第13話謀略男(患者十七号)

 今回の医師はあわただしく私が待つ部屋に入って来た。

 医師の現れ方には二つのパタンあった。

 静かに姿を現す医師と、今日のように慌ただしく現れる医師である。慌ただしく姿を現す医師は、慌ただしく姿を消すのが普通であった。いずれにしろ忙しい勤務の合間に時間を割いて正面のホテルを思わせる立派な病棟から駆け付けて来てくれているはずであるから、感謝の念を抱きこそすれ、悪くは言えるものではない。

 彼はひどく汗をかいている。多汗症のように見えるが、Mの命令で小走りで旧い病棟に駆け付けて来たせいだと思えば同情の念さえ覚える。

 それにしても今日まで何名の医師が私のために時間を割き、話をしてくれただろうか。五十歳を超した就職希望者のために時間を割きすぎるのではないかと疑問を感じるが、従うしかない。

 慌ただしく現れた医師を呆然と目で追いながら、頭の中ではこれまでの医師のパターン分け、彼の位置づけを行っていた。

 だが彼は私の妄念を許さなかった。いきなり話し始めたのである。

「患者十七号について話すように指示されています」

 もちろん指示をしたのはMに間違いはあるまい。

 一見、医師は筋骨もたくましくスポーツ選手のようにも見えた。年は五十歳を超していることにはまちがいあるまい。額に汗が滲んでいた。


「患者十七号は生まれつきの被害妄想癖が高じた結果、自己の周囲で起きる現実の出来事を正常に把握できなくなった」

 周囲の出来事を正常に把握できなくなったと頭の中で整理した。妄想を見るようになったのだろうかと思い、医師に尋ねた。

「分裂病の一種ですか」

 分裂病とは頭脳の中に直接、電波が飛んできて指示を与えたりする病気である。それは神様の指示であったりする。今では統合失調症と呼ばれているが、決して珍しい病気ではなく百名に一人の割合で罹患すると言われている。被害妄想や 、周囲の出来事を全て自分に関係付けてしまう関係妄想、常に誰かに見張られていると感じる注察妄想などがある。自分は神だと思い込む宗教妄想や配偶者や恋人が不貞を行っている信ずる嫉妬妄想もある。

「彼の場合は、その中でも被害妄想や注察妄想に当てはまると他の医師は診断します。だが私は彼の普段の言動や彼が告白する半生から人格が歪んだせいにしか思えないのです」

 と医師は言った。彼だけが患者十七号の弁護を行うことも不自然である。年齢から患者十七号のことを話す医師はベテランの部類に入るはずである。しかも患者十七号について話す以上、彼は患者十七号の主治医でなければならないはずである。

 他の医師に妥協をせざる得ない事情でもあるのであろうか。違和感を感じつつ、質問した。

「と申しますと」

「彼が歩んだ半生のせいです。半生の苦しい経験が彼を追い込み人間を変えてしまった」

「他の医師が患者十七号を分裂病と言い立てる中で、あなただけが彼の症状は異常性格の分野だと判断するのですね」

 医師はうなずいた。

「歪んだ人生観や世界観だけが異常であり、彼は正常人の範疇であると判断されるのですか」

「そう言うことです。立ち上がろうとすると、彼の内部告発を恐れる者の手で叩き潰される。彼の人生はこの繰り返しだった。その挫折が彼を異常性格者に変えた」

 と医師は鷹揚に解釈した。

「患者十七号が自ら歩んだ人生に耳を傾ける時に恐ろしい出来事が多すぎるのです。赤裸々に話すと彼の人生の大半は謀略で翻弄されたと言っても過言ではないでしょう」

 今度は謀略か。先の戦争男の話に続き物騒な話題が多い。

「彼は人間不信に凝り固まっています。彼の家族は彼が大きな犯罪に手を染めないうちに社会と隔離をせねばと彼をこの病院に連れて来たのです」

「すでに小さな犯罪には身を染めたのですか」

 興味本位の質問である。私は小声で聞いた。

「犯罪と言うには及ばないかも知れませんが」

 と医師は言葉を濁しながら、私の疑問に答えたが、具体的には言わなかった。これ以上は患者十七号のプライバシーに関わることだとの判断したのである。

「私たちの年代では、朱に交われば朱に染まる言う言葉をよく耳にしたものですが、最近ではめったに耳にしなくなりました」

「そうですね。友達を選べと言う言葉が続きましたね。最近では耳にしない言葉です。朱に染める原因が友達関係だけではなく、マスコミなど広い分野になったせいではないでしょうか」

「彼のケースは極めて珍しい閉鎖社会故に起きた出来事だと言えるでしょう」と医師の分析である。

 これから具体的な話に移るのであるが、患者十七号の妄想として片付けられる部分も多いのである。このようなことに周囲に極端な不信感を抱くことで彼は被害妄想だと言われ、彼自身がこのような行為を是認し、やがて犯罪を犯すことになるのではないかと家族の者は恐れ、彼を病院に閉じ込めることにしたのである。


「ことの始まりは内部告発をするのではないかと疑われたことから始まります。監視体制や謀略行為が行われたのではないかと患者十七号は信じるのです。内部告発をされると困る者が一同に会したのです。そして帰属意識に欠けると言うレッテルが彼に貼ったのです」

「きぞくいしきとは」

 耳で聞いただけでは理解できない言葉である。

「組織に愛着を抱いていないということでしょう」

「だから内部告発をすると。逆の場合もあるように思いますが。帰属意識があるからこそ、正義感に燃え内部告発することも」

「愛社精神とはちがいます。彼らは帰属意識と言うのを会社に付属物のように属することと理解したのです」

「やがて、他の色々とレッテルを張り付けたようです。彼と同期入社の不始末も彼のことにするとか」

「そんなことができるのですか」

「時が経つと記憶もあやふやになり、鮮烈な印象だけが伝説のように残った。彼が去った後は、すべての悪い印象を彼に重ねた」

「そうすることで利益を得る者たちも存在した訳ですね」

「そのとおりです。徹底的に彼を潰しておかねばならない。公益性はない。個人的な都合のためにです」


「Y乳業やF製菓でも、同様なことが起きたのでしょうか」

 彼の話ほどには執拗な嫌がらせはなかったでしょう。

「内部告発を防ぐために徹底的に患者十七号は打ちのめすしかない。患者十七号の言葉を借ります。でっち上げ、責任を転嫁、身内に都合の悪いことはかんこ令をしき隠蔽工作をするが、患者十七号に都合の悪いことは大声で言いふらす。彼の面子を潰すために配偶者を脅迫し、家庭を壊すことも辞さない。自己のグループの増殖を図るために不公平な人事を当たり前で、患者十七号に同情する者の家には放火を脅迫する。失敗をしそうな困難な仕事をさせて失敗を狙う。うまくやっても正当な評価はない。彼らのグループを葬るためには会社ぐるみで、どのような手段も辞さない」

「そんなことが法的に許されるのですか。まして放火は明らかに違法行為で、殺人以上に重罪になることもあるのでしょう」

「勝てばいいのです。相手が恐怖で口を閉ざしてしまうようになってしまえばよいのです。火災で家族全員が焼死すれば誰も口を出しません」

 

「それにしても極端すぎる。なぜ患者十七号はそんな風に狙われたのですか」

「理由を探ってはいけないこともある。彼はあまりに個人の事情や職務上のことで多くの知りすぎたのです」

「その秘密の暴露は会社全体を危うくするのですか」

「会社が揺らぐほどの秘密ではないと思います。ただ一部の人間の地位が危うするだけでしょう」

「それでは多くの社員は会社の事情を暴露した方が身軽になったでしょう。会社のためにもなったはずです」

 医師は顔を曇らせて言った。

「客観的に見ることが出来なかった。愚かとしか言いようがない。あるいは小さな過ちを重ねるに連れ、脅迫観念が増加し、会社全体が次第に抜け出ない深みに入った」

「会社全体が脅迫観念に支配され、自浄能力さえ失ったと言う訳です」

「一体、患者十七号は会社の、どのような秘密を知ったのですか」

 私は最初、彼が知った秘密が問題にするに足らない小さな秘密だったのではないかと想像した。医師は言いたがらないのは、患者十七号の属した会社が暴露されるのを用心しているにすぎないと想像した。だがこのままでは抽象的すぎて話を進めることはできない。医師もそれは理解しているようである。だが具体的に話すことも出来ない。

 彼は用心深く周囲を伺い、私に聞いた。

「バナナで一番、美味しい頃合いはいつ頃ですか」

 突然の話題に戸惑っていると、彼は自ら答えた。

「私は発酵しかけたバナナが大好きです」

 要するに腐りかかったバナナが好きであると彼は言いたいのである。

「私もそうです」

 腐敗しかけたバナナが好きだとか突然、他人に告白する者を正常人と見なして良いのだろうか。

 あるいは正常な者が突然、このような下品なことを口にするのだろうか。

 だが彼は医師である。まぎれもなく自然科学を極めた立場であり、自然界の摂理の中には人間が後天的に得た正常な感覚は異なる異常な感覚もあることも強調したいのである。

 人間は秩序や清潔さを好む感覚だけでなく、太古の昔に人間がソドムの市に封印した不潔や猥雑、無秩序を望む本能も持ち合わせているのである。

「それなら話が早い。その線で説明していきましょう。彼が勤めていたのは大手の洋菓子店です。その洋菓子店では実は発酵しかけたバナナをクリームを混ぜて独特な風味を出していたのです」

「と言うことは、F製菓やY乳業と同じ賞味期限の問題と見て良いのですね」

「そう言う風に仮定してください」

「それは法律違反ですか」

「大腸菌がウヨウヨいるから法律違反だとしましょう。でも近所の評判はすこぶる良い。それに経費は安くて済む。腹を壊したと言う噂を時には聞くが、彼らの店に断じて関係ないと言い張ることで言い逃れることができた」

「患者十七号に親しい者は彼が不幸な目に遭う理由を探った」

「彼のプライバシーに触れることになるのでは」

 患者十七号にとって迷惑この上ないことであったろう。

 医師も頷いた。

「良いことは話題にならない。悪いことだけが噂として広がることになった。隣人の不幸は密の味という言葉があるように、人は他人を良く言うことはない。特に社会的にライバル同士では彼をけ落とすために使える世評はすべて使おうとする」

「もし平和的な普通の人が、このような世界に投げ込まれたらどのような結果になるだろうか」と医師に聞いた。

「対応はできないでしょう。翻弄されて右往左往するだけです。戦うしかない。だが戦う対象が解らずに患者十七号のように自己を責めたり振り返る者なら、朱に染まるしかないでしょう。それまでの世界観や人生観が崩壊してしまうことになるのです」

「それでは彼は」

 その後に適当な言葉を見出せずにいると、私の沈黙を受けて医師が言葉を継いだ。

「そうです。今、あなたが考えたとおりです。彼は規範を失った。これまで彼が持っていた人生観、人間観、世界観は微塵にも砕かれてしまった。それは彼の周囲の多くの者も体験した」

 人間観の破壊、世界観の破壊、心療内科の世界とは次元が異なる言葉である。

「彼は本当に分裂病ですか」

 医師答えて良いものか戸惑いながら、答えた。

「最初に触れたように病気ではないと私は信じています」

「それでは病院に拘束してはできないのではないですか」と私は反論した。彼の表情が険しくなった。次の質問を予想したようである。

「病気でない者を病院と言えども拘束しておくことは法的に問題があるのではないですか」

「過去に規範を失った者を退院させ、彼が大きな事件に起こし、責任を追及されたことがあった」

「病院としての社会的な責任ですか」

「彼を不幸な形で病院内に拘束しておけば、ますます被害妄想に駆られ、世間を恨むことになるのではないか」

「だがこのまま彼を野に解き放つことはできない」

 出口の見出せない迷宮に迷い込んだようである。

「この病院だけでは解決できることではない。かっては彼の良心は正義が行われることを求めていました。法廷で争うことも辞さないと考えていました。だがその時期も過ぎたかもしれない。規範を失ったまま彼を解放すると、彼自身が新たな犯罪を生み出すことになりかねない。これは彼の家族が恐れたことである。だから解放できない」

 はたして医師が話すことだけが不安の材料であろうか。ほかにあるような気がする。

 もちろん患者十七号に会ったこともないし、本人の人物像も把握しないが、収束しないボンヤリとした灰色の疑念が心の中に充満した。

 それは、彼を野に放つことを喜んでいる輩がいるはずである。彼の内部告発を恐れる輩がいるはずであるという確信のせいである。はたして患者十七号が握る内部告発の材料が現在でも有効かどうかも不明である。

 この瞬間、私の脳裏にこの話の出来事がこの病院内で起きたのではないかと言う疑念が頭脳に巻き起こった。

 私の思い浮かべた疑念に気付いたようである。見る見るうちに医師の彼が顔面が蒼白になった。

 後日、私は思い知ることになった。

 患者十七号は私の前任者であった。

 彼が把握した秘密はボイラの燃料代の見積もりを算出する数式に関わるものであった。大規模な消費者は年間の燃料消費料を予想し燃料会社と契約するのであるが、この数式この数式にはこの病院の名前がかせられていた。すでにこの病院以外ではこの数式は使かわれていないが、名前だけが残っていた。この数式ゆえに有名な病院である。だが旧い数式で最新のボイラーの消費料を計算するとずいぶん無駄な金額が生ずる仕組みになっていた。病院では頑固にそれを固執していた。しかもその差益分が使途不明金として行方不明などである。


 私はこの問題にメスを入れようとした。

 その時、周囲からとんでもない妨害工作を受けることになった。その時の様子を書いておこう。

「駄目だ。絶対に駄目だ」

 彼は世界がひっくり返らんばかりの大声で喚いた。

「なぜだ」

あなたには関係ないはずだ。

「それともこの規則を造ったのはあなただと言うのですか。そうではない。だが自分を引き上げてくれた恩人だ。私以外にも多くの者が彼のおかげで現在の地位に上り詰めることができた」

「燃料の消費量を見積るための算定根拠は完璧でなければならない。そしてこの見積の根拠が正しいものであるとするために熱くてもボイラーを焚かねばならないのだ。

 なぜそこまでこだわる。神様が造ったものか」

「そうだ」

「神様が造った数式だ」と彼らは言ってのけた。

「神は存在するのか」

「存在させねばならないのだ」

 と彼は言い切った。


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