第2話 不安は尽きない


 ここで、私と、今回初めてコミケに一般参加する三女とについて幾つか話をしようと思う。

 私の実家は、千葉県の松戸市と柏市の境目にある町である。1963年、その町の商店街で、私の祖父が営業写真館を開業した。以来父が後を継いで社長となり52年、写真館はこの地で営業を続けている。私はその家に長男として生を受けた。

 父は映画好きで、私はその影響をもろに受けていた。幼稚園の頃から、私は父のレーザーディスクやビデオでゴジラ映画やスタジオジブリ、黒澤明の映画を観て育った。映画だけではなく、ウルトラ初期三作、サンダーバード、また当時NHKで放送されていた『カードキャプターさくら』等を観て、すべてに心を奪われ熱狂していた。後から生まれた妹たちも、私の趣味には少なからず影響を受けている。

 妹は3人居て、上は現在大学3年生、2番目は高校1年生で、3番目の、件の妹は中学2年生である。

 今回、1日20万人が来場すると言われているコミックマーケットに末の妹を引率するのは、正直かなり不安であった。

 この三女は、軽い発達障害を抱えているのだ。

 小学校に入るまで、家族は勿論、本人にもその自覚はなかった。だが小学1年生として学校に通うようになって以来、どうしても勉強についてゆけず、ふさぎがちな日々を送ってしまっていた。長女が軽度のアスペルガー症候群であるので、母は「もしかすると」と思い、妹を病院で診てもらった。

 例えば妹が小6になったとする。しかしその時妹の理解力等は、実際には小3以下の状態である――。

 母はそう言う言い方で我々兄妹達に説明した。

 妹は現在、中学で特別支援学級に通っている。身障者を対象としたクラスである。妹はどちらかと言えばかなり軽度な方なので、むしろ一般学級にした方がいいのでは、と思えなくもなかったのだが、小学校以来特別支援学級で過ごしていたためか、学力が追い付かない状態にあった。一般学級に入れるのも酷である。

 そんな妹は、私や長女の漫画を好んで読んでいた。『封神演義』にハマったのも、そうして借りて読んだ漫画がきっかけだったのである。

 比較的平和に過ごしてきたこの三女は、満員電車にも乗ったことが無い。部活で都内遠征などに行くような生活を送っているわけではないので当然と言えば当然である。

 そんな妹が、あのコミケの人混みに果たして耐えられるのか。更に言えば、ビッグサイトの広大な東1,2,3ホール、東4,5,6ホール、西ホール、新しくできた東7ホールなどの敷地内を歩き回る体力が、この妹にあるのだろうか……。

 不安は尽きない。

 


 12月30日払暁。

 東の空に未だ朝日も顔を出していない時間帯に、私は「戦場」へ赴く支度の総仕上げを行っていた。早い話が持ち物チェックである。

必要なものは、何をおいてもまず、軍用金だ。

 一週間前に銀行で下した3万円は、その日のうちに千円札30枚に両替しており、封筒に入れていた。また、普段使用している財布には1万数千円が入っており、この4万円弱が今日の私の資金である。3千円分のチャージを済ませたスイカと、免許証が入ってある高校時代から愛用している定期入れも忘れていない。

 コミックマーケット開催期間中、国際展示場の切符売り場は、切符を買う客と交通系ICカードにチャージをする客で毎回大混雑する。だからこそ、カードには前もって余分にチャージをしておくのが大切なのだ。妹にもその点はきつく言ってあり、昨日の内にチャージを済ませたらしかった。

 運転免許証を持っているのは、普段から定期入れに入れているからだが、これは成人向け同人誌を買う際の年齢確認証にそのまま使える便利なアイテムとなる。それに、仮に不測の事件や事故、災害に巻き込まれて「もしも」の事があった際、顔写真付きの身分証は身元確認に大いに役立つ。

 何故3万円を千円札に両替していたか、疑問に思われる方もいらっしゃると思われる。釣り銭対策だ。

コミケのサークルには、壁沿いに出展している大手のサークルや、「島中」と呼ばれる場所に出展する中堅~少部数サークルがある。私は島中サークルばかり回るので特に重要なのだが、なるべくお釣りの無いように買うのがマナーの一つである。少部数サークルだとそこまで多くの釣り銭は中々用意できないからだ。(逆に、午後になると高額紙幣が重宝される場合がある。午前中にたまった小銭を釣り銭としてさばける為である)

同人誌の値段は、別に決まりがある訳ではないが、5百円や千円の、割り切りやすい値段付けが多い。無論、中には3百円、4百円の値段の物もあるが、基本は5百円、千円と考えて良い。だから、千円札を持っていくのもいいのだが、本来ならば、5百円玉を持っていくべきなのだ。なぜ今回は千円にしたのかと言うと、今日買う予定の同人誌を考えての事だった。

今回は小説や評論系の同人誌が多く配布される日でもある。それらの同人誌は値段が千円代のものが多いというのが、何度かの同人誌即売会で感じた事だった。漫画同人も購入予定だが、どちらかと言えば今回の目当ては小説等であったので、私は千円札を優先したのである。

次に必要なのが防寒着である。実は今回、私は我ながら馬鹿だと思うのだが、スーツでコミケに一般参加したのである。コートは私がボーナスで購入したロングコートで、丈は脛の半分まで届く。ナチスドイツの将校が着ていたようなデザインのコートで、即ちかなり「かっこいい」。非常に気に入っていたのだが、中々着る機会に恵まれず、ならばと、コミケに着ていくことにしたのだ。

貼るタイプと手に持つカイロを鞄に詰め、マフラーと手袋も確認する。

その後に肌着を二枚重ねにして、上にワイシャツ、背広を着て取敢えず完全に起床した。カタログと目当てのサークルを記入したサークル配置図(俗に『宝の地図』と呼ばれる)と敷物も鞄に詰めこんだ。(敷物は、開場までの時間並んでいる時に座るときに使用する。折りたたみ椅子も持っているのだが、嵩張るので今回は持っていくことをやめる)

先程から物が詰め込まれている鞄は、ドンキホーテで購入した、そこそこ容量が大きいトートバッグである。それの他に同人誌を入れる、とらのあなで同人誌を購入した時に入れるビニール袋を三枚持った。この中に冊子を入れて、更に会場でコミケ限定の紙袋も買う予定でいた。前回の夏コミで初めて購入したが、思いのほか重宝できたので、今回も会場の紙袋を頼ることにする。


洗面所に行くと、妹が髪をとかしていた。

「お早う」

「うん、お早う」

 すっかり目が覚めている状態だった。人生初のコミックマーケット参加に気分が高揚しているのだろうか。

私も寝癖をとかし、髭を電気剃刀で剃っていく。折角賞与で買ったお気に入りのコートを着て、慣れないお洒落をするのであるから、身だしなみは整えておきたい。

一階リビングに下りると、祖母が既に台所に立っている。

今回は母が車で八柱駅まで送ることになっていて、バスの時刻を気にする必要はない。

 祖母の切ってくれたリンゴを食べながら、私は妹の持ち物に不備が無いか確認した。

 今回、みゆき先生のブースに行くのが第一目的と言う事で、事前に妹へある提案をしていた。

「そんなにみゆき先生の絵が好きなら、スケブ描いてもらったら」

 同人誌即売会ではスケブを描いてもらう事はよくあるが、初参加の妹は、そのような事が出来るなど夢にも思っていない。

スケッチブックは、未だ何も描かれていない真っ新な新品を妹が持っていたので、そちらを持っていくことになったのだ。

「ちゃんとリュックに入ってるよ」

 普段通学にも使用している大きめのリュックである。

 財布、交通系ICカード、カイロ、マフラーや手袋といった防寒具、レジャーシートなど、一応私が「持って行け」と言ったものはリュックに収まっているようだった。

 私はカップラーメンを二つとって、お湯を注いだ。

「ラーメン?」

 祖母が訊いてくる。

「そう。朝食は絶対に摂っていかなきゃ。夏コミは特にだけど、冬でも案外汗は掻くから」

 カップ麺の塩分は濃い。だから、私はよく夏コミの朝などはカップラーメンを食べてから出かけている。塩分を蓄えておくためだ。

 コミケのカタログには、何十ページにも渡って漫画の一コマレポート、「まんレポ」なるものが有るのだが、その中で夏コミ終わりに担担麺を食べた人が、「全く味がしなかった」と書いていたのである。それ程汗や水分が流れ出ていたという訳だ。それを読んで以来、コミケの朝は濃い食べ物や飲み物を口にしている。

「ちゃんと食えよ」

「はーい」

 妹はカップ麺が嫌いではないので、文句も無く食べ始める。

 その後、私たちは母にJR武蔵野線八柱駅まで送ってもらった。

 車から出ると、北風が吹き付けてきた。まだ東の空がほんのり白んでいるだけである。最も寒い時間帯と言えるが、防寒対策をしっかりしていたお蔭か、耐え切れない寒さではない。

「人ごみに慣れてないからね、しっかり引率してよ、お兄ちゃん」

 母は帰る間際、私にそう言った。半分冗談で半分は本気である。

 振り向くと、妹は上着のポケットから交通系ICカードを取り出して、改札口近くで私を待っていた。

「今行く」

 私は改札へ駆け足で向かった。東京行の電車は五分後に出ると掲示板に表示されている。年末の早朝とは言え、思ったより駅は人が多かった。この中で、誰がコミケまで行くのだろう。いつも思う事である。

 そういう我々はどうなのか。はたから見れば、ロングコートに身を包んだ黒づくめの青年と、ピンクのジャンパーを着た少女と言う組み合わせのこの二人が、コミケに行くなどとはとても想像はできまい。いくら変人の多いコミケであっても、この二人組は浮くだろう。これだけは確実に想像できた。

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