第五章

Episode25

数日後、大倉がとても上機嫌になって店に入ってきた。前回とはえらい態度の違いである。


これは何か朗報があるに違いない――カウンターで、店主はひっそりと勘ぐった。


店内には、すでに泰造とアリスが訪れている。


泰造は外で一服、アリスはテーブルでユズキと仲良く対談中だ。常連のもいる。


大倉はそちらには目もくれず、カウンター席へ座るといきなり、


「娘が帰ってきたぞ」


と嬉しそうな声で言った。


イチコのことは、すでにカオリから話を聞いている。夕飯を作っていたら、向こうの方からひょっこりリビングに顔を出してきたんだとか。


「良かったじゃないか」


店主は笑顔を作った。


詳しい事情はともかく、喜ばしいことに変わりはない。


「家出じゃなかったのか」


「……どうだかな」


大倉は肩をすくめる。


「家を飛び出した理由は、結局分からずじまいさ」


「と、言うと?」


「イチコのやつ、教えたがらないんだよ。まだ打ち明けるつもりもないらしい」


両親にさえ簡単には言えないこと――きっと、よっぽどの事情なんだろう。


「まあ、イチコちゃんも年頃だからな」


店長はフォローを入れた。


大倉は、そうだな、とさほど気にした様子もなく頷いた。イチコが戻ってきてくれたことに、今はホッと胸を撫で下ろしているみたいだ。


「ところで、お前の娘はどうなんだ」


訊ねられる。


「カオリは相変わらずだよ」


店長は素っ気なく答えた。


母親がいない分、カオリの性格はしっかりとしたものだ。厨房で、いつも料理の手伝いもしてくれている。


「特に可もなく負荷もなく」


店主は言った。


「それはそれでどうなんだ」


大倉は苦笑する。


「気楽なもんだよ……ただ、最近ちょっと困っていてな」


自然な感じに話題を変える。


「どうしたんだ?」


大倉が怪訝そうな目を向けた。


「カオリちゃんが何かしでかしたのか」


「別に、あの子は関係ないんだが」と店長は続ける。「……最近、ピアノが聞こえてくるんだよ」


「ピアノ?」


「ああ」


コクリ、と頷く。


数日前から、二階では奇妙な出来事が起きている。


喫茶店の仕事で人が全員出払っている時間帯に、何者かが勝手に妻のピアノを使って二階で演奏しているのだ。


「妻が生前好んで弾いていた曲が流れるんだ。名前は、すっかり忘れてしまったが」


大倉はうーんと唸って、


「それはやっぱり、カオリちゃんが弾いているんじゃないのか?」


「いいや」


首を振る。


「うちは、妻を除いて誰もピアノは弾けないんだ。だから、余計に不思議で」


ユズキもピアノの置いてある部屋に寝泊まりしているとはいえ、とても経験があるようには見えない。


「幽霊の仕業かもな」


大倉が冗談っぽく言う。


「馬鹿にするなよ」


店長は口を尖らせた。


「死んだ奥さんが、ひょっとしたら戻ってきてくれたのかもしれないぞ」


まさか、と店主は独りごちた。


妻は一〇年以上も前に死んでいる。もうとっくに成仏しているはずだ。


「不思議なこともあるもんだ……」


頬杖しながら、大倉が呟く。


全くだ、と店主も思う。


バックミュージックに耳を澄ますと、軽快なピアノジャズの裏に、微かに別の旋律が混じっていることに気づいた。


聞き慣れた懐かしいメロディ――妻が鍵盤を叩く音、彼女らしい、独特の強弱つけ方……。


しかし、時折手が止まったり音が外れたりするので、残念ながら、やっぱり演奏者は彼女の幽霊ではないということが分かる。


店長は、犯人を突き止める気はなかった。


できることなら早く、もっと上達してくれると嬉しなあ、とこっそり思う。



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