでなかろうか。

 あるいは内心、この家の主人は白状しても自分の命は救われない。悪い奴でも敵よりましだと思ったのかも知れない。

 まだ考えられる真相がある。

 博物館の友人が言うとおり、にわか裁判官になった敵国軍人が、善政を行い、民衆の支持を得た彼に嫉妬し復讐を図った結果かも知れない。

 真相は空白のままです。

 真相など追究しても彼は生き返りません。

 彼が生前に治めた地域の住民が銃殺処刑後に彼に贈った感謝状が唯一の救いです。

 ここまで彼が一気に喋り続けた。

 私は思わず、「待って下さい」と彼の言葉を制止した。

彼は言葉を止め、激しい息づかいで呼吸を繰り返していた。

 私は彼が喋り始める前に彼に忠告した。

「あなたは勘違いしているだけではないか」

と。勘違いと言う言葉が彼の症状を的確に示す言葉か吟味する時間的な余裕などはなかった。

 私は彼が最初話した道端のお地蔵さまに関係する体験談を用い、彼を正常な世界に引き戻そうと思った。

「あなたは母に送られて家を出る子供の姿を幽霊を見た。気付くと道端にお地蔵さまが立っていた。それはあなたの見た現実の光景と想像して出来事が、時間的に逆転し記憶に残った光景ではないのですか」

「時間が逆転するなどとはどういうことですか」

 彼の目付きが物の怪に取りつかれたようなうつろな目ではなく、正気に戻ったようなしっかとした輝きになった。

 私は続けた

「あなたは現実に道端のお地蔵さまを現実に見た。次にそのお地蔵さまがそこにある理由は通学中の小さな子供が事故に会ったにちがいないと想像した。そして母に送られて家を出る子供の姿を連想した。これが現実に起きた出来事です。時間が逆転し記憶に残るとは、あなたの想像が先に起きて、その後に地蔵の姿を見たと言うことです」

 彼には私の言わんとすることが理解できないようであった。

「それでは直接、今回の幽霊話の例で説明します」と言った。話題を変えて説明した方が相手の理解に結びつくこともあるのである。

「あなたは幽霊が列車で去る姿を見送った後で正気り戻り、博物館にたどり着いた。そして出迎えてくれた友人に不思議な体験談を話し、その館に関係する軍人が辿った運命を当時時代に戻り見たと思い込んでいる。でも現実にはその軍人が辿った運命を知っていのです。すでに友人からその館の軍人が辿った運命や戦犯容疑で巣鴨拘置所に収容されていく時の具体的に姿を聞いていたのです。もちろん彼が銃殺され、その屋敷に二度と戻って来なかったこともです。私にも悲しい話しです。きっとこの話は、あなたの脳裏深く刻まれていたのでしょう。前後の様子から、あなたは軽い熱中症ににでもかかっていたかも知れません。その時に記憶の中に深く刻まれた悲しい物語が幽霊として現れたのです」

「医者も同じような論理で私の体験を説明しようとしますが、違うのです」と彼は強く主張した。

「私が体験したことを事実だと証言してくれる証人もいるの。約束の時間になっても来ない私を案じて門の外で待っていた友人だ。私は、その時に何はともあれ、彼に自分が体験した出来事を話した。もちろん彼は驚いた。彼は自分がこの家の主人に関して聞き知った話とまったく同じだと叫んだ。その驚く姿はそれまで私にその館の主人の運命について話したことがない時の驚きであった。同時に異界から戻った私の対する驚きであった」

「友人を関係ないことにしよう。それでもインタネットーを通じて、その軍人の運命を把握していた」

「あなたが私の記憶違いを説明しようとする論理は理解できる。だが私が体験したことに何の 不思議なことや不自然なこともない。家を離れる軍人の思いと彼を見送る人々の悲しい思いが屋敷の楠の周辺に今でも強く残っていた。それを私は感じただけの話しだ」と言い、私は病気などではない、ここに来れば、あなたのような人に話を聞いてもらえるから来たのだと言い残すと診察も受けずに彼は帰ってしまったのである。

 自分の仮定したとおり記憶が時間軸の中で逆転したり、想像したことやすでに得ていた知識を現実に起きたことと思い込んでいるなら彼は記憶に関する病に罹患していると診断されても不思議ではないのだが、私は彼を引き留めることはできなかった。

 彼の行動の素早さのせいであり、彼の理屈に対し、私が唱えた理屈が正しいのか迷いがあったせいである。この迷いは違和感として心の中に巣くい続けた。

 その後も、幽霊を見ることは不思議で特別な出来事ではないとする彼の主張は脳裏から離れなかったが、彼の主張が納得できる時が突然、来たのである。自分自身が体験したカウンセラーでの小径での出来事を思い出したのである。

 彼が博物館の楠の下で異界に紛れ込み幽霊に出会ったことと私がカウンセラーの小径で梢たちの話を聞いたことと大きな差異はないことに気付いたのである。

 それにしても理由も対象も不明だが、胸の中に違和感が残った。

 それもしばらくして氷解した。

 彼は自らの体験を幽霊を見たと説明したが、少し異なるように思えたのである。彼は時空間をすり抜け過去の風景に戻ったと説明すべきではないかと思ったのである。

 いずれにしろ不思議な能力であることには間違いない。



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