第20話 それぞれの歪み

 重い瞼を開いていくと、すぐ近くに嬉しそうに俺を見ている伊澄の顔があった。


「おはよう」伊澄の小さな口が動く。


「おはよう」


 俺がいるのは、ベッドのようだ。床よりも高い位置にいて、柔らかい敷布団の上に座っているためそう判断した。場所の判断はできなかった。部屋と呼べる場所にいるかどうかも、充満している薄暗さでわからない。辛うじて見えるのはせいぜいベッドの末端くらいまでだ。少しでも手掛かりはないかと匂いを嗅いでみるが、近くにいる伊澄のものが邪魔をしている。


 伊澄は俺の両足の太腿の間に座りこみ、腕を肩に回していた。脚は右側に投げ出され、身体を捻っている。お互いの胸が当たるほどの距離だ。これほどの距離ならば少しくらいどぎまぎしてもいいのだろうけれど、過去の夜這いの件で完全に耐性ができあがってしまっていた。喜ぶべきかどうかは不明。


 俺の自由は首から上しかなかった。腕を背後に回され、手首には手錠の感触と金属どうしが擦れる音がしていた。足にも同様に手錠がされている。足と足を繋げているのではなく、鎖の長い手錠を使うことでベッドの支柱と繋げられていた。脚を広げることはできるが、ぴったりと閉じることはできない。膝も少ししか曲げられない。


 以上のことから考えて、俺はどうやら監禁されているようだ。いやはや、まさか初デートの最後がこれとは、なかなか酔狂なことをしてくれる。


「とりあえず……」俺は一向に目を離す気配のない伊澄に言った。「説明を頼む」


「ずっと一緒」


「ここはどこだ」


「私の秘密基地だよ」


「秘密基地、ね」俺は改めて、その秘密基地の内部を見回してみた。やはり奥の方は見えない。「日付はあれから変わってないのか?」


「うん、まだデートの日」


「ちょっと確認したいんだけど」


「いいよ」


「俺たち、公園にいたよな」


「いたよ」


「ベンチに座って話してた」


「間違いないね」


「それから、なんか意識が吹っ飛んだんだけど」


「うん、吹っ飛ばした」


「どうやって」


「スタンガンで」


「なるほど」


 ここまでの情報と記憶を整理。まず俺は伊澄とデートをしていて、夕方に行き着いたのは傍に駄菓子屋のある公園だった。ベンチに座って、話をしていた。たしか、公園の遊具がどうとかの話をしていたような気がする。それで、伊澄が子供のころを始めて……。


 意識が飛んだ原因は、伊澄の使用したスタンガンのようだ。いつ取り出したのかもわからなかった。


 そして気付いたら、監禁されていた――と。


「お前がここに運んだのか」


「他に誰がいるの?」俺の胸に、伊澄の頭の重みがあった。「私が大地くんといたんだよ? だったら私しかいないじゃない。ここにいるのは二人だけ」


 そうは言うが、とうてい信じられることじゃない。男子高校生を、それも意識を失っているとなれば相当な重量があるはずだ。俺の体重はだいたい六十キロくらいだけれど、それを華奢な伊澄が運べるのだろうか。少なくとも、長距離の移動は不可能だろう。


 だとすると、この秘密基地はあの公園からそう離れてはいない場所にある。その辺りは伊澄の地元らしいし、人通りの少ない道を選択したのかもしれない。


「もしかして不安なの?」伊澄が訊いた。「大丈夫だよ、私がいるから。なにも心配いらないよ。大地くんの望むことは全部してあげる。大地くんのことは私に任せて」


「じゃあ、早速なんだけど」


「なに?」


「自由にしてくれないか」


「いや」即答だった。わかっていたことだが、話が違うじゃないか、と言いたくなる。


「今何時だ?」


「九時くらい」


 なるほど、思っていたよりそう時間は経っていない。美咲や明日夏さんもこのくらいの時間ならば心配することもないだろう。俺はまずそのことに胸を撫で下ろした。


 しかし九時ともなると、照明の一つもなければ真っ暗なんじゃないだろうか。俺のいる付近は薄暗いだけだ。どこかから光が入っていると考えられる。月の光でどのくらい明るくなるのかわからないけれどその可能性もあるし、街灯という可能性もある。後者ならば、秘密基地は街中にある可能性が高い。少なく見積もっても、人によって管理しているものが近くにあるわけだ。


 完全に人気のない場所に連れて来られていなくてよかった。


 幽霊とか出てきそうだし。


「俺はずっとこのままなのか?」


「うん」


「学校には行けないのか?」


「私がここにいるから、学校に行く必要ないよ」


 別にお前に会いに行っているわけじゃない、とは言わなかった。こんな状況でも空気を読むなんて偉いぞ、俺。


「勉強できないじゃん」


「勉強がしたいなら私が教えてあげる」


「ほら、友達とかいるし」


「私が友達になってあげる」


「会いたい先生もいるし」


「勉強を教えてあげるから、私が先生だね」


「話したい親友もいるし」


「私とたくさん話せばいい」


「だけど、お前は俺の友達ではないし、会いたい先生でもない。話したい親友でもない。どれもお前じゃない。誰かの代わりになんかなれない」


「なれるよ」伊澄は俺と向き合った。「私はなんにでもなれる。誰にでもなれる。大地くんが求める人になれる」


 大丈夫、全部私になるから――と伊澄は言った。


 つまりそういうことなのだ。俺から剥奪してできた空白を、伊澄という人間で埋めようとしている。いつか必ずそうなる日が来ると、信じているのだ。俺は一介の高校生で、特別な訓練を受けているわけじゃない。いつかこの空間に耐えきれず、あるいは根負けをして、伊澄に従うことになるだろう。伊澄は、そのことを言っている。


 そして問題なのは、彼女には一切の悪意がないということだ。彼女にあるのは、俺に対する純粋な好意だけ。それが彼女を動かしている。それが彼女の生きる糧だった。今まで縋りついていたものだ。


 しかしそれは人に害をなしてしまうほどの純粋だ。綺麗すぎるがために、その眩しさで目を焼いてしまう。さらにその眩しさは、視界を覆ってしまっている。故に相手の姿が見えない。どれほどのことを自分がしているのかに気付けない。


 どう説得したものか、と考え始めたとき、携帯電話の着信音が鳴り響いた。少し音がおかしいが、間違いなく俺のものだ。


「電話かな」


「出たい?」伊澄が訊いた。


「まあ、許されるなら」


「いいよ。大地くんがしたいなら」


 ポケットに入っていた携帯電話を伊澄が取り出した。外側のディスプレイに『凛久』と表示されていた。


「誰?」


「ほら、お前に付き合って欲しいって伝言を俺に残した奴」


「ああ」どうやら思い出したようだ。


 俺の手は解放を許されず、伊澄が携帯電話を俺の耳に近づけた。伊澄の顔も近くに寄ってきていた。会話を聞くつもりなのだろう。


「こんばんは」凛久の声。懐かしい。


「どうした、こんな時間に」


「いやね、ちょっと気になることがあって」


「気になること?」自然と伊澄に目がいった。伊澄もこっちを見ていたため視線がぶつかりあってしまう。彼女は微笑んだ。


「きみの妹さん、えっと……雅ちゃんだっけ?」


「美咲だ」


「そうそう、たしかそんなだったね」


 人の妹の名前を間違えた挙句、そんなだったねとは、凛久じゃなかったら五体満足ではいられない身体にしてやるところだ。


「美咲がどうかしたのか?」


「彼女、部活入っているの?」


 質問の意図が、そして流れが掴めなかった。部活動に興味のない凛久が、他人の部活に興味を持つとは思えない。


「入ってないけど」俺は答えた。


「クラブとかは?」


「やってないな」


「じゃあテニスに興味あったりする?」


「いや……、それもない」


「んー、じゃあ、きみの妹さんはどうしてテニスバックなんて持っていたんだろう」


「え?」


「なんかね、テニスバックを持っていろんな店を回っていたよ。友達とか連れてなかったように見えたし、たぶん一人で」


「何時くらいだ?」


「七時半から八時の間くらいかな。まだ帰ってきてないの?」


 俺は言葉に詰まり、伊澄を見た。助けを求めるなど、下手なことは言えない。今の伊澄がまともな思考回路を持っているとは思えないからだ。彼女にとって不利な発言は、俺の身になにが降りかかるかわかったものではない。自由なき今は、この場を荒らさないことだ。


「まだ帰ってきてないな」


「なんなんだろうね」凛久はふっと息を吐いた。


「さあな」


「そういえば、この間小説貸しただろ? ちょっと内容で思い出せないところがあるから、開いてみてよ」


「いや……、今は手が放せないな」


「ケータイを肩で挟めよ」


「さっきからその状態だ」


「じゃあ、足で」


「無茶言うな」


「やだなぁ、もやもやしたまんまだよ……」


 俺の中にあった違和感が段々と大きくなっていた。凛久からの電話がきっかけではなく、美咲の話になってから、それは膨れ始めた。そして極めつけは小説の話。内容が思い出せない、これは嘘だ。凛久は一度読んだ本の内容は忘れないはずだ。だからこの話には意味がない。だったら凛久の目的はなんだ。


 伊澄の様子を確認したが、あまり疑っていないようだ。それは普段の俺たちの会話を知らないからだろうし、なんといっても凛久という人間がわからないからだろう。


「大地、今なにしてるの?」いきなり核心をついてきた。ただ凛久からすれば、ただの世間話の一つだ。俺の状況を知らないのだから。


「どうして」


「だって手が空いてないんだろう?」


「まあな」


「つまり忙しいってことだ、両手が塞がれるほど」


「いや、そんなことはない」


「そんなことはない? ああ、まあそうだろうね。本当に忙しいのなら、ボクと電話しているはずないもんね」


「そんなことねえよ。どんなに忙しかろうとお前の電話には出る。そうそう、小説といえば、ホールケーキが走り回ったあの場面よかったわ」


「ふうん。さてと、もう電話はいいや。また」


 唐突に通話を切られ、俺は返事をすることもできなかった。こうなっては本当になんのために電話してきたのか不明だ。もしかしたらただ美咲について訊きたかっただけなのかもしれない。


 美咲も不思議に思っているようで、悩ましそうな顔で携帯電話を閉じた。当然の反応だ。俺だって一人のときならそんな顔をしていただろう。


「よくわからない電話だったね」


「そうだな。いつもどおりだけど」


「私にもあんな会話できるかな」


「しなくていいって。お前はお前で、あいつはあいつだ」


「でも、いろんな私がいた方がいいでしょう?」


「どうして」


「いろんなことできるよ。ただ身体を変えられないのが残念」伊澄がより密着をしてくる。こいつがなにを言わんとしているかはわかっていた。「この身体で我慢してね。顔も変えられないし、できるのは髪型とか、衣装とか、内面だけだから。要望があったら言って。叶えてあげる」


「その気持ちだけで充分だ」


「気持ちだけじゃ嫌でしょう」


 ここまでの結論として、案外このままでもいいんじゃないかと思い始めている自分がいた。俺に不釣り合いなほど美人な伊澄にここまで言われて、拒絶するようであれば男子高校生として、男としてどうかしている。ここはもう、お願いしますと言うべきなんじゃないだろうか。


 ただその場合、手足の拘束という問題を度外視しなければならない。この様子だとなにがあっても解放されないだろうし、食事などの生活面もすべて伊澄が世話をしてくれるだろう。いたせりつくせりじゃないかと思う人もいるだろうが、しかし俺はそんな風に思うことができない。やっぱりどこかに違和感を抱くし、このままではいけないと自分に注意を促してしまう。


 それもまた時間の問題なのだけど。


 俺の精神、いつまでもつかなぁ……。


 そんな俺の不安を、雷鳴のような音が掻き消した。

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