十二曲目 JOY②

 東の空に昇る朝日。朝の澄んだ空気が、キラキラと照らし出されている。家の近くの公園に設置されている時計に目を遣ると、時刻はまだ五時半だった。


 基本的に早起きは苦手だったが、今日だけは自然とすんなり目を覚ますことができた。


 朝が苦手なせいで昇る朝日を見るのは随分と久しぶりだったが、これはなかなか気分が良い。自転車に乗って切る風と相まって、一層爽やかな空気を感じられた。

 最近はバスに乗ることも多かったけれど、早朝ということもあって自転車を選んだ判断は正解だった。まだ誰もいない住宅街を颯爽と駆け抜ける。


 だけど、これから向かう場所と目的を思うと少しだけ緊張した。もちろん明確な目的がある。でないとこんなに朝早くから出かけたりはしない。


 この作戦を思い付いたのは昨晩、ライブから帰宅した後のこと。自分としては珍しく、思い立ってから即行動に移すことにした。

 思い付きと勢いだけで家を飛び出してきてしまったはいいが、いざとなるとやはり不安は付き纏う。これは本当に成功するのだろうか、逆効果になりはしないだろうか、そもそもに会えない可能性だって――いや、きっとそんなことは有り得ないと、そう信じたい。彼女なら、必ず現れる。だから、わたしはわたしの出来ることをしよう。


 背筋を伸ばして、前を向いて、大きい声で話そう。だから、緊張なんかしていられない。せめて今くらいはリラックスしていよう。

 これは彼女とわたしの真剣勝負。勝ち負けのはっきりした戦い。来たる戦いに備えて、吹き抜ける風を大きく吸い込んだ。




 わたしの家から見て、先日行った故郷や市民会館とは反対方向に自転車で走ること約三十分――今日の目的の地がようやく見えてきた。いや、目的のと言った方が正確だろうか。

 蒼く煌く水平線に、何隻かの船が浮かんでいるのが見える。わたしはゆっくりと堤防の上に自転車を止めた。

 砂浜と海のコントラストがよく映える――わたしは無心で遠くの大型船を見つめながら、この一月半に思いを馳せた。


 高校に入学して、いきなり現れた『自称幼なじみ』。第一印象は最悪だったのに、今ではすっかり打ち解けつつある。なんだか不思議だ、こんな出会ったばかりの男の子と知らない土地を散策することになるなんて。まさかよりによってこのわたしが、だ。それだけじゃない、唯一友達だと言えるあのセリちゃんと仲違いをしてしまった。天真爛漫な女の子と、引っ込み思案のわたし。女子同士の不穏な噂も学校ではよく耳にするけれど、自分には無縁の話だと思っていた。それがもう今では、対岸の火事だなんて流暢に構えていられる状況ではない。

 こう考えてみると、本当に色々なことがあった。そして昨日は、憧れのLGMのライブに初めて行って――そこまで記憶の振り返りが及ぶと、視界の端に人影が一つ、現れた。


 やっぱり、来た。小刻みに弾む吐息、リズミカルな足音、揺れる黒髪。


 そこには本日のお目当て、ランニング中のセリちゃんの姿があった。

「……なんでマナちゃんがいるの?」

「セリちゃんを、説得しに来たよ」

「まだ諦めてなかったんだ」

「絶対諦めないって、そう言ったじゃん」

 彼女はわたしの姿を認めると、徐に立ち止まった。距離にして、約十メートル。少し遠いとは思うが、現時点においてこれが二人の心の距離ということだろう。

「マナちゃんがいくら諦めなくても、無駄なことだよ」

「絶対にそんなことはない」

「あるよ。だって、もう私の気持ちは変わらないもん」


 明らかに嫌そうな表情の彼女。もうかつての天真爛漫な少女の面影はどこにもない。冷たい彼女を前に、わたしの手足は震えている。だけど、そんな態度は相手には見せない。わたしも怯まずに続けた。


「――正直ね、この前セリちゃんが『辞める』って言った時、何も言えなかった。どう声を掛けていいか分からなかった。ただ辞めてほしくないって気持ちが溜まっていくだけだったの」

 つい下を向きそうになるのをこらえて、代わりに空を見上げた。

「その気持ちを抱えたまま、昨日ライブに行ってきたの。知ってるでしょ? LGMっていうボーカルグループ。それでね、すっごい楽しかったんだ」

「何が言いたいの? 良かったねとか、羨ましいとか言ってほしいの?」

「ううん、違うよ。そこで分かったんだ――セリちゃんに

 そう言った途端、彼女の表情が変わった。半信半疑な様子ではありながらも、話に食いついている。

「だ、だからそんなの聞いたって、辞めることは変わらないから」

「嘘だよ。だって辞めるって言って帰ろうとした時、一瞬教室の中の様子を覗いてたの、見てたから。その時の横顔を見て感じた、本当は歌いたいんだって」

「そっ、それは……」

 明らかに動揺している。図星だ。


 わたしはあの日、見逃さなかった。セリちゃんが教室を覗く姿を見て、本当は続けたいんだって確信した。

 だからこそ、なんとしても引き留める方法を探し続けた。

 それが昨日、ようやく分かった。


「それに今、セリちゃんこそ何でこんな所にいるの?」

「こ、これは習慣で……」

「セリちゃんが前に言ってたこと思い出したんだ。いい歌を歌うためには体力も必要だから、毎朝ランニングしてるって。今ここで会えたってことは、セリちゃんがまだ諦めたくないって思ってるってことだよ」


 彼女も必死で言い返そうとするが、何も言い返す言葉が出てこない。やっぱり図星だったようだ。攻めるなら今がチャンスだ。


「それでね、セリちゃんに足りないもの、それは――楽しむことだったんだよ」

「楽しむ……?」

 もうすっかり私の話に耳を傾けてしまっている。こうなったらしめたものだ。

「そう、楽しむ。それだけだよ」

「ただ楽しむことが足りないだなんて、そんな」

「じゃあ、セリちゃんはなんのために歌っているの?」

「そりゃあもちろん、歌手になるためだよ」

「最初からそうだった?」

「もちろんそうだよ」

「よく思い出して、本当の本当に一番最初だよ」

「だから本当だってば、前にも話したでしょ」

 しつこいとでも言いたげな彼女は、強情にも否定的な返答を続けている。このままでは埒が明かないので、わたしは賭けに出ることにした。


「違うよ、それはあくまでも歌手を目指してる単なるでしょ?」

「――何が言いたいの」

「歌手を目指す前、だから唯一の友達を失う前から、本当は一人で歌ってたんじゃないの?」

「なんでそれを、マナちゃんが知ってるの……?」

 さっきは賭けだと言ったけど、本当はほとんど確信していた。だって――

「だって、楽しそうに歌う友達を見て、自分も歌いたいって思わないはずがないもん。わたしがそうだから」

 何も言えずに押し黙る彼女。その泳ぐ目をわたしはしっかりと見つめていた。

「それに、だからこそ彼女の代わりに歌手を目指そうって思えたんでしょ。その気持ちがなかったら、代わりに歌手を目指そうなんて発想は生まれない」

 どうやら痛いところを突かれているらしく、俯いたまま顔を上げない。わたしは構わずたたみかける。

「その時は決して歌手を目指そうなんて思ってなかったはず。ただ心の底から楽しいと思って歌っていたはずだよ」


 わたしも言いたいことは言い尽くし、二人の間にしばし静寂が訪れる。

 さて、あと一息。ここからどう決着をつけようか考えていると、セリちゃんが徐に話し始めた。

「本当はね、マナちゃんの言った通りなの。今言ったこと全部。正解だよ、すごいねマナちゃんは」

 苦笑いをしながら、彼女は遠くの海に目を向けた。

「最近、全然楽しくなくってさ。今頑張らなきゃって、焦ってたせいかな。しかもそこにメンバー落選が重なって。無理して明るく振る舞ってたけど、完全に折れちゃった。死んだ友達にも、もう十分頑張ったからいいでしょって言い訳して。第一始めから、歌手になりたいっていうのは私の夢じゃなくてだったわけだし」


 今度はゆっくりとこちらに向かって歩きながら、落ち着いた口調で話す。そこには、これまでのような悲壮感は感じられない。

「だけど、マナちゃんに言われて思い出したんだ、ずっと忘れてたこと。一番最初は、ただ楽しかったんだって。歌は上手いだけじゃダメだってあの時分かってたのに、いつから忘れちゃったんだろうね。それを溶かしてくれたのはマナちゃん、あなただよ。ありがとう」

「セリちゃん……」

 二人の距離は、ほんの五十センチ。目の前には、いつも通りの天真爛漫な笑顔があった。わたしはホッとして身体の力が抜けそうになったけど、必死に堪えた。


「――でも私、これじゃあ歌手を目指すモチベーションを保てるか、ちょっと不安だよ」

「え?」

 彼女の説得には成功し、元の彼女を取り戻すこともできた。だけど、こんな問題が残っているのは盲点だった。

「だって、今まではあの子のためにっていう強い意思があったけど、今はもうそうじゃなくなっちゃった。それに、例え歌手になったところであの子の家族には許してもらえるか分からない」

 わたしもさすがにここまではプラン外で、どうしたものかと悩んでしまう。


「実はあの事故以来、その家族とは話してないんだ。責められるのが怖くて、ずっと避けて過ごしてきたから」

 だけど、解決策はすぐに浮かんだ。解決するかは分からないけど、前に進む方法ならある。彼女の話を聞いて思いついた。

「あの日の呪いが解けない限り、やっぱり歌い続けるのは――」

「方法なら、あるよ」

 わたしがそう言い放つと、彼女は驚いたように目を丸くした。

「その家族に、会えばいいんだよ」

 わたしは、自信満々にそう答えた。

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