第10話消しゴム女(患者十五号)

 私は、いつものように狭い診療室で待っていた。前回で十四人の患者の話を聞いたことになる。今回は十五人目の患者の話である。 患者十五号の物語であると言う訳である。

疲れてきたのは事実である。早くMが望む二十八名の患者の臨床例を聞き終え、整理をしたいものである。

 予備の診察室の肘掛けのない灰色の粗末な事務用椅子に深々と腰掛け話をしてくれる医師の入室を待った。

 廊下から引きずるようなスリッパの音と声が聞こえた。

 耳を澄ませると音楽のようである。次第に私のいる部屋に近づいて来る。

 聞き覚えのあるリズムとメロディーである。だがすぐには思い出せない。なにしろ突飛な歌詞である。

「ハイ!タケコプター」

 アンアンアン とってもだいすき ドラえもん

 しゅくだいとうばん しけんにおつかい

 あんなこと こんなこと たいへんだけど

 みんなみんなみんな たすけてくれる

 べんりなどうぐで たすけてくれる

 おもちゃの へいたいだ

「ソレ とつげき」

 アンアンアン とってもだいすき ドラえもん


 耳を疑った。

 まちがいない。ドラえもんの主題歌である。精神病院でこんな曲を聴くとは夢にも思わなかった。何が起きたのか不安に思ったが、Mの指示で勝手にこの診察室から外に出ることは禁じられていたので待つしかない。


 あんなとこいいな いけたらいいな

 このくに あのしま たくさんあるけど

 みんなみんなみんな いかせてくれる

 みらいのきかいで かなえてくれる

 せかいりょこうに いきたいな

「ウフフフ!どこでもドアー」

 アンアンアン とってもだいすき ドラえもん

 アンアンアン とってもだいすき ドラえもん

 

 ここで突然、ドアが開き例の女医が姿を現した。

 私が容姿やしゃがれた声からドラえもん婆さんと心中ひそかにあだ名で呼んでいる女医である。あだ名で呼んでいることを気付かれたのではないかと恐れた。ところが彼女は私の不安などまったく関知せず、ラジカセから流れる曲に合わせて歌詞を口ずさみ、肘かけがある椅子に腰掛けた。

 彼女が手にするラジカセから流れるドラえもんの主題歌は終わっていたが、彼女は歌い続けた。

「みんなドラえもんに何をおねだりする」

 とまるで幼稚園の子供に聞くように私に質問した。

 そして私が答えを造る間もなく彼女自身が子供の声音で答えた。

「記憶の消せる消しゴムが欲しい」と

 そこまで言うと、彼女はいきなり正常に女医に戻った。そして世間並みの挨拶を寄越した。

「二週間ぶりね」

 私は急激な変化について行けない。

「何を驚いているのです。演出よ。すべて演出」と女医は繰り返した。

 奇妙な演出に度肝を抜かれたままである。

 彼女の医師として研究分野は患者の欲求を解消することで治癒に結びつける医療方法の研究である。それは多くは演出が必要である。時にはだから無意味なことではない。

 このように奇妙に見える行為も最先端の医療行為の一つであると説明を受けていた。人間の思考や神経と密接に関係する心療内科では治療法が完成したとは言えない。日々進歩している。これはほかの医療分野でも同じあろう。心療内科の分野では患者が心を病むに至った経歴を解明するために患者の欲求不満やストレスの理由を知る必要がある。逆にストレスや欲求を解消することで治療できないかと彼女は考えて、それは演出によってなされる。時には仮想法廷を演出することもある。

政治家を目指した挫折して心に傷を受けた者に対しては聴衆を集め、演説会を開くこともある。医師になろうと猛勉強を続けたが、挫折し、心の病を得た青年のために模擬診察室を設けることもする。もちろんお医者さんごっこなどではない本格的な診察室である。模擬の診察だけである。

「演出がすぎたみたいね」

 反省する言葉を聞いて少し救われた。

 彼女が医師であることを疑う余地はない。

 なにしろ白衣を着ている。

 私が落ち着くのを見計らって彼女は質問してきた。

「どう今日の演出は。うまくいくかしら」

「患者に使う治療方法ですか」

「発明家に試してみようと思いますの。今日の話の主人公です」と言い、「今日は患者十五号ですね。研修も半ばです。がんばりましょう」と彼女は私を励ましてくれた。

「ところで狂った人間とは、どのような人間だと思いますか」

「この病院に世話になる患者たちのことでしょう」

 それは、そのとおりです。でも彼らとあなたは、どこがちがうのですか」

 と彼女は聞いてきた。

 私は答えに窮した。

「可塑性のあるかないかの違いです」と教えてくれた上で、さらに詳しく説明した。

 世の中には奇妙な性癖を持つ者が沢山いる。正常な者でも時には奇妙な行為をすることもある。だがそう言う人がすべて、このような病院に来るとは限らない。彼らはが医者の世話にならずに正常に戻ったからである。だから病人ではないと言う訳です。放置しても正常に戻る可塑性があったのである。だが可塑性がない場合は、病院で医師の治療を受けるしかない。可塑性のあるなしは一個人だけではない。社会全体でも大きな問題になるのです。可塑性がなく、正常な判断を失ったまま、それいけドンドン、行け行けと破滅の淵まで進んだ歴史的事実もあった。

 と彼女は説明した。

 私自身も定年後にこの種の病院に務めようと方向を定めて以来、本を読みかじったおかげで女医が説明することを理解する知識は持ち合わせていた。

 彼女は日本の戦前の歴史にも明るかった。

 厳しい受験戦争に打ち勝つために猛勉強をしたせいであろう。

「患者十五号、発明狂ですか」と言葉を反芻した。

「もっと焦点を絞りましょう。消しゴム女です」

 女医は笑って訂正した。

「女性ですか」

「そうです」

 今回の話で女性に登場するのは三人目である。

 最近、韓国映画で私の頭の中に消しゴムがあると言うのを見たが、すべての記憶が消えてしまう前にヒロインの前に彼女の人生に係った家族たちが集まる最後のシーンには号泣してしまった。あのような悲しい物語であれば読者にも受けるはずである。

 常日頃、私の作品をパックリなどと批判する読者の攻撃の矛先を緩めることもできるにちがいない。

「発明家になりたいなどと夢を描いたのは小学生の頃ですか。それとも思春期を迎えた頃ですか」

「ぶー」と彼女は口を尖らせ否定した。

 いつもに比べて陽気に見える。

「その頃には発病の兆候も切欠もその頃にはなかったようです。大人になってからです。恋のためです」

 まず大人になった女性が発明家になりたいなどと夢見ることがあり得るのだろうか。テレビで特許で多額の収入を得たという成功談が放映された次の日に発明家志望が増えることがあっても、それは一過性のものであり、一時間後には現実の世界に戻っている。まさしく普通の人間には正常な可塑性が備わっているのである。

 人間の感覚や感情、思考する能力は神秘的な存在であることは否定しない。だがすべて物質の動きで形成されていることが解明されつつある。たとえば心臓などの鼓動はコリンエステラゼという物質が介在し、それを抑止する役割を担うアンチコリンエステラゼとの正常なバランスの上でしか生きていけるのである。このバランスが崩壊した時に人は生きていけなくなる。そしてこれはオウム真理教の教徒が地下鉄の駅で散布した神経剤は、その両者の働きのバランスを崩壊させるのである。痛みのを感じるのも麻酔などで緩和される状況をみると物質とは無関係ではないにちがいない。喜びなど喜怒哀楽を感じるのも、物質が介在しているにちがいない。そして考えることもである。この種の病気が発症する理由にも物質のバランス崩壊が介在しているのではないかと思うのである。物質の介在が証明されれば神秘性は低減される。不要な畏れも低減される。脳が異常を来すのは病気の時だけではない。飲酒によっても異常を来すが、酔いが醒めればもとに戻る。麻薬を常用すると元に戻ることができず異常な世界に引き込まれる。可塑性が失われたのである。

 誰しも一度や二度は自分がおかしくなったのでは不安に思うことがあるはずである。自分ももちろん体験をした。だが人に簡単に打ち分けられることではない。そのような時にはひそかに悩むより専門書とは言わなくても入門書を読むことで救われた。

「彼女は有能な薬剤師でした」

「薬剤師ですか」

 誰もがなれる職業ではない。

 大学の薬学部を卒業して、国家試験にも通らねばならない難しい関門を通過した者しかなれない職業であるはずである。医師になれなかった者が選ぶ道である。

「人が狂う狂わないの分岐点に学歴は関係なくてよ。むしろ最近では高学歴の者の方がなる者が多いようですよ」

「でも具体的にどのようなことをしたのですか。試験管やビーカー、フラスコの中に薬品を入れ、混ぜ合わせたとですか」

「そうですね。それ以前に彼女は古今東西の本を秘薬に関する資料を集め始めました。秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めて世界中から集めた秘薬に関する資料、中世ヨーロッパの練金術に関する資料、魔女が使う秘薬。歴史上から姿を消した、秘薬という秘薬に関する情報をすべて集め、読み漁ろうとしたのです」

「恋の力とは恐ろしい」

「そのとおりです。彼女の秘薬探しに傾けたエネルギーや姿は鬼神も避けて通るぐらいのすさましさです」

 女医の言葉から少し異常な気配を感じ始めた。

 髪を振り乱し、目を血眼にし昼夜を問わず、古書を読み漁る姿である。

「恋のためですか。相手は男性ですか」と思わず彼女の言葉を反芻し、奇妙な質問を発した。

 倒錯的な雰囲気を感じたのである。あるいは偽善的なインチキ臭い臭いである。

「もちろんです」

「彼をワッペン男と呼びましょう。彼との出会いがきっかけになりました」

 面白いあだ名である。あだ名から顔と言わず全身にワッペンでも張り付けている姿を連想した。

「この病院では表面的にものを見るのはタブです」と注意した。

「それではワッペンとは何ですか」

「苦しい記憶です。あなたにはありませんか」

「一杯あります。とりあえずそのワッペン男との出会いが、彼女を発明への道に邁進させた訳ですね」

「そう言うことです」

 いつもの女医とちがう。以前はこのような軽い会話がなりたたなかった。

「でも過去の記憶を消せる消しゴムを発明しようなどとは突飛な発想ですね。出来たら面白いですね」と私は軽く言った。

「突飛かも知れませんが、でも心療内科の治療にとっては、とっても有意義な発明です。彼女が両親に付き添われ、始めて病院を訪れた時にMも、この話を聞き、注目したのです」

 Mが話に登場した途端に、急に現実的になった。

「多くの人が過去と決別して生き直したいと願っています。の病院に通う軽度の症状の患者の大部分もそうです。あなたもそうでしょう」

「彼女が発明しようとした記憶を消せる消しゴムが医学界でも役に立つのだと言うのですね」

「そのとおりです」

「ところで研究の成果はどうだったのですか」

「彼女は読み漁った古今東西の医学書から結論を得ました。そしてあなたの言うビーカーやフラスコを部屋に揃え薬の調合にとりかかったのです。数ヶ月後に彼女は成功したと確信できる薬を手にしました。恋人に投与する前に実験をする必要があります」

「まずは動物実験ですか」

「そうです。彼女は目の前を横切る愛猫に気付きました」

「猫で記憶の消滅が試せるのだろうか」

「薬に毒性があるかないかは確認できます」

「彼女は猫をだまし、ヒザの上にのせ、小さじで薬を投与しました」

「猫は無事だったのですか」

 女医は頭を傾げた。

「ほんの一瞬、奇妙な表情で飼い主の彼女を睨みましたが、フギャーと恐ろしい悲鳴を残し家を飛び出してしまったのです」

「毒性はあった訳ですね」

「解りません。でも、その猫は二度と彼女の元に戻ることはありませんでした」

「猫が家出をしてしまった訳ですか」

「記憶が失ったので家には戻れなくなったと彼女は判断しました」

 私は、哀れな猫が河原で死骸となっている姿を想像をしてしまった。

「彼女は諦めませんでした。ひたすら研究に打ち込み薬を完成させたと確信しました。とりあえず生物の身体に害を及ぼしそうな薬草を他の化学薬品に置き換え、調合しました」

「そして、また動物実験ですか」

「そのとおりです」

「今度は飼い犬が動物実験の対象になったのですか」

 彼女は驚いた。的確に彼女の次の言葉を言い当てようである。

「飼い犬にはドックフードに混ぜて与えました。すぐには変化は現れませんでした。だが彼女にも家族にも敵意をむき出しにし吠えるようになったのです。飼い主一家のことを忘れてしまったと彼女は確信したのです」

「犬が対象なのでしょう。そのような確信ができるのですか」

「彼女の個人的な力ではここまでが限界です。そこで恋人に試してみようと考えた訳です」

「まず自分で実験すればよいではないですか」

「彼女自身が無事でなければ恋人を救えないと考えたのです」

「恋人にどのようにして飲ませたのですか」

「草原にピクニックに誘い、お茶に混ぜました」

 実に解りやすい牧歌的な場面である。

「そこで男は気付いたのですか」

「少し味がおかしいことに気付き、断り続けた。あまり無理に進めるので押し問答を繰り返している間に気分が悪くなった。男は急いで病院に駆け込み嘔吐した。大事に至りませんでした」

「。彼女は諦めなかった。男に理由を告げ謝罪した。そして薬の調合を調整して、またピクニックに誘った」

「ところが男は彼女を入院させるように仕組んだ」

「そういうことです」

 と女医は答えた。

「男も薄情ですわね」

 と彼女は女に同情する感想を洩らした。

「彼女は、この病院に入院しているのですね」

「ええ、記憶を消せる消しゴムを発明し、愛する男を救おうとした彼女は、この病院に収容されています」

「男はどうなったのですか」

「彼は正常に戻った。今では過去のトラウマとも決別し、妻子を持ち幸せな生活を送っています」

「彼女の薬が効いた訳ですか」

「そういうことですわ」

「本当に記憶を消す薬を彼女は完成したのですか」

「具体的な薬品の調合は誰にも教えてくれません。でも完成はしたと公言しています。かっての恋人をトラウマから解放したのは彼女の投与した薬のせいだと。ただ、効き目が強すぎたと彼女は主張します。退院したら、もう一度、愛する恋人に投与すると言います」

「彼には妻子もいるのでしょう」

「そうです。でも本当の幸せは彼女と暮らすことだと信じ切っています」

「恐ろしい」と私は一言、洩らした。

「でも、彼女は本当に男を愛しているのですか人体実験の対象として見ているのではないですか。もし失敗しても彼を過去のトラウマから救うという善意から出た行為であり、精神疾患という病歴まで準備し罪を逃れようとしている。もともと彼氏は人体実験の対象を得んがために彼に近付いたのではないのか」

「それはないことにしておきましょう。彼女が開発した薬は人類の歴史上、重要な役割を果たすと言うことです。彼女の事業に比べたら人間一人の運命などホコリと同じくチッポケなものです。記憶を消せる薬が開発されれば、逆に喪失した記憶をよみがせる薬も開発が可能になります。アルツハイマ病の治療に画期的な効果を発揮できる。もちろん開発者には莫大な利益が転がり込むはずである。それだけではない。人間の判断基準に過去の記憶が大きな影響を及ぼしている。記憶を操作することで価値基準を操作することを可能にすることすらできる。個人のレベルだけではなく民族や国家レベルでも効果が期待できる。民族の伝統も記憶であり、信ずる信仰も記憶の固まりにすぎないはずである。それを操作できるようになると言うことは、これまで争いを原因になっていた記憶さえ消滅させることができる。逆に争いの種になる記憶を新たに植え付けることもできる。世界征服も夢ではない」

 女医は熱弁を振るった。

「彼女は、今は、どうしていますか」

「Mの許可を受けて実験も続けています。彼女は人の記憶を消す薬の調合には成功したが、邪魔になる記憶だけを消せるところまでは至っていない。その前には他人の記憶を覗き見る必要があると気付いたのです。今はその薬の開発に余念がないのです。研究の生家も思わしくないのです。だから励ましてやりたいのです。今日の演出を勇気づけてくれないかしら」

 と私に女医は質問した。

「彼女はきっと心の励みをえるでしょう」

 と私は答えた。

 もちろん唄だけでなく、ドラえもんを主人公にした前後の演出も必要であるが。

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