行平3


 日に日に夢は鮮明になってゆき、僕に呼びかける声の主がはっきりした。


 同時に、あの子が行方不明になったことを知ることになる。

 どこへ行ってしまったんだ。やっと気づいたのに。こんなに夢に見るほど、君が好きだったのに。ゆき。


 手の届く距離で、もう一度君の声が聴きたい。



 初雪が降りはじめた寒い午後。ちらちらと風に煽られながら舞っているそれは、思い切り振って捻り出した人工の花びらのようだ。


 僕は二階の窓からぼんやり外を見ていた。

 夜が更けてきて、窓に自分の姿が映し出される。斜め降りの雪は窓を突き抜け、こちら側にも舞い降りる。いつしか僕の上にも、雪は降り積もる。


 あの子は雪の中にじっと立ち尽くしていた。僕は彼女が雪と一体になるのをじっと見続ける。それは未来のことなど考えない姿。現実とかけ離れた幻。


 僕は思わず裸足で駆けより、君をきつく抱きしめる。温めないと死んでしまうよ。僕のそばからいなくならないで。

 君がするりと僕の腕をぬけて、また雪の中に帰って行く。君は死ぬことを畏れないの? 真っ白く溶けて、そのまま逝ってしまうの?


「これくらいじゃ、死なないのよ」

 あの子がこっちを向いて、にっと笑った。



「どうしたの? 何があったの?」

 夜更けに彼女がやって来た。花束を手渡して仲直りした日に、彼女に合い鍵を渡してあった。

「風邪かな。熱があって眠れなくて。うなされていたみたいだ」

「たった二日寝込んだだけで、こんな風にはならないわ。そんなに痩せこけて幽霊みたいな虚ろな目をして」

「いや、多分、疲労しているだけだよ」

「明日は病院に一緒に行きましょう。何か口に入れるものを作るわ」

「ありがとう」

 本当は僕は口が重くて、いちいち開くのさえ面倒だった。風邪などではない。


 会社を休んで、昼間はいなくなった雪を捜し歩き、疲れ果てて夜に夢を見る。目覚めた瞬間、一日が始まる絶望に襲われる。こんなことなら永遠に眠っていたい。


 行平と雪の幸福な夢は、彼の昼間を徐々に擦り減らしていった。



 広場に二つ穴が空いている。片方は入口、もう一方は出口。どちらにも潜っていく階段が用意されている。

 ここは地下美術館です、と案内人が看板を片手にそう言う。その声で、さっきまで誰もいなかった広場にみるみるうちに行列ができてしまった。随分人気があるんだな。僕たちも行ってみようか。


 手を繋いで入口の列に並びながら、出口の階段を上って行く人たちの表情を観察する。面白かった顔でも、つまらなかった顔でもない、何も読み取れない能面のような表情。誰の会話も届かない。入口にも何の説明はない。手掛かりは何もない。


 一人がやっと通れる幅の螺旋階段を下まで到達すると、黒いカーテンがかかっていた。その前に「中には必ず一人ずつお入り下さい。青いランプがついたら、あなたの番です」と書かれた白い札が掛けられている。君に先を託し、僕の番が来た。光に包まれたその先にある世界。


 誰かが僕の体を揺さぶっている。やめてくれよ。もう一歩であのカーテンの向こう側へ行けるところだったのに。

 無理矢理に現実の扉の外に引き戻された僕は、かつて愛していたはずの彼女の顔を見つめても、欠片すら愛が湧いて来ない。あなたは夢にはただの邪魔者。


 夢の続きを見る方法はどうすればよかっただろう。僕の中で焦りが格闘し始めた。



 長い長い木のカウンターで眠っていた。うたた寝をしていた。


 僕の世界の中では空間は繋がっていて、この店の奥の扉を開けると、あの喫茶店があるんだ。あの子が紅茶を両手で包み込んで温かさを確かめている。

 想えば花のせいだったかもしれないね。君がいつも持っていたあの花は、君の代わりに僕にそっと手を伸ばしてきた。


 夢の中の君のまなざしは僕の心を貫いて、もっと遠くの光を追い求めているようだった。僕はその道筋を手で掠めようとするけれど、すり抜けて行ってしまうんだ。今なら捕まえることができるだろうか。


「ここにいたのね。心配したわ」

「やあ」

「あなた、久しぶりに私と目を合わせてくれている気がするわ」

「そういうあなたは今、僕を起こさずに見守っていてくれたんだね」

「本当は起こしたかった。でも、もう二度と私を許してくれない気がして。あれからずっと口をきいてくれないから」

「悪かった。ごめん。どうかしていた」

 彼女だけが、僕を引き止める役目を担っている。


「あなたを変えてしまおうとするものの存在が許せないの」

「ただ、夢をみるせいなんだよ」

「どんな夢なの?」

「毎晩追いかけられるんだ。そのたびに心臓が擦り減るんだよ」

 僕は本当にそんな気がして、自嘲気味に笑った。

「そんな夢ならば、起こした時に私を恨んだりしないでしょう。嘘つき」

「あなたを恨むだなんて勘違いだ。感謝してる。こんな僕を救おうとしてくれている」

「いやよ。何処にも行かないで。誰のところにも」


 たった一人の、僕とこの世界を繋ぐ人。最後まで抵抗してくれた人。





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