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第1話 気が滅入る仕事

発達しすぎた技術、それは現実と虚構の境界線を限りなく見えずらいものにしてしまう。人々は技術の恩恵こそ享受するが、それそのものの仕組みを理解しようとはしないからである。


 しかしそもそも現実とは何か。人間の感覚器官を刺激し電気信号となって脳へ伝達された普遍的な現像を現実とするならば、皆が同じように観測できる虚構もまた現実になってしまう。


 つまるところ両者にはっきりとした差異はない。現実などと言うものは言ってしまえば主観の拡張だからだ。




 2111年現在、世界中に電子の網が張り巡らされ人間の文明的な活動にはネットが必要不可欠になっている。人々は首の後ろ、脊椎の上部に埋め込んだ小さな生体端末SBPT(Sub-brain processing terminal)によって自身の体をネットに接続して、あらゆる刺激によって各感覚器官から発生する電気信号を端末で任意に増幅し、脳に伝達して現実を拡張して生活している。


 また、見たもの触ったもの嗅いだものの情報を電気信号に変換して、接続しているネット上でそのまま検索することはもちろん、任意の相手との距離を隔てての触覚、視覚、嗅覚の共有が出来る。会話、データのやり取りが出来ることは言わずもがなである。


 一般的には単にSB端末と呼ばれることが多い。この技術が確立され徐々に広まっていった頃は宗教的や精神的な理由などでSB端末を埋め込む手術に強い嫌悪感を抱く人も少なからず存在したが、この技術によって享受できる恩恵を目の当たりにするとその抵抗も長くは続かず半世紀もたたないうちに端末の装着率は世界の人口の60%を超えていた。


 もっとも前世紀に世界各地で頻発していた内戦や紛争の名目上の原因が宗教にあったこともあって世界が宗教という概念に疲れ始めていたことも理由の一つではあるが。


 残りの40%はほとんどが経済的な理由によって手術を受けることが出来ない人々であった。




 そんな現実と虚構の差が限りなくゼロに漸近するあやふやなこの世界...。


 しかしこの世界においても、今回の仕事があまり愉快でないことだけははっきりとしていた。




       ◆        ◆        ◆




 5月5日(水) 02:00


彼女は薄暗い路地裏でじっと身を潜めていた。薄汚れた室外機やゴミ箱が列をなし、明滅するネオン管だけが唯一の光源だ。


『なかなかタフだね、彼』


彼女の聴覚器官にSB端末を通して思考音声が語り掛けた。


「その発言、時と場合によってはセクハラですよ」


 こうして通りある風俗店の出口を見張ってもう3時間になる。そろそろ事が終わってもいい頃なのにターゲットはなかなか出てこない。


ターゲットの情報はおおむねそろっていたし依頼人の知りたがっていることを自白させる為の下準備も出来ていたのだが、こうも長引くとは思っていなかったのかはたまた彼の発言が不愉快だったのか、彼女は小さな声で毒づいた。


『いやごめんごめん。退屈しているのは俺も同じでね』


 謝る気などさらさらなさそうに思考音声の彼が言うと、彼女はそれにため息のような微笑をもって応えた。三時間その場で誰にも気づかれずに待機していること自体は苦では無かったが、依頼の内容が内容だけに当初の緊張感を失い始めているのも無理からぬ話だった。


彼らを小馬鹿にするように、一匹の蝙蝠コウモリが頭上を旋回する。ターゲットの男はまだ出てきそうにない。




『しかし笹原君の視界は全くノイズがないね。本当に自分がそこにいるように感じるよ』


「生体義眼のおかげです。と言うか勝手に視界に侵入しないで下さい、ターゲットが出てきたらこちらから知らせますから。そもそも実際にクラッキングを仕掛けるのは所長なんですからしっかり準備しておいてくださいね。」


『昼間も言ったろ、準備はできてある。でなけりゃ君との会話を楽しむ余裕なんてないよ』


「まぁそれはそうですけど・・・」


 暇を持て余してのんきに無駄話を始めた雇い主に彼女が文句を重ねようとした時、店の出口が開きターゲットの男が出てきた。


 若い女が男の腕にくっついている。店の前で何やら楽しそうに会話しており女は時折男の肩を軽くたたきながら笑っていた。しばらく談笑したのちご機嫌な様子で男は店の前から去って行く。女は手を振りしばらく見送ってそそくさと店の中に戻っていった。次の客が待っているのだろうか。


 彼女は喉元まで出かかっていた文句を飲み込み路地裏を伝いながら男のあとをつけていった。


 男は酒でも飲んでいるのかふらふらとした足取りで面妖な色の看板輝く通りを歩いていく。これらの看板はSB端末を通してのみ知覚することのできる看板であるので、端末の設定で周辺施設の情報受信をオフにすれば視界から消すこともできる。しかしそれでは男がいまどこの店の周辺を歩いているのかわからなくなってしまう為、彼女はこの艶めかしい光を渋々網膜に転写しているのだった。


「風俗街ってどうしてこんなに下品な色使いなんですかね。それとも男性としてはこの光が魅力的に見えたりするんですか?」


 彼女はターゲットをしっかりと視界にとらえて追跡しながら、先ほどの仕返しとばかりに質問を投げかけた。


『本能的に興奮する色だからじゃないかなぁ、粘膜の色だし。行ったことないから詳しくは分からないけど』


 彼はよく考えずに思ったことを口にした。


「意外とヘタレなんですね、所長って」


『君ねぇ・・・』


 通りの真ん中に差しかかったところで男に一人の女がかたことな日本語で話しかけてきた。どうやらうちの店に寄って行かないかとセールスをかけているらしくしきりに男の肩や腕に触れて妖艶な笑顔を振りまいている。


「あの女ですか?」


『そうだ。ご丁寧にターゲットに触れてくれている。ターゲットのSB端末はもうクラックしたよ』


 彼の声音から、事務所で不敵な笑みを浮かべていることが彼女には容易に想像できた。


 男は客引きの女に対してなんだかはっきりしない受け答えで、断ったのかどうかも判然としないまま再び通りを歩き出した。


 ターゲットは暫く通りを歩いたのち、少し狭く誰も居ない路地裏に入り込んだ。そして当然立ち止まり、まるで向かいに何者かが居るようなそぶりを見せた。


「〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇・・・?」


 若干迷惑そうな顔をして男が突然受け答えを始める。


「またか、これで二回目だよ。いやぁ実はこう見えても所帯持ちなんだ、それに今から帰るところだからそっちに寄ってくつもりはないよ。金もないしね」


「・・・・・・~。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」


 しばらくの沈黙を置いて男が再び話し出す。


「それはまぁ、魅力的だけどね。今からだと朝になる。さすがに朝帰りはまずいよ・・・」


 男は酔いのせいもあってかご機嫌な様子で、まんざらでもない風に“何もない空間”に向かって断った後、路地裏を隠れるようにして去って行く。


 彼女はその異様な光景を黙って眺めていた。


「録画できましたか?」


 男が去ったことを確認して彼女は思考音声で彼に尋ねた。


『あぁ、高画質版でばっちりと。近くに監視カメラがあってよかったよ。君のSB端末に念のため仕掛けておいたプログラムは消去しておいたから』


「いったい何人の客引きにクラッキングプログラムを仕掛けておいたんですか?」


 彼がクラッキングプログラムを仕掛けておいた女がターゲットの男に話しかける保証は無いはずだったので、彼女のこの疑問はもっともだった。


『あの風俗街の客引き担当全員だよ。と言っても君のと同じで圧縮形式で埋め込んでおいただけだけど』


「私が行く意味なかったんじゃないですか?」


『もし男がだれにも声をかけられずプログラムを感染させられなかったら、その時は君が頼りだったんだよ。これも昼間に言っただろ? この仕事は準備が本番だって。じゃあ事務所でまってるよ』


 そう言うと彼は通信を切断した。彼女は少し腑に落ちない様子だったが、初仕事がこうして無事に終わって内心ほっとしており、それ故に文句を言う余裕が生まれたことも理解していた。



 今回の仕事の依頼者はターゲットの男の妻である。


 婿養子であるこの男よりも一回り以上上の年齢でどこぞの資産家の令嬢であるそうだ。そのご令嬢から最近夫の行動が少し怪しいので調査してほしい、報酬は言い値で構わないと彼らの探偵事務所に依頼があったのだ。


 男はご令嬢の資産家一族が経営する関連企業の社員で、若くして役員に抜擢されている。そのためかどうかは知らないが経営者一家のお嬢様に見初められ、サラリーマンとしてはこれ以上はないと言ってもいいエリートコースを進んでいるはずの男が何故こんな所にいるのか、その理由は知らないし特に興味もない。下衆の勘繰りをするつもりはなかった。



 男のこの後の動向はもう監視する必要はなっかたし報酬はしっかり前払いだったので彼女はそのまま通りを歩いていき彼に借りたオートバイを停めてある駐輪場へと向かう。


 現在主流の電動モーター駆動の自動車は今の時代の技術をもってすればほぼ無音で走ることが出来る。しかし全く無音だと歩行者などに気づかれにくく非常に危険なのでわざと若干の駆動音がするようになっていた。


 それは彼の愛馬も同様だったのが、周りの自動車と比べると明らかに20年は古いモデルだった。モーター駆動でオートクルーズ(自動運転)機能はあるものの、法定速度を超過すると強制的に出力を抑える安全速度監視装置や無人運転機能は搭載されていない。


 デザインの面でも時代の流れを感じさせるもので、明らかに周囲の景色から浮いていた。


「全くどれだけ懐古趣味なんですかね、これが持ってる中で一番新しい乗り物って...」


 彼女はひとりごちながら居心地の悪い視線を感じつつ規則的な重低音を響かせ駐輪場を出て大通りを抜ける。自動運転の車の間をすり抜けながら自宅兼事務所へ向けてアクセルを絞った。



 超高層ビルが競うように立ち並び町中を直線的に整備された道路が駆け巡っている都市の中心から20㎞ほど、建物の高さも幾分か親しみやすくなり道路も有機的に曲がり始めた街の海沿いに彼らの事務所はある。



「おかえり、笹原君。依頼人に録画の送信はさっき済ませたよ。しっかり女の映像も合成してね。で、初仕事はどうだった?」


 彼は居間(として使っている部屋)でコーヒーを飲んでくつろいでいた。笹原と呼ばれた彼女が一昨日必死に片付けたおかげでかなり整頓されている。


「はい、あまりにあっけなくて正直何が何だか...。そもそも私は何もしてませんからね」


 彼の差し出すコーヒーを受け取りながら彼女は続ける。


「接触回線を経由して対象にクラッキングを仕掛けるコンピュータワーム、でしたっけ?。しかも仕掛けた人間の端末から任意の人間へ感染させることが出来るなんて...。この小さなプログラムだけであの男にダミー映像を見せていたなんて信じられないです。でも本当に誰かと話してるみたいでした...」


 目の前で起きたことを仕組みとしては理解出来ていたが、事実として受け入れることはまだ難しいようだった。


「話してるみたい、じゃなくて実際に話していたんだからね。彼にとってあの会話はリアルだよ。こういった仕事の性質上ターゲットと直接接触することは今後の仕事の障壁となる。だから俺とターゲットの間に一人二人挟む必要があるんだよ。ターゲットに接触する可能性のある人間を風俗街で探すのは大変だったけどね」


 彼は饒舌に語りながら煙草を取り出し火をつけた。先から紫煙が立ち上り層流は乱流に変化して吐き出した煙とともにゆっくりと天井に広がっていく。一息ついた後も彼は続ける。


「まぁ今回君に男の追跡を頼んだのは、客引きの女経由でのターゲットへのクラッキングが失敗した時の保険と言うよりも、次の仕事に向けて俺の仕事の概要を掴んでもらう為だよ。と言っても次の依頼はこんなに簡単ではないけどね」


「分かっています。もともとはその仕事が私の初仕事になるはずだったんですからね」


「市原も無茶な依頼をするよまったく。元軍人の君にいきなり頼む仕事じゃない」


 彼は心底呆れているようで、深く吸い込んだ煙を一気に吐き出した。


「私のようなものに新しい場を用意して下さっただけで市原さんには感謝しています」


「まぁ君がそう言うのならいいけどね。明日は明日でやることがあるし俺はもう寝るよ。睡眠不足はいい仕事の敵だ」


 そう言うと煙草をもみ消して、居間の右奥の扉を開けて自室に引っ込んでいった。


 一人残された彼女は暫く居間で冷めたコーヒーを飲みながら今日あったことを反芻はんすうしていたが、彼の明日はやることがある、と言う言葉を思い出して居間の左奥の扉を開けて自分の部屋に帰って行った。


 彼らの住むこの事務所はもとはどこにでもあるぼろいアパートだったのだがオーナーが何故か何度も変わっており、たまたま競売にかけられていたところを彼が土地ごと買い上げたのだ。いくつもある部屋はそれぞれドアで繋いでおり、敷地全体には外部との接続を一切必要としないセキュリティシステムを構築してあるが外観は元のボロアパートのままである。


 彼はこの寂れた街にあるボロアパートで“表向き”は探偵事務所のようなものをして生計を立てている。主な業務は個人の身辺調査で、ネット上で依頼を受ける形式だ。


 現在も爆発的な勢いで普及している生体端末SBPTのハッキングに長けており、その技術を使って探偵業務を請け負っている。今回の仕事のように個人の視界に侵入してダミー映像を見せ、その様子を録画したり、

街の監視カメラをハッキングして特定の人物の行動を監視したり...。


 彼自身薄汚い仕事をしている自覚は十二分にあったが、ハッキングと言う特技と探偵業務の親和性は驚くほど高く気が付けばいつの間にかこんな仕事を生業としていた。



 笹原は、先日ここに越してきたばかりのいわば新人である。


 床で寝ることに慣れないためなかなか寝付けないらしく、自室で窓の外をぼんやりと眺めていた。


 彼女の部屋のベランダから目視できる距離の海上には濃い煙に囲まれた人工島が浮かんでいた。スモーキーアイランドというテーマパークのような通称で呼ばれているが、実情は日本最大のスラム街だ。国内の浮浪者や戦後に流れ込んできた移民が住んでおり、ここの住人はもはや生命維持装置と言っても過言ではない端末を経済的理由によって装着できなかった、もしくは一度装着したが維持できなかった人々である。


 移民の大半は、端末がほとんど普及していなかった旧中国―世界大戦後4つの自治区に分裂―から流入しており、端末無しではもはや生活することすらままならない都市部には住むことはできない。だからと言って現在ほとんど人の住んでいない田舎の地方では仕事が無いので都市部に付かず離れずの位置に人工島を建設し移民や浮浪者などを住まわせている。彼らの主な仕事は都市部の清掃ゴミ収集、風俗などである。


 この人工島は政府主導で建設されており、移民の一画管理が目的であることは明らかだった。


 人工島と本土の間には定期便が出ており、彼らの行き来には厳しいチェックがなされる。しかし政府が力を注ぐのは、移民の本土における管理のみで島の中は無法地帯と言ってもいい状態だった。



 そしてこの隔離された島の中で、獲物を狙い息をひそめる獣のように、不穏な勢力が動き出していた。

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