第3話力学の三大法則(患者三号)

心療内科病院に職業を得ることができるかどうか不明のままである。

 もうひとつの目的であった小説のネタを探すと言う目的は患者一号と二号の話を医師から聞き出せたことだけでも期待以上の成果である。

 その日も診察室で医師がやって来るのを数十分ほど待った。

 患者一号と二号の話をしてくれた医師とは異なる。私は様々に医師の面接を受けているようである。

 医師は診察室に入るなりすぐに話し始めた。無理もないことである。みんな忙しいのである。それは廊下を慌ただしく歩く医師の姿を見ると一目瞭然である。忙しい勤務の合間に時間を割き私に話をするには交代制を組むしかあるまい。廊下を行き交うスリッパの音が如実に示している。

 忙しい中で、そこまでして私のために時間を割く必要があるかと疑問を感じる読者も多いと思うが、理由は明確に釈明できる。

 当然、友人の紹介で私が小説家志望であることは事前に病院に伝わっている。

 私が作家としてデビューし、この病院を扱った作品がベストセラーになった時に病院が得る経済的効果を考えれば謎は解ける。現実から逃避し夢や妄想を追いかける小説家の妄想ではない。多額の宣伝費を使わずに大きな広告効果を得ることができるのである。だから病院側は総力を挙げて協力を惜しまないのである。

「不思議な人物について話します。時間がありません。手短に話します。彼を患者三号と呼びます。この患者三号の話も先生の期待を裏切ることはないはずです」

 彼は黒縁の眼鏡のツルを指で上げて話しなじめた。

「患者三号は自分が世界の偉人であると思い込んでいるのです。人類にとってかけがえのない存在だと信じ切っているのです」

「?」

「なぜそんな思い込みをしたのですか」

 このような論理的な質問が通ずる世界ではない。思わず声を上げた。後悔をしたが、医師は応えた。

「この世界のすべてを動かす原理原則発見したと思い込んでしまっているのです」

「妄想ですか。妄想は常人でもするはずです」

「たしかに、そうです。だが限界がある。患者三号はみずからが宇宙の支配者のように振る舞うのです」

「みずからを天皇と称する男性や皇后の娘などと荒唐無稽なことを称する女性の患者がいたことを本で読んだことがあります。そのような患者がこの病院にもいるのですか」

 医師は大きくうなづき言った。

「居ります。だが彼は自らを天皇などと称する訳ではありませんが」

 私は次の彼の言葉に聞き耳を立てた。

 外の廊下をスリッパの音が一層、慌ただしくなっていく。彼も落ち着かぬようである。

 何か起きたのだろうか。私も落ち着かない気持ちになった。

 医師は外の騒動の理由を説明した。

「急患が運ばれて来たのでしょう。めったにあることではないのですが」と。

「患者三号は自らを何と称しているのですか」

「彼は自らをアイシュタインの生まれ変わりで偉大な科学者であると信じ切っています。そして人間の社会における行動原理と力学の三大法則、慣性の法則、運動方程式、作用・反作用の法則を解明した偉人である信じ切っているのです。慣性の法則と作用・反作用の法則こそが、人間の社会や世界を動かしていると信じているのです」

 対人関係で自分が強く出れば、相手も強く出てくる。人間の社会の慣例や保守主義と呼ばれる人は慣性の法則に従い生活をしている人種である。

 至極、当然のことである。それを騒ぎだてるからおかしなことになっているように思える。

「そんな生やさしくはありません。患者三号の異常性はイギリスに行く必要がある。すぐに手配をしろと指示をするのです」

「どのような理由があるのですか」

「問題は計数的にそれらの動きを計測する運動方程式に準ずる方程式を作ることが彼の人生の最終目標だと信じて疑わないのです。そのために彼はイギリスに行き、大英博物館で研究に没頭せねばならぬと神からお告げがあったと主張するのです。なにしろ彼が言うには近世歴史のすべてはイギリスの大英博物館から始まると言うのです」

「?」

「マルクスも大英博物館で共産主義と言う新しい社会制度を得た。中国の孫文もそうである。そして日本の南方熊楠もそうだと言うのです」

「?」

マルクスとは、もちろん共産主義を唱え、彼の思想は実際に世界を動かしたのである。

孫文は中国の革命家であろう。南方熊楠とははたして誰であろうか。医師が私の困惑に助け船を出した。

「南方熊楠とは偉大な自然科学者であり、自然保護家です。変人であったことでも有名ですが、彼のお陰で日本の森は守られてと言っても過言ではありません」

 それにしても患者三号なる人物は正常人である私より知識を持ち合わせている。

「異常者の正常者を分ける定義とは、ありますか」

 この物語を始める時に、最初の部分で患者は目つきを見れば分かると大上段に言った。だが患者三号の話を聞いた時に、私にはすべてがあやふやになった。

 医師も困惑した。

「言葉では説明できるものではありません。人間が誰でも異常者になれます。戦争などが端的な例です。犯罪を犯す時にも正常ではありません。酒を飲んでもそうです。睡眠不足が極まった時にも幻覚に似た感覚を味わうはずです。もちろん学歴や本人の教養にも無関係です。ただ異常者は医師の助けなしでは正常に戻ることが難しいということでしょうか」

 医師は、そう説明しながら長く伸ばした髪を両手で整えた。

「彼の年齢は何歳ぐらいですか」

 患者三号の個人的情報に話題が及んだとたん動揺したように見えたが、すぐに彼は冷静に戻り応えた。

「私と同年齢ですから、五十歳ぐらいでしょう」

 外の騒動はますます慌ただしくなった。ひそひそと話す声が事件の内容を想像させた

「見つけたか」

「まだだ」

「困った。困った」

「早くしなければ検査に間に合わない」

 逃げ出した患者がいるようである。そして役所の検査か何かが迫っているようである。

 私の面接を担当する医師も落ち着かなくなった。彼はしきりに外の様子を伺うようになった。

 廊下の騒動が収まるのを見計らうように彼は、「今日は、これぐらいにしましょう」と小さな声で言い残し診察室を出て行った。

 彼が診察室から姿を消してしばらくして廊下の騒音は止んだ。

 私は彼が姿を消した患者を発見したにちがいないと想像した。そして彼は名医にちがいないと確信を深めた。もちろんこの心療内科の専門病院に再就職が決まった暁には大いに頼りになると期待もした。

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